「印象派画家」ルノワール(Pierre-Auguste Renoir)の絵画
ピエール=オーギュスト・ルノワール(1841年2月25日 - 1919年12月3日)は、フランスの画家、印象派の中心的な創立メンバーの一人。
初期の作品はドラクロワやクールベの影響がみられ、クロード・モネたちと出会ってから印象派に特徴的な色調の幅や筆触分割の手法で明確な形態を持たない自然の風景に主に描きました。
1880年代以降、絵具を薄く塗り重ね、質感や輪郭を明確にする新古典主義の「アングル風」へ画風が変化しました。晩年には輝く色調で、豊満な女性ヌード画を多く描きました。
ルノワールは、1841年にフランス中南部のリモージュで仕立職人の家庭に生まれました。
3歳頃に家族とパリに移住しました。その後、ルノワールは聖歌隊に入り、声楽を学びました。
13歳で磁器の絵付け職人の見習いとなったが、産業革命や機械化の影響で17歳の時、失業したルノワールは扇子や装飾品に絵を描くことになりました。
1861年にルノワールは画家を志すことになり、シャルル・グレールの画塾に入りました。ここで後の印象派の画家たちクロード・モネ、フレデリック・バジール、アルフレッド・シスレーらと出会いました。1862年には官立美術学校エコール・デ・ボザールにも入学し、シャルル・グレールのアトリエと並行して通い始めました。
1863年からモネ、バジールとともに戸外制作をしました。後の印象派が生まれるきっかけとなりました。
1874年には第1回印象派展に参加しました。出品した作品「踊り子」を酷評にされました。
1875年には第2回印象派展に18点絵画を出品しましたが、相変わらず酷評にされました。
1877年には第3回印象派展に21点絵画を出品ましした。ルノワールの代表作品の一つ「ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会」には注目を集めました。
1878年にルノワールはサロンへ出品をしました。
1879年にはサロンへ出品した作品「シャルパンティエ夫人とその子供たち」が好評を博しました。この作品はルノワールの出世作となり、以降肖像画家として有名になりました。
晩年にはリウマチ疾患に罹りながらも絵画を描き続けました。
1919年12月3日にルノワールは肺充血で亡くなりました。