
なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。
まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。(マタイ7:3、5)
無学な者が学者に教えて貰うことに謙遜は要らないけれど、学者が無学な者に教わるには勇気と謙りが必要である。
指導者であったニコデモは、夜にこっそりイエスさまを訪ねて教えを乞うた。しかし、彼は教わったことを公言することはなく、墓に葬る手伝いをしているが、イエスさまはよみがえられて墓に留まることはないのだ。
パリサイ人も律法学者もイエスさまのわざを見て、メッセージも直接聞いていたが信じなかった。少数の信じた者もそのことを隠した。
それは、世の価値観に照らしてイエスさまを恥じていたからである。彼らの目の梁は学問であり血筋であった。
だから、イエスさまはお弟子の多くを無学な者から選び、彼らが誇りを持ってイエスさまの言葉を吸い込み、何処ででも公言する器とされた。
しかし、無学な者が無学な者であることをわきまえているには、イエスさまの助けが必要である。
人はいつの間にか、イエスさまを教えいさめたペテロのようになってしまうからである。
賢くありたいという欲求を持っていて、賢く見られたいという渇きを持っているから・・。それは、善悪の知識の木の実を食べた後遺症である。
しかし、ペテロから学ぶことは多くある。「イエスさまといっしょなら失敗なんか恐くない」と思えるような甘い関係があり、彼の失敗を通してイエスさまの慈しみ深さも聖書から滲み出てくるからだ。
ペテロの目には何の梁もないから、イエスさまは彼に教会を委ねられたのだろう。
ニコデモは真昼に人々の前でイエスさまを尋ね、広場でイエスさまに聴いた言葉を話せば目の中の梁は除かれるがそれは易しいことではない。
無学な者は、ただイエスさまの備えによって語る。それは自分の中には何も無いからである。
どんな反対者も、反論も反証もできないような、ことばと知恵を、わたしはあなたがたに与えます。(ルカ21:15)