金沢文庫蔵の真言立川流聖教の和訳紹介

皆さんは立川流に関する通説が全く間違っている事をご存知ですか?鎌倉時代の史料を使ってその事を明らかにします。柴田賢龍

宝篋上人相伝の「一心潅頂印信」について

2010-11-14 20:26:15 | Weblog
宝篋上人相伝の「一心潅頂印信」について
金沢文庫保管称名寺聖教中の慈猛が審海に授けた一連の立川流印信の中には明らかに鎌倉時代になって製作されたと思われる多くの新案の印信があり、立川流の祖とされる仁寛(蓮念)の時代、即ち白河院政期にまで遡れるものを正確に特定するのは現時点では容易な事ではありません。又鎌倉時代の新作であるにしても「誰が、何時」といった具体的な事はほとんど分からないのが実情であり、わずかに血脈上に記された人物の中の誰かが作ったのであろうと云えるに過ぎません。此の事は「印信」が伝法潅頂に関わる秘密の文書とされている事を考えれば至極当然と言えるでしょう。
そうした中で先に和訳して紹介した立川流印信の第18. No.6250「一心潅頂印信相承」と対になるのではないかと思われる、「宝篋上人の口授」である旨を注記した「一心潅頂印信」なるものが存在する事に気がつきました。慈猛が審海に授けた「一心潅頂印信相承」は印信の相承に付いて記した紹文(じょうもん)であり、印真言を記した本来の印信ではありませんでした。是に対して『金沢文庫古文書 第九輯 仏事篇下』に収載するNo.6475「一心潅頂印信」は紹文を欠いていますが印真言等を記した本来の印信であり、「宝篋上人の口授」である旨の注記があります。両方の「一心潅頂」の異同については確認できないのですが、ここでは一応同一の潅頂口決であるとして一緒に現代語訳で紹介する事にしました。宝篋上人に付いては後文のコメントで簡単に言及します。
〈1〉現代語訳:一心潅頂印信相承
「最極(さいごく)秘密瑜伽瑜祇一心潅頂印信相承
今よく考えてみると瑜伽瑜祇の(経説に基づく)理潅頂は、姿も形も色も無い無相法身の究極的な意思の発露(ほつろ/マニフェスト)であり、本覚の仏如来の久遠(くおん)寿命を示し、金剛薩埵(さった)の活動精神の肝心である。それは即ち大持金剛が理智不二の大教を顕説して金剛薩埵に授け、金剛薩埵は龍猛菩薩に授けたのである。このようにして一心潅頂の法を伝授することは、祖師根本大阿闍利弘法大師に至るまで八葉(八代)を経て、今愚身(慈猛)に至っては第二十四代であり、伝授の経緯と師資の血脈(けちみゃく)相承とは鏡に見るように明らかである。今顧みれば自分は最初慈覚大師の門徒に列なって顕密の学業に励み、後に弘法大師の門に入って醍醐の清流を掌(てのひら)に酌み、浄月上人の所に於いて秘密重位の潅頂を伝受した。爰(ここ)に沙門審海は過去世の機縁が結実して一心潅頂を受けてその阿闍利となる印可を相伝し畢った。(理智)不二の法水に浴してその姿は一智の尊容を得たのである。是(慈猛が審海に一心潅頂を授けた事)は即ち仏から受けた恩に酬(むく)い、師の(寛大なる慈愛の)徳に答えようとしたのである。自分の願いは既に満たすことが出来たから、余計な思いをする必要も無くなったのである。
  正嘉元年(1257)〔丁巳/ひのとみ〕七月廿五日  審海
阿闍利伝燈大法師位慈猛 」
コメント 是は空阿上人慈猛(じみょう 1212~1277)が、後に金沢称名寺長老となる妙性房審海( ~1304)に授けた一群の灌頂印信の中に於いて、慈猛が自らの受法歴について述べている点からも珍重すべきものです。
○この「一心潅頂」は詳しくは「瑜伽瑜祇一心潅頂」と云い、亦「瑜伽瑜祇」の「理潅頂」とも述べていますから、是が所謂(いわゆる)「瑜祇潅頂」の一種である事がわかります。「一心」とは具体的には何を指しているかについて、下の印信とそのコメントを参照してください。
○「大持金剛」とは金剛界大日如来の金剛名です。詳しく云えば、金剛界三十七尊の功徳を具備する毘盧遮那金剛薩埵であり、『金剛頂経』に於いては一切如来の要請に応えて金剛界大曼荼羅を説き明かします。
○「理智不二の大教」は『瑜祇経』を言います。但し同経に「大持金剛」なる語は出ていません。『瑜祇経』も『大日経』や『金剛頂経』と同じように金剛薩埵から龍猛菩薩に授けられたとする所に本印信の特徴があります。
○「浄月上人」に付いては此のホームページの『真言立川流の相伝者浄月上人の史料紹介と解説』を見て下さい。浄月上人から伝受した「秘密重位の潅頂」に今の一心潅頂が含まれている事は勿論でしょう。
〈2〉現代語訳:一心潅頂印信
(端裏書)「一心潅頂印信」
「一心潅頂 〔宝篋上人の口授〕
時に金剛界如来は復た卒都婆法界普賢一字心密言を説いて言く、
バン(梵字:vam)
 永仁七年(1299)四月十一日   楽範(花押あり)
(以下、原文は一字下げ)右の禅(親指)と風(人差し指)を押し合わせて帰命バン(梵字:vam)、左の智(親指)と風を押し合わせて帰命ア(梵字:a、以下同じ)、左右の手を合わせてバン(梵字:vam、以下同じ)を誦すれば両部不二が成就する。是は金剛・胎蔵一体の塔婆である。右のバン(金剛界)と左のア(胎蔵界)とが和合して此の(両部不二の)塔婆と成るのである。
摂大(しょうだい)軌に云く、正覚は甚だ深密であって言葉で表現することが出来ない。是を指して卒都婆と為すのである〔云々〕。
既にバン字を以って卒塔婆としている。バン字は塔婆であると(口決によって)習うのである。〔口伝〕大師御筆の(バンとアの)両字を並べた塔は水輪である。」
小野・仁和寺(広沢)の口決の大事は此の事にある。
(以下、原文は一字下げ)口決に云く、金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇とは即ち今の此の塔婆を云うのである。左はアで赤、右はバンで白、(左右合わせて両部)不二のバンである。
高野山真然(しんぜん)僧正(804―891)が建立した中院の小塔は是である〔云々〕。
又不二一如はその本質を形であらわせば半月(はんがち)の如くであり、而二(にに、金胎別々)は満月(まんがち)に似ている。(『理趣経』の初段に)「(欲界の他化自在天王宮の中にある大摩尼殿は)半満月等で荘厳されている」と云うではないか。
(弘法大師の)御作に云く、不二は是の如し。只□二詮一(而二の理を究めれば一に帰着すること?)の名称である。秘密の名であると知らなければいけない。」
コメント 宝篋上人(1189―1235―)は亦蓮道上人とも言いますが、通称(房名)が蓮道房で法名(諱/いみな)が宝篋です。名称に付いては改名等の事がありますが省略します。有名な三輪の慶円上人(1140―1223)の弟子であり、醍醐寺の金剛王院大僧正実賢(1176―1249)から三宝院流の伝法潅頂を受け、宝篋自身は東密三十六流の一つである三輪流の祖とされています。著作に『瑜祇経口伝』二帖があり、同経に見識が深かった事が伺えます。
○此の印信の全てが宝篋上人の口授に基づいて製作されたのか、或いは相承の印信に一字下げの部分(口授)を付加しただけなのか、現時点では異本と対照できないので何とも言いようがありません。
○冒頭の「時に金剛界如来は」から「説いて言く、バン」までは『瑜祇経』序品の文です。此の印信からも窺えるように、鎌倉時代になると『瑜祇経』を両部大経の上位に位置する両部不二の秘経とする思想が勢力を得るようになります。
○此の『瑜祇経』の文から「一心潅頂」なる名称が、「普賢一字心密言」すなわち「バン」一字による潅頂の意味である事が分かります。「一心」とは一字真言のことです。
○「楽範」なる人に付いては未詳ですが、花押を書き添えている事からも分かるように此の印信の発給者です。
○此の印信の口決は、伝法潅頂の秘印である無所不至(むしょふじ)印/塔印の左右の親指と人差し指が梵字のバン(vam)に似ている事からヒントを得たのであろうと思われます。但し両方がバン字では教理上の説明が出来ないので、左はア字で胎蔵界、右はバン字で金剛界、両手で不二(ふに)の塔婆と述べています。
○「摂大軌」は胎蔵法四部儀軌の一つである善無畏三蔵訳の『摂大儀軌』です。詳しい名称は非常に長いので『密教大辞典』等を参照して下さい。是は弘法大師の請来典籍の中に含まれず、慈覚大師円仁が初めて本邦に将来しました。
○「中院の小塔」は有名な高野山龍光院の瑜祇塔です。現在の塔は焼失後に再建されたものです。

(以上)

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