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「後期印象派画家」ポール・ゴーギャン(Paul Gauguin)の絵画集

2019-10-03 19:32:47 | 後期印象派

「後期印象派画家」ポール・ゴーギャン(Paul Gauguin)の絵画集

ポール・ゴーギャン(1848年6月7日 - 1903年5月8日)は、フランスの後期印象派(ポスト印象派)の画家、彫刻家、版画家、陶芸家、象徴主義運動の重要な人物でもあります。

1848年6月7日、ゴーギャンはパリに生まれ、幼少期を南米のペルーで過ごしました。
1865年12月に商船の見習い船員として世界中の海を駆け巡りました。
1868年、フランス海軍に入隊し、2年間勤務しました。
1871年、ゴーギャンはパリに戻り、その後、パリ証券取引所で株式仲買人となりました。
1873年、ゴーギャンはデンマークの女性メット・ガッドと結婚しました。2人の間には、5人の子供が生まれました。
ほぼ仲買人となった頃から、ゴーギャンは仕事の合間に絵を描くようになりました。
1874年ごろ、ゴーギャンは印象派のカミーユ・ピサロと出会い、日曜日にピサロと一緒に絵を描いたりしていまた。それによって、ゴーギャンの風景画はピサロの影響が強く現れています。
日曜画家として、ゴーギャンは1879年の第4回印象派展から1886年最終回の印象派展まですべて参加しました。
1882年、35歳にしてゴーギャンは株式仲買人の生活を捨て、画家として生きる決心をしました。
1886年7月、ゴーギャンはブルターニュ地方のポン=タヴァンに訪れ、そこで若い画家たちと交流しました。後ポン=タヴァン派と呼ばれることになっています。

1888年10月、近代美術史上でも最も有名な二人の画家、ゴーギャンとゴッホはアルルで2か月間の共同生活をしました。結局二人は概して意見が合うことがほとんどない、特に絵画について意見が一致しない。そして12月23日にゴッホが自らの耳を切り落とす事件で、翌日、ゴーギャンはアルルを去りました。

1888年からゴーギャンは対象の忠実な写実を捨て、明確な輪郭線によって対象の形態を捉え、平坦な色面で純色を大胆に用いることになりました。
1889年、ゴーギャンとエミール・ベルナール、シャルル・ラヴァルら、ポン=タヴァン派の画家たちは、綜合主義グループ展を開いました。
1889年、ゴーギャンとエミール・ベルナールの絵画理論の基づいて「綜合主義」という言葉を掲げました。その綜合主義を代表する作品は「説教の後の幻影(ヤコブと天使の争い)」であります。

1891年4月、現代文明に嫌気を感じたゴーギャンは、南太平洋のタヒチへ旅に行きました。ゴーギャンは、タヒチにおいて原始的な環境下で自身の芸術を研けると信じています。
この時期以降にゴーギャンは、タヒチの人々を描いた美しい作品を次々と生み出しました。

1896年から健康状態はますます悪くなり、何度も入院しました。1897年4月、最愛の娘アリーヌの死がゴーギャンの上に重くのしかかりました。絶望の淵で死を決意したゴーギャンは、自分の遺言となる作品「われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか」を制作しました。このゴーギャンの芸術の集大成となる作品は、人間の起源や生と死の主題に対して哲学的な深く考えを表現されています。

芸術と人間の根源を問い続けたゴーギャンの波乱に満ちた生涯は、54歳で幕を閉じました。

ゴーギャンの作品は、フランスの前衛芸術やナビ派、パブロ・ピカソやアンリ・マティスなどの多くの現代芸術家に大きな影響を与えました。ポール・セザンヌフィンセント・ファン・ゴッホと並びに「近代絵画の父」と言えるでしょう。