「理智冥合」潅頂印明の事
金沢文庫保管称名寺聖教の中にある立川流の印信の中、前に「一心潅頂印信」と「瑜伽瑜祇理潅頂密印」について少し詳しく見ましたが、本稿では「理智冥合」と称される潅頂印明について検討します。先ず「理智冥合」なる言葉については既に『柴田賢龍密教文庫』の「真言情報ボックス第2集」欄の「2. 「理智冥合」と平安仏教」に於いて、中国・日本に於ける年代順の使用例について相当詳しく説明しましたから再説を省きます。ただ平安時代後末期から鎌倉時代にかけて顕密を問わず此の語が愛好され、様々多くの使用例が各種仏教典籍に見られる事だけを述べておきます。
〈1〉慈猛相承の「理智冥合」印明
次に本ブログで紹介した空阿上人慈猛が金沢称名寺開山の審海に授けた所謂(いわゆる)立川流印信の中では9. No.6236「潅頂最秘密印信」の中に於いて「理智冥合」印言が説かれています。是は「コメント」に記したように醍醐の第三重秘印明に相当します。とりあえずもう一度この印信を下に掲載します。
9. No.6236「潅頂最秘密印」
授与伝法潅頂最秘密印
胎蔵界
印は卒覩婆〔無所不至〕 明〔口伝に在り〕
ア アー アン アク アーンク (原梵字)
金剛界
印は卒都婆〔同印〕 明〔口伝に在り〕
バン ウン タラク キリク アク (原梵字)
理智冥合
印は卒覩婆〔同印〕 明〔口伝に在り〕
ア バン ラン カン ケン (原梵字)
建長七年二月三日 弟子審海
伝授阿闍梨伝燈大法師位慈猛」
是に対して次のコメントを付しました。
コメント:注によれば是は切紙の印信である。潅頂印信は本来竪紙に記すべきもので、此の印信の正統性を低めている。端裏書に「三重」と注しているが、初めの胎金一印二明は醍醐の第二重、後の「理智冥合」が第三重で所謂「霊託印信(託宣印信)」である。」
よく知られているように醍醐の潅頂印明には初重(許可/こか)と重位の別があり、初重は胎金各別の二印二明、第二重が一印二明、第三重は胎金同じで一印一明です。すなわち第三重の極位(ごくい)に於いては胎蔵・金剛両界の差別性を無視して本源的な同一性が強調されているのです。平安時代末には胎蔵は理界、金剛界は智界という定式が成立していましたから、極位(ごくい)に於ける両界の同一性を「理智冥合」という言葉で表したのです。
〈2〉静怡相承の「理智冥合」印明
金沢文庫保管称名寺聖教の中には他にも日付を除けば是と全く同じ印信が蔵されています。それは『金沢文庫古文書 第九輯 佛事編下』のNo. 6521「伝法潅頂印明」で、日付は「延慶三年(1310)卯月(四月)十六日」とありますが印信の授受者は記されていません。しかし是は静怡なる人が智照上人に授けたものと考えられます。それと云うのも同書には是を含む一連の文書らしい同日付の印信四通が掲載されていて、その中には静怡が智照上人に与えた潅頂紹文(じょうもん)であるNo. 6518「伝法潅頂印信」があるからです。
此の紹文によれば静怡は「先師法印権大僧都〔宗遍〕」の弟子であり、又大日如来から数えて両部大法第二十八葉の弟子であるとも述べています。静怡の経歴についてはよく知りませんが宗遍(1236―93)は鎌倉後期の理性院流を代表する学匠の一人であり、光明峰寺の証聞院々主として、又醍醐寺理性院の院務代として当時著名の人物です。
しかしながら今の潅頂印信の相伝は常の理性院流の血脈とは余程異なったものらしいのです。同書には智照が静怡から相承した何れも興味深い数種の血脈が掲載されていますが、上記の如く静怡が大日如来から第28代の弟子である事を信ずれば、それに合致するのはNo. 6510「相承血脈」に記されたものだけです。果たして是が今のNo. 6518「伝法潅頂印信」・No. 6521「伝法潅頂印明」と対応しているのか何とも覚束(おぼつか)ないのですが、とりあえず此の血脈を示してごく簡単に検討します。
是は智照から更に剱阿へ伝えられたもので延慶二年(1309)十二月二十一日の日付があり、
(前略)範俊 厳覚 良勝 良弘 真慶 勝尊 光遍 明観 真空 観俊 宗遍 静怡 智照 剱阿
と次第相承しています。即ち勧修寺の良勝方血脈ですが、良勝の弟子良弘法印(1130―88―)は六波羅常光院の僧で平家政権下の寵僧として活躍したものの、それが為に平家没落後は阿波国に配流されるなど不遇をかこちました。又その弟子真慶は知法の阿闍利として名を知られた人でしたが詳しい伝歴は不明です(後世に至って真慶の名を貶める伝承が生まれましたが、ここでは言及を控えます)。
その他の血脈は三宝院勝覚が範俊から相伝しているのが二種(勝覚―賢観と勝覚―淳観)と静与(静誉/せいよ)が範俊から伝えているのが一種であり、これらの血脈は全てその後が、
増仁 仁禅 尊念 聖長 阿鑁 頼深 聖尋 真空 観俊 宗遍 静怡
と成っています。
さてここで胎蔵・金剛両部の印に無所不至/塔(卒塔婆)印を用い、真言は胎蔵が五阿、金界が五智とする醍醐の第二重について説明を加える必要があります。それは此の印明は勧修寺系の法流では乍二塔(さにとう)印明と称し、古来「寅時印信」の説として非常に有名である事です。是は保安二年(1121)五月二十四日「寅時」に勧修寺厳覚が蓮光房良勝に授けた事が名称の由来と成っているのですが、また「乍二塔」は「胎金二つ乍ら塔印」という意味です。しかし「寅時印信」には醍醐の第三重に当たる印言は説かれていません。
してみれば今問題としている醍醐の第三重を「理智冥合」と称する印信はやはり三宝院勝覚の系統に属するのかとも思われます。また誰が最初に此の「理智冥合」なる名称を付与したのか、仁寛方の他にも検討史料が増えた訳で、それを決定するのは非常に困難の事であろうと思われます。
〈3〉『弘誓院大納言入道殿御口伝』の説
上に見た〈1〉〈2〉の印信の小野流潅頂印信の中で占める位置に付いて言及した口決があります。それは金沢文庫保管称名寺聖教の中の『弘誓院大納言入道殿御口伝』と題された至って短篇の写本の中に記されています(第241函2、第254函3)。
弘誓院大納言入道殿と云うのは摂政九条良経の子である藤原教家(1194-1255)の事です。教家は菩提心によって元仁二年(1225)九月に権大納言の職を辞し、出家して法名慈観を称し、真言道の研鑽に勤めて小野随身院流の血脈にその名を留めています。当時の政界の実力者で光明峯寺殿、或いは出家して法性寺禅定殿下などと称された摂政九条道家は教家/慈観の御兄さんです。
さて此の『口伝』の中で冒頭に、
「口伝に云く、伝法潅頂に二様あり。一には、胎(蔵)には内五古印と五ア(原梵字:a)(の真言)、金(剛界)には塔印と五智の種(子の真言)であり、此の様は正しき此の流の三重の秘密潅頂等の具足に授くる作法是なり。一には、胎には塔印と五ア(原梵字:a)、金は同印と五智の種であり、理智冥合には同印と五大の種であるが、是は別して三重の次第等を悉くは授けずしてサスカニ(そうは云ってもやはり)又尋常に授くるヲリノ作法なり。」
と述べています。
引用後半部の意は、三重の潅頂印言を全て丁寧に授けはしないけれども、それでも重位の印明を授ける時は、一印(塔印)二明(五阿と五智)と理智冥合の一印(塔印)一明(五大/アバンランカンケン)を記した潅頂印信を付与するのである、という事でしょう。即ち既に潅頂入壇を遂げている受者に重ねて潅頂を授ける場合は、許可(こか/初重)を略して授けないで重位(第二・三重)だけを授ける作法があると言っているようです。
随身院流の血脈によれば、慈観は東寺一長者にも成った随身院大僧正親厳(しんごん 1151―1236)の潅頂弟子です。師僧の親厳は随身院顕厳の弟子ですが、又「尊念」からも受法していて、その血脈は、
範俊―静誉―増仁―仁禅―尊念―親厳
であり、〈2〉で見た静誉方の血脈と一致しています。しかも此の『御口伝』の後半部に於いて「尊念僧都の第三重」なる秘密潅頂印言を説いていますから、上に紹介した冒頭の口伝も静誉方のものかも知れません。そうすると時代的に考えて、仁禅か尊念あたりの周辺で一印一明の潅頂印言(醍醐の第三重に相当する)を「理智冥合」と称するようになったのではないかとも考えられるのです。それは兎も角、此の『弘誓院大納言入道殿御口伝』は潅頂印信の歴史を考究する上で貴重な証言を提供していると云えます。
又一印一明の潅頂印言に「理智冥合」なる名称を付与したのは経軌の説や古来の相承口伝に基づくものでは無く、多かれ少なかれ時代の風潮に乗じた恣意的なものですから、他派他流に於いては他の潅頂印言を此の名称で呼んでいるとしても何ら不思議ではありません。次にその例を見てみましょう。
〈4〉興然方相承の「理智冥合」印信
『金沢文庫古文書 第九輯 佛事編下』のNo. 6206「潅頂印信」は、勧修寺の興然阿闍利(1121―1203)が応保二年(1162)12月11日に内山(うちやま)真乗房亮恵(1098―1186)から相伝した「最秘」印信であり、その中で是が「理智冥合」の秘説である旨が記されています。亮恵は醍醐の三密房聖賢の弟子であり内山永久寺の学僧として当時著名の人でしたが、実には醍醐寺三宝院の阿闍利でもありました。
そうすると此の印信も醍醐の相伝かと云うと実はそうでもありません。先ずは印信を見てから話を続けましょう(文中「亮恵」を「高恵」と誤記しているので訂正します)。
No. 6206「潅頂印信」
「 〔最秘、最秘。応保二年十二月十一日、之を伝え奉る。興然、之を記す。〕
潅頂印
(紙背註)「潅頂〔法務御房(寛信)、(淳)観闍利に伝う。闍利、真乗房〔亮恵〕に伝う。真乗房、興然に伝う。〕」
塔印 但し二頭指を宝形に作る。是は火輪を表せり。
二大指を並べて掌中に入る。
両部の大日、一体和合の身にして理智冥合すなり。
真言
ア・アー・アン・アク・アーク、バン・ウン・タラク・キリク・アク(原梵字)
(以下省略します)」
コメント:
先ず紙背に記された相承次第によれば、是は勧修寺法務寛信の伝であり、それを醍醐の淳観(淳寛/しゅんかん)阿闍利が受法したのです。淳観は三宝院勝覚・理性房賢覚等の潅頂弟子であり、理性院流淳観方の祖とされていますが、また寛信法務とは大変親しい間柄でした。淳観から是を伝えた亮恵は初めに述べたように三密房聖賢の付法資であり、当時の真言事相の名匠です。応保二年十二月に亮恵から是を受けた勧修寺の理明房阿闍利興然(1121―1203)は、単に慈尊院流の祖と云うに止まらず、諸師から伝法を重ねて小野流を集大成した稀に見る大学僧です。
●印信に記された塔印は、二頭指(人差し指)を合わせた部分を尖(とが)らせる点が常の印と相違しますが、今は是に付いては放っておきます。「二大指を並べて掌中に入る」とは、両部の大日如来(二大指)が現象界の差別性を離れて本源的は平等の世界に入り、「一体和合の身となって理智冥合する」事を表しています。今の「掌中」は心月輪であり、また自性清浄心・法界・如如などと解する事が出来ます。
●真言は五阿・五智ですが、注意すべきは〈1〉〈2〉の印信と違って是を一行に書き記している事であり、此の事によって今の大日如来が二身和合した一体の「理智冥合」尊である事を強調しています。
●是と同類の印信が俊然(しゅんぜん)作『四巻鈔』巻上の「聖観音印信」の条に「最極秘密潅頂印」と題して採録されています(『真言宗全書』31、p.250下)。印文は小異しますが、二大指に付いて「両部の大日、一体和合の身にして理智冥合すなり」等と述べるのは全く同じです。ところが真言は、
ノウマクサンマンダボダナン・アクビラウンケン(原漢字)
であり、八遍之を誦して前の三遍を胎蔵、後の五遍を金剛界に配当しています。
此の印信は貞和二年(1346)三月に勧修寺の慈尊院栄海(ようかい)僧正が俊然律師に授けたものであり、その相承次第は、
範俊―厳覚―寛信―淳寛―亮恵―興然―栄然―聖済―栄海―俊然
であり、寛信から興然に至る間は全く同じです。称名寺聖教の印信の方は興然の批記(識語)があって古形を留めているように感じられますが、若しその通りだとすれば『ゲンビラ鈔』十九巻を著して小野流潅頂印信に関する第一人者であるはずの栄海僧正の法流相承も規範とするに足りないという困った問題が生じます。
〈5〉塔印を「理智冥合」とする行遍僧正の説
鎌倉時代の中葉になると仁和寺/広沢流に於いても塔印、即ち大日如来の標示である無所不至印や外五股印を以って「理智冥合印」と称する事が行われるようになりました。東寺一長者にもなった仁和寺菩提院の行遍大僧正(1182―1264)の口伝集とされる『参語集』の巻第五(秘々中深秘の巻)の「智拳印以下潅頂秘印事」の条に於いて、
又無所(不至)印は塔印なり。竪差別の印なり。(是は地水火風空の)五輪を(順に)上に向ける。外五股印も塔印なり。横平等の印なり。彼等は皆理智冥合の印なり。
と述べて更に口説を記しています。
行遍は勧修寺の慈尊院栄然からも受法を遂げていますから、恐らくは〈4〉に述べた興然の印信に付いて伝授を受け、それを敷衍して更に自説を書き記したのでしょう。
(以上)
金沢文庫保管称名寺聖教の中にある立川流の印信の中、前に「一心潅頂印信」と「瑜伽瑜祇理潅頂密印」について少し詳しく見ましたが、本稿では「理智冥合」と称される潅頂印明について検討します。先ず「理智冥合」なる言葉については既に『柴田賢龍密教文庫』の「真言情報ボックス第2集」欄の「2. 「理智冥合」と平安仏教」に於いて、中国・日本に於ける年代順の使用例について相当詳しく説明しましたから再説を省きます。ただ平安時代後末期から鎌倉時代にかけて顕密を問わず此の語が愛好され、様々多くの使用例が各種仏教典籍に見られる事だけを述べておきます。
〈1〉慈猛相承の「理智冥合」印明
次に本ブログで紹介した空阿上人慈猛が金沢称名寺開山の審海に授けた所謂(いわゆる)立川流印信の中では9. No.6236「潅頂最秘密印信」の中に於いて「理智冥合」印言が説かれています。是は「コメント」に記したように醍醐の第三重秘印明に相当します。とりあえずもう一度この印信を下に掲載します。
9. No.6236「潅頂最秘密印」
授与伝法潅頂最秘密印
胎蔵界
印は卒覩婆〔無所不至〕 明〔口伝に在り〕
ア アー アン アク アーンク (原梵字)
金剛界
印は卒都婆〔同印〕 明〔口伝に在り〕
バン ウン タラク キリク アク (原梵字)
理智冥合
印は卒覩婆〔同印〕 明〔口伝に在り〕
ア バン ラン カン ケン (原梵字)
建長七年二月三日 弟子審海
伝授阿闍梨伝燈大法師位慈猛」
是に対して次のコメントを付しました。
コメント:注によれば是は切紙の印信である。潅頂印信は本来竪紙に記すべきもので、此の印信の正統性を低めている。端裏書に「三重」と注しているが、初めの胎金一印二明は醍醐の第二重、後の「理智冥合」が第三重で所謂「霊託印信(託宣印信)」である。」
よく知られているように醍醐の潅頂印明には初重(許可/こか)と重位の別があり、初重は胎金各別の二印二明、第二重が一印二明、第三重は胎金同じで一印一明です。すなわち第三重の極位(ごくい)に於いては胎蔵・金剛両界の差別性を無視して本源的な同一性が強調されているのです。平安時代末には胎蔵は理界、金剛界は智界という定式が成立していましたから、極位(ごくい)に於ける両界の同一性を「理智冥合」という言葉で表したのです。
〈2〉静怡相承の「理智冥合」印明
金沢文庫保管称名寺聖教の中には他にも日付を除けば是と全く同じ印信が蔵されています。それは『金沢文庫古文書 第九輯 佛事編下』のNo. 6521「伝法潅頂印明」で、日付は「延慶三年(1310)卯月(四月)十六日」とありますが印信の授受者は記されていません。しかし是は静怡なる人が智照上人に授けたものと考えられます。それと云うのも同書には是を含む一連の文書らしい同日付の印信四通が掲載されていて、その中には静怡が智照上人に与えた潅頂紹文(じょうもん)であるNo. 6518「伝法潅頂印信」があるからです。
此の紹文によれば静怡は「先師法印権大僧都〔宗遍〕」の弟子であり、又大日如来から数えて両部大法第二十八葉の弟子であるとも述べています。静怡の経歴についてはよく知りませんが宗遍(1236―93)は鎌倉後期の理性院流を代表する学匠の一人であり、光明峰寺の証聞院々主として、又醍醐寺理性院の院務代として当時著名の人物です。
しかしながら今の潅頂印信の相伝は常の理性院流の血脈とは余程異なったものらしいのです。同書には智照が静怡から相承した何れも興味深い数種の血脈が掲載されていますが、上記の如く静怡が大日如来から第28代の弟子である事を信ずれば、それに合致するのはNo. 6510「相承血脈」に記されたものだけです。果たして是が今のNo. 6518「伝法潅頂印信」・No. 6521「伝法潅頂印明」と対応しているのか何とも覚束(おぼつか)ないのですが、とりあえず此の血脈を示してごく簡単に検討します。
是は智照から更に剱阿へ伝えられたもので延慶二年(1309)十二月二十一日の日付があり、
(前略)範俊 厳覚 良勝 良弘 真慶 勝尊 光遍 明観 真空 観俊 宗遍 静怡 智照 剱阿
と次第相承しています。即ち勧修寺の良勝方血脈ですが、良勝の弟子良弘法印(1130―88―)は六波羅常光院の僧で平家政権下の寵僧として活躍したものの、それが為に平家没落後は阿波国に配流されるなど不遇をかこちました。又その弟子真慶は知法の阿闍利として名を知られた人でしたが詳しい伝歴は不明です(後世に至って真慶の名を貶める伝承が生まれましたが、ここでは言及を控えます)。
その他の血脈は三宝院勝覚が範俊から相伝しているのが二種(勝覚―賢観と勝覚―淳観)と静与(静誉/せいよ)が範俊から伝えているのが一種であり、これらの血脈は全てその後が、
増仁 仁禅 尊念 聖長 阿鑁 頼深 聖尋 真空 観俊 宗遍 静怡
と成っています。
さてここで胎蔵・金剛両部の印に無所不至/塔(卒塔婆)印を用い、真言は胎蔵が五阿、金界が五智とする醍醐の第二重について説明を加える必要があります。それは此の印明は勧修寺系の法流では乍二塔(さにとう)印明と称し、古来「寅時印信」の説として非常に有名である事です。是は保安二年(1121)五月二十四日「寅時」に勧修寺厳覚が蓮光房良勝に授けた事が名称の由来と成っているのですが、また「乍二塔」は「胎金二つ乍ら塔印」という意味です。しかし「寅時印信」には醍醐の第三重に当たる印言は説かれていません。
してみれば今問題としている醍醐の第三重を「理智冥合」と称する印信はやはり三宝院勝覚の系統に属するのかとも思われます。また誰が最初に此の「理智冥合」なる名称を付与したのか、仁寛方の他にも検討史料が増えた訳で、それを決定するのは非常に困難の事であろうと思われます。
〈3〉『弘誓院大納言入道殿御口伝』の説
上に見た〈1〉〈2〉の印信の小野流潅頂印信の中で占める位置に付いて言及した口決があります。それは金沢文庫保管称名寺聖教の中の『弘誓院大納言入道殿御口伝』と題された至って短篇の写本の中に記されています(第241函2、第254函3)。
弘誓院大納言入道殿と云うのは摂政九条良経の子である藤原教家(1194-1255)の事です。教家は菩提心によって元仁二年(1225)九月に権大納言の職を辞し、出家して法名慈観を称し、真言道の研鑽に勤めて小野随身院流の血脈にその名を留めています。当時の政界の実力者で光明峯寺殿、或いは出家して法性寺禅定殿下などと称された摂政九条道家は教家/慈観の御兄さんです。
さて此の『口伝』の中で冒頭に、
「口伝に云く、伝法潅頂に二様あり。一には、胎(蔵)には内五古印と五ア(原梵字:a)(の真言)、金(剛界)には塔印と五智の種(子の真言)であり、此の様は正しき此の流の三重の秘密潅頂等の具足に授くる作法是なり。一には、胎には塔印と五ア(原梵字:a)、金は同印と五智の種であり、理智冥合には同印と五大の種であるが、是は別して三重の次第等を悉くは授けずしてサスカニ(そうは云ってもやはり)又尋常に授くるヲリノ作法なり。」
と述べています。
引用後半部の意は、三重の潅頂印言を全て丁寧に授けはしないけれども、それでも重位の印明を授ける時は、一印(塔印)二明(五阿と五智)と理智冥合の一印(塔印)一明(五大/アバンランカンケン)を記した潅頂印信を付与するのである、という事でしょう。即ち既に潅頂入壇を遂げている受者に重ねて潅頂を授ける場合は、許可(こか/初重)を略して授けないで重位(第二・三重)だけを授ける作法があると言っているようです。
随身院流の血脈によれば、慈観は東寺一長者にも成った随身院大僧正親厳(しんごん 1151―1236)の潅頂弟子です。師僧の親厳は随身院顕厳の弟子ですが、又「尊念」からも受法していて、その血脈は、
範俊―静誉―増仁―仁禅―尊念―親厳
であり、〈2〉で見た静誉方の血脈と一致しています。しかも此の『御口伝』の後半部に於いて「尊念僧都の第三重」なる秘密潅頂印言を説いていますから、上に紹介した冒頭の口伝も静誉方のものかも知れません。そうすると時代的に考えて、仁禅か尊念あたりの周辺で一印一明の潅頂印言(醍醐の第三重に相当する)を「理智冥合」と称するようになったのではないかとも考えられるのです。それは兎も角、此の『弘誓院大納言入道殿御口伝』は潅頂印信の歴史を考究する上で貴重な証言を提供していると云えます。
又一印一明の潅頂印言に「理智冥合」なる名称を付与したのは経軌の説や古来の相承口伝に基づくものでは無く、多かれ少なかれ時代の風潮に乗じた恣意的なものですから、他派他流に於いては他の潅頂印言を此の名称で呼んでいるとしても何ら不思議ではありません。次にその例を見てみましょう。
〈4〉興然方相承の「理智冥合」印信
『金沢文庫古文書 第九輯 佛事編下』のNo. 6206「潅頂印信」は、勧修寺の興然阿闍利(1121―1203)が応保二年(1162)12月11日に内山(うちやま)真乗房亮恵(1098―1186)から相伝した「最秘」印信であり、その中で是が「理智冥合」の秘説である旨が記されています。亮恵は醍醐の三密房聖賢の弟子であり内山永久寺の学僧として当時著名の人でしたが、実には醍醐寺三宝院の阿闍利でもありました。
そうすると此の印信も醍醐の相伝かと云うと実はそうでもありません。先ずは印信を見てから話を続けましょう(文中「亮恵」を「高恵」と誤記しているので訂正します)。
No. 6206「潅頂印信」
「 〔最秘、最秘。応保二年十二月十一日、之を伝え奉る。興然、之を記す。〕
潅頂印
(紙背註)「潅頂〔法務御房(寛信)、(淳)観闍利に伝う。闍利、真乗房〔亮恵〕に伝う。真乗房、興然に伝う。〕」
塔印 但し二頭指を宝形に作る。是は火輪を表せり。
二大指を並べて掌中に入る。
両部の大日、一体和合の身にして理智冥合すなり。
真言
ア・アー・アン・アク・アーク、バン・ウン・タラク・キリク・アク(原梵字)
(以下省略します)」
コメント:
先ず紙背に記された相承次第によれば、是は勧修寺法務寛信の伝であり、それを醍醐の淳観(淳寛/しゅんかん)阿闍利が受法したのです。淳観は三宝院勝覚・理性房賢覚等の潅頂弟子であり、理性院流淳観方の祖とされていますが、また寛信法務とは大変親しい間柄でした。淳観から是を伝えた亮恵は初めに述べたように三密房聖賢の付法資であり、当時の真言事相の名匠です。応保二年十二月に亮恵から是を受けた勧修寺の理明房阿闍利興然(1121―1203)は、単に慈尊院流の祖と云うに止まらず、諸師から伝法を重ねて小野流を集大成した稀に見る大学僧です。
●印信に記された塔印は、二頭指(人差し指)を合わせた部分を尖(とが)らせる点が常の印と相違しますが、今は是に付いては放っておきます。「二大指を並べて掌中に入る」とは、両部の大日如来(二大指)が現象界の差別性を離れて本源的は平等の世界に入り、「一体和合の身となって理智冥合する」事を表しています。今の「掌中」は心月輪であり、また自性清浄心・法界・如如などと解する事が出来ます。
●真言は五阿・五智ですが、注意すべきは〈1〉〈2〉の印信と違って是を一行に書き記している事であり、此の事によって今の大日如来が二身和合した一体の「理智冥合」尊である事を強調しています。
●是と同類の印信が俊然(しゅんぜん)作『四巻鈔』巻上の「聖観音印信」の条に「最極秘密潅頂印」と題して採録されています(『真言宗全書』31、p.250下)。印文は小異しますが、二大指に付いて「両部の大日、一体和合の身にして理智冥合すなり」等と述べるのは全く同じです。ところが真言は、
ノウマクサンマンダボダナン・アクビラウンケン(原漢字)
であり、八遍之を誦して前の三遍を胎蔵、後の五遍を金剛界に配当しています。
此の印信は貞和二年(1346)三月に勧修寺の慈尊院栄海(ようかい)僧正が俊然律師に授けたものであり、その相承次第は、
範俊―厳覚―寛信―淳寛―亮恵―興然―栄然―聖済―栄海―俊然
であり、寛信から興然に至る間は全く同じです。称名寺聖教の印信の方は興然の批記(識語)があって古形を留めているように感じられますが、若しその通りだとすれば『ゲンビラ鈔』十九巻を著して小野流潅頂印信に関する第一人者であるはずの栄海僧正の法流相承も規範とするに足りないという困った問題が生じます。
〈5〉塔印を「理智冥合」とする行遍僧正の説
鎌倉時代の中葉になると仁和寺/広沢流に於いても塔印、即ち大日如来の標示である無所不至印や外五股印を以って「理智冥合印」と称する事が行われるようになりました。東寺一長者にもなった仁和寺菩提院の行遍大僧正(1182―1264)の口伝集とされる『参語集』の巻第五(秘々中深秘の巻)の「智拳印以下潅頂秘印事」の条に於いて、
又無所(不至)印は塔印なり。竪差別の印なり。(是は地水火風空の)五輪を(順に)上に向ける。外五股印も塔印なり。横平等の印なり。彼等は皆理智冥合の印なり。
と述べて更に口説を記しています。
行遍は勧修寺の慈尊院栄然からも受法を遂げていますから、恐らくは〈4〉に述べた興然の印信に付いて伝授を受け、それを敷衍して更に自説を書き記したのでしょう。
(以上)