まだ消えてなかった。ほっとした...
1年くらい?ほっておいたのですが、そろそろ考える作業を再開したい。
おとといから風邪で頭がぼおっとしてますが、
そんな時こそ考えていこう。
実家が宮城にあって、さまざまなことが頭をよぎります。
自分が宮城出身だと主張したい欲求がある。
構ってほしい、甘えたい、何かをゆるしてほしい、
いい加減にしろ、だ。
自分が非力すぎる。こんな時は金と権力があったらと切に思う。
誰も励ませない。助けられない。
あとは体力もない。あればちゃんとバスで早めに実家に一度帰れたかも知れない。
今まで自分が何もできない段階だったけど、
やっと私が何かできる機会がきた。
実家が引っ越しすることになった。
休暇もとれたし、元気に実家に帰って3人を笑わせてあげよう。
あといらないものも捨てよう。
いつもは「いるかも知れないものはとっておく」だけど「いらないかも知れないものは捨てる」に。
(グレーゾーンは切り捨てなくては、今の段階では身軽になれない)
現地の様子が見たい。
私が大切にしてき場所、どんな風に荒れて(という表現はおかしいだろうけど)しまったのか見たい。
高校以降にできた友達の家は大体が仙台。
被害もあまりないような感じ。
私はまだ行方不明の知り合いが見つからないし、水も近くの地域まで来たみたい。
この差が辛い。
そしてもっと北にいくとさらに避難所でしか生活できない方々。
この差が辛い。
一番何もできない人の助けをしたい。けど、それほどの被害でなかった方々もそれで縮こまらないでほしい。
福島のようすはどうなんだろう。
私は名古屋、九州、そして幸せなことにドイツで
「危なくなったらおいで」
と言ってくれる人がいる。
気をつけすぎだと言われても、気をつけることに越したことはないし、ただだし、私はやる。
まだあれ以来エアコンを動かしてないし、マスクはして外出する。
また別のことを。
最近は休みはもっぱら図書室通いです。
まだまだ読みたい本が多すぎる。
もう一度読みたい本も多すぎる。
そしてそんな日々が幸せ。
最近、「英語ができるようになりたい」という友達がなんど身近に3人もいる。
外国語の魅力は本当にひろい、あらゆる意味で広い受け入れをしている英語。
でも彼女たちと私の違いが最近やっと分かってきた。
「英語ができる」ってなんだろう?
恐らく、彼女たちは「自分の言いたいことをクリアに言い、相手の言いたいことを芯まで理解する」
ということを身につけたいんだと思う。
私もそれはしたいと思う。
それすらできない私がこう思うのは大変失礼なんだけれども、
でも私はそれとは違う質のものを身につけたいと小さいころから願ってきた気がする。
外国語を聞いていると、私の内部に熱いものがせりあがってくる。
梨木香歩が「日本語の濃度が高まる」と表現していた。それが一番近い。
私は、実はこれを表現したい。
これが現在の私の最大欲求。
だから、彼女たちがしたいことと私のしたいことはちょっと違う。
彼女たちは自分のしたいことを、耳から学んでいくだろう。
私はそれはすごく苦手。リスニング能力は低いし、反射もあんまりよくない。
本から書き取りや読み取りをしていくという勉強の方が得意。
それがすごく悔しい。本当は彼女たちみたいに能力を会得したい。
でも、恐らく私の欲求には、今の自分がしているような書き取りとか読み取りをする方が合致しそうな気がする。
(というか、してほしい)
彼女たちは、私ほど言葉を信仰していない。
小さい頃からおかしいほど本につかってきてしまった私は、愚かな意味で言葉の意味と力に信仰心を持ってしまっている、
と言っても過言ではない。
言いたいことを言える、だけが外国語ではない。
私が今言いたいことをどんな方法で表現できるだろうか、
私が英語話者ならどうやって今言いたいことを表現できるだろうか、
文字と音の連なりをどこまで共有できるのだろうか。
これはもはや宗教に近い。
外国語に関して、私は非常に敏感で、ささいなことで不機嫌になったり考え込みすぎたりする。
それは愚かだ。
だけれど今までの私の歴史ブロックの一つでもある。
敏感にならないためには、私が満足できるくらい(そして自己満足にならないように)、勉強するしかない。
愚痴っぽくなってしまったけれど、
さあ、考えてい こう。
不規則でいいから考えていこう。
1年くらい?ほっておいたのですが、そろそろ考える作業を再開したい。
おとといから風邪で頭がぼおっとしてますが、
そんな時こそ考えていこう。
実家が宮城にあって、さまざまなことが頭をよぎります。
自分が宮城出身だと主張したい欲求がある。
構ってほしい、甘えたい、何かをゆるしてほしい、
いい加減にしろ、だ。
自分が非力すぎる。こんな時は金と権力があったらと切に思う。
誰も励ませない。助けられない。
あとは体力もない。あればちゃんとバスで早めに実家に一度帰れたかも知れない。
今まで自分が何もできない段階だったけど、
やっと私が何かできる機会がきた。
実家が引っ越しすることになった。
休暇もとれたし、元気に実家に帰って3人を笑わせてあげよう。
あといらないものも捨てよう。
いつもは「いるかも知れないものはとっておく」だけど「いらないかも知れないものは捨てる」に。
(グレーゾーンは切り捨てなくては、今の段階では身軽になれない)
現地の様子が見たい。
私が大切にしてき場所、どんな風に荒れて(という表現はおかしいだろうけど)しまったのか見たい。
高校以降にできた友達の家は大体が仙台。
被害もあまりないような感じ。
私はまだ行方不明の知り合いが見つからないし、水も近くの地域まで来たみたい。
この差が辛い。
そしてもっと北にいくとさらに避難所でしか生活できない方々。
この差が辛い。
一番何もできない人の助けをしたい。けど、それほどの被害でなかった方々もそれで縮こまらないでほしい。
福島のようすはどうなんだろう。
私は名古屋、九州、そして幸せなことにドイツで
「危なくなったらおいで」
と言ってくれる人がいる。
気をつけすぎだと言われても、気をつけることに越したことはないし、ただだし、私はやる。
まだあれ以来エアコンを動かしてないし、マスクはして外出する。
また別のことを。
最近は休みはもっぱら図書室通いです。
まだまだ読みたい本が多すぎる。
もう一度読みたい本も多すぎる。
そしてそんな日々が幸せ。
最近、「英語ができるようになりたい」という友達がなんど身近に3人もいる。
外国語の魅力は本当にひろい、あらゆる意味で広い受け入れをしている英語。
でも彼女たちと私の違いが最近やっと分かってきた。
「英語ができる」ってなんだろう?
恐らく、彼女たちは「自分の言いたいことをクリアに言い、相手の言いたいことを芯まで理解する」
ということを身につけたいんだと思う。
私もそれはしたいと思う。
それすらできない私がこう思うのは大変失礼なんだけれども、
でも私はそれとは違う質のものを身につけたいと小さいころから願ってきた気がする。
外国語を聞いていると、私の内部に熱いものがせりあがってくる。
梨木香歩が「日本語の濃度が高まる」と表現していた。それが一番近い。
私は、実はこれを表現したい。
これが現在の私の最大欲求。
だから、彼女たちがしたいことと私のしたいことはちょっと違う。
彼女たちは自分のしたいことを、耳から学んでいくだろう。
私はそれはすごく苦手。リスニング能力は低いし、反射もあんまりよくない。
本から書き取りや読み取りをしていくという勉強の方が得意。
それがすごく悔しい。本当は彼女たちみたいに能力を会得したい。
でも、恐らく私の欲求には、今の自分がしているような書き取りとか読み取りをする方が合致しそうな気がする。
(というか、してほしい)
彼女たちは、私ほど言葉を信仰していない。
小さい頃からおかしいほど本につかってきてしまった私は、愚かな意味で言葉の意味と力に信仰心を持ってしまっている、
と言っても過言ではない。
言いたいことを言える、だけが外国語ではない。
私が今言いたいことをどんな方法で表現できるだろうか、
私が英語話者ならどうやって今言いたいことを表現できるだろうか、
文字と音の連なりをどこまで共有できるのだろうか。
これはもはや宗教に近い。
外国語に関して、私は非常に敏感で、ささいなことで不機嫌になったり考え込みすぎたりする。
それは愚かだ。
だけれど今までの私の歴史ブロックの一つでもある。
敏感にならないためには、私が満足できるくらい(そして自己満足にならないように)、勉強するしかない。
愚痴っぽくなってしまったけれど、
さあ、考えてい こう。
不規則でいいから考えていこう。