#344 「 三井 寿 19歳 」
スー――
シュッパ
ボールがネットに絡みつく音。
三井はグッドディフェンスからシュートの調子も上げてきた。
いまだに1年メンバーの中で4~5番手の位置であるが、
そのディフェンス力は日々真価を発揮しつつあった。
しかし、ディフェンスというのは評価されにくい。
評価されにくいからこそ、それをやり遂げるのは難しい。
攻め手と守り手が同じのバスケットの難しさはここにある。
特に河田のブロックショットを導いた牧へのディフェンスなど、
傍からみれば、河田のナイスブロックでしかないからである。
評価されにくいディフェンス/チームが求めているのはディフェンスマン
三井はそんなジレンマと戦っていた。
牧・河田と同じ舞台で戦ってきた三井にとって2・3年後のベンチいりなど
目標とはしていなかたったし、
毎年全国トップレベルの選手が入部してくる深体大では、翌年の保障など皆無であった。
「 遠回りの近道 」後に三井の辿ってきた道を賛辞してそうよばれる事となるのだが、今、まさに三井は遠回りの一歩を踏み出そうとしていた。
派手なスリーポイントはあくまでおまけと考え、
地道なディフェンスで生き残る道を選んだのである。
梅雨が終わりをつげる頃には、練習後、牧・河田と1on1を繰りひろげる三井の姿があった。
これは「三井は使える!」とアピールするための牧の作戦でもあった。
なかなか評価されない三井であったが、評価されている牧・河田相手にいいプレーをすれば、即、評価につながるからである。
牧はラリー中では、三井を河田にマッチアップさせ、自分のヘルプ&リカバリーで
2人がかりで河田を止めにいたっりもした。
河田と組んだときは牧へボックスワンをしかけたり、牧・河田と敵になった時は
スリーポイントシュートで対抗した。
夏休みを迎える頃には1年生では、3番手まで上りつめた。
練習後、シューティング練習。
帝王牧は、自分がコントロールする選手の特徴を知るために、常に一番最後まで練習し、皆の状態を把握する。
そしてマネージャーにつけさせているノートに必ず、目を通す。
とある夏の日、この時、牧は自分の選択が正しかったことを確信する。
「シューティングノート」
8/3 三井 3P 97/100
牧 ( フッ・・・・ やはり全中の時見た天才は天才のままか・・・・
さすが、あの日、俺にポイントガードでしか生き残れない事を教えてくれた天才シューターだな。)
“天才は天才を知る”
全中時代はオールラウンダーとしてその名を轟かせた牧、
しかし、全国の舞台で天賦のシュートの才能と出会う。
その時、牧は今後、日本のトップレベルで生き残るためには
自分の持ち味を最大限に生かした武器を持たないいけないと確信した。
ペネトレイトで相手ディフェンスを切りさき、ゴールへ向かう。
海南で確立される牧のプレイスタイルは全中がきっかけであった。
それから4年後・・・・
天賦の才とチームメイトとして再会した牧、
今度は逆に天賦の才に、生き残る為のあらたな才能を開花させたのであった。
国体が始まる頃・・・・・
Aコーチ「監督、神奈川バスケットボール連盟より、例の選手派遣の打診がきてますが、
いかがしましょう?」
唐沢監督「そうだな、牧は流石にだせないだろ。」
Aコーチ「三井はどうですか? 三井自身、力をつけてきますが、試合にはまだ出れないので、こういう機会は実戦の感を養ういい機会かと。」
唐沢監督「そうだな。私が指揮をとるのに、ウチの選手がいなのは示しがつかないからな。」
Aコーチ「では、監督自ら、指揮をとられるのですか?」
唐沢監督「ああ、そういうことだ。」
『神奈川バスケットボールカーニバル』募集要項
参加者:三井 寿 (湘北高校卒業) 深沢体育大学1年
※対戦カード・所属していただくチームは未定です。
今、それぞれの物語は国体メンバーvs神奈川出身大学1年オールスターズへの試合へ
向かって行った。
エピソード ミツイ 『 ミツイ ヒサシ の進化 』終了
スー――
シュッパ
ボールがネットに絡みつく音。
三井はグッドディフェンスからシュートの調子も上げてきた。
いまだに1年メンバーの中で4~5番手の位置であるが、
そのディフェンス力は日々真価を発揮しつつあった。
しかし、ディフェンスというのは評価されにくい。
評価されにくいからこそ、それをやり遂げるのは難しい。
攻め手と守り手が同じのバスケットの難しさはここにある。
特に河田のブロックショットを導いた牧へのディフェンスなど、
傍からみれば、河田のナイスブロックでしかないからである。
評価されにくいディフェンス/チームが求めているのはディフェンスマン
三井はそんなジレンマと戦っていた。
牧・河田と同じ舞台で戦ってきた三井にとって2・3年後のベンチいりなど
目標とはしていなかたったし、
毎年全国トップレベルの選手が入部してくる深体大では、翌年の保障など皆無であった。
「 遠回りの近道 」後に三井の辿ってきた道を賛辞してそうよばれる事となるのだが、今、まさに三井は遠回りの一歩を踏み出そうとしていた。
派手なスリーポイントはあくまでおまけと考え、
地道なディフェンスで生き残る道を選んだのである。
梅雨が終わりをつげる頃には、練習後、牧・河田と1on1を繰りひろげる三井の姿があった。
これは「三井は使える!」とアピールするための牧の作戦でもあった。
なかなか評価されない三井であったが、評価されている牧・河田相手にいいプレーをすれば、即、評価につながるからである。
牧はラリー中では、三井を河田にマッチアップさせ、自分のヘルプ&リカバリーで
2人がかりで河田を止めにいたっりもした。
河田と組んだときは牧へボックスワンをしかけたり、牧・河田と敵になった時は
スリーポイントシュートで対抗した。
夏休みを迎える頃には1年生では、3番手まで上りつめた。
練習後、シューティング練習。
帝王牧は、自分がコントロールする選手の特徴を知るために、常に一番最後まで練習し、皆の状態を把握する。
そしてマネージャーにつけさせているノートに必ず、目を通す。
とある夏の日、この時、牧は自分の選択が正しかったことを確信する。
「シューティングノート」
8/3 三井 3P 97/100
牧 ( フッ・・・・ やはり全中の時見た天才は天才のままか・・・・
さすが、あの日、俺にポイントガードでしか生き残れない事を教えてくれた天才シューターだな。)
“天才は天才を知る”
全中時代はオールラウンダーとしてその名を轟かせた牧、
しかし、全国の舞台で天賦のシュートの才能と出会う。
その時、牧は今後、日本のトップレベルで生き残るためには
自分の持ち味を最大限に生かした武器を持たないいけないと確信した。
ペネトレイトで相手ディフェンスを切りさき、ゴールへ向かう。
海南で確立される牧のプレイスタイルは全中がきっかけであった。
それから4年後・・・・
天賦の才とチームメイトとして再会した牧、
今度は逆に天賦の才に、生き残る為のあらたな才能を開花させたのであった。
国体が始まる頃・・・・・
Aコーチ「監督、神奈川バスケットボール連盟より、例の選手派遣の打診がきてますが、
いかがしましょう?」
唐沢監督「そうだな、牧は流石にだせないだろ。」
Aコーチ「三井はどうですか? 三井自身、力をつけてきますが、試合にはまだ出れないので、こういう機会は実戦の感を養ういい機会かと。」
唐沢監督「そうだな。私が指揮をとるのに、ウチの選手がいなのは示しがつかないからな。」
Aコーチ「では、監督自ら、指揮をとられるのですか?」
唐沢監督「ああ、そういうことだ。」
『神奈川バスケットボールカーニバル』募集要項
参加者:三井 寿 (湘北高校卒業) 深沢体育大学1年
※対戦カード・所属していただくチームは未定です。
今、それぞれの物語は国体メンバーvs神奈川出身大学1年オールスターズへの試合へ
向かって行った。
エピソード ミツイ 『 ミツイ ヒサシ の進化 』終了
次も期待してます!!