主のしもべモーセの死後、主はモーセの従者、ヌンの子ヨシュアに告げられた。
「わたしのしもべモーセは死んだ。今、あなたとこの民はみな、立ってこのヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの子らに与えようとしている地に行け。
わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたが足の裏で踏む場所はことごとく、すでにあなたがたに与えている。(1~3)
自分はモーセのようではないと躊躇するなら主に喜ばれない。主が喜ばれるのは、呼ばれたなら命じられた座に着き聴いたことばの通りに行う者である。
ヨシュアは主が選ばれた者。御声に聴き従うことで必要のすべてを備えられ、主に拠って神の計画を全うさせられる。モーセがそうであったように。
モーセは主と一つとなるほどに従順であった。主の御声を聴き取り、みこころを察して民を主に執り成し続けたからである。彼は主を離れた自分というものを持っていなかったのだろう・・。
あなたがたの領土は荒野からあのレバノン、そしてあの大河ユーフラテス川まで、ヒッタイト人の全土、日の入る方の大海までとなる。
あなたの一生の間、だれ一人としてあなたの前に立ちはだかる者はいない。わたしはモーセとともにいたように、あなたとともにいる。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。(4~5)
主に完全に聴き従って神のご計画を生きるときに誰がそれを妨げることができるだろう。神のご計画を成すために誰と戦う必要があろう。
神の計画を妨げる者は神の敵であり神が戦われる。全能の神が共に居られるとき人は勝利を受けるだけである。
これはヨシュアだけのことであろうか、今、キリスト者にはもっと近しく主がおられる。私たちが弱るのは目に映る所に囚われて、神の計画に無い戦いをするからであり、その時敵に引き回されて弱り果てるのだ。
神はご真実であることは試練の中で知ることが出来る。備えられている脱出の道も試練の中で見つけるものであり、それらの経験の積み重ねによって、主が良い方であることを確信して喜びと賛美に満ちた信仰が育てられる。キリストの命をたまわったキリスト者は、主を知ることに命を賭ける者である。
あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。(Ⅰコリント10:13)
強くあれ。雄々しくあれ。あなたはわたしが父祖たちに与えると誓った地を、この民に受け継がせなければならないからだ。
ただ強くあれ。雄々しくあれ。わたしのしもべモーセがあなたに命じた律法のすべてを守り行うためである。これを離れて、右にも左にもそれてはならない。あなたが行くところどこででも、あなたが栄えるためである。(6~7)
主に在る者の強さとは、弱さの中に完全に働く神の力を知って安息する力である。
その時、自分がどうであるかなどとは考えず、自分を忘れていのちを与える言葉に耳を傾けている。心を動かし、力を満たして事を成し遂げさせるのは主であるから。
このみおしえの書をあなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさめ。そのうちに記されていることすべてを守り行うためである。そのとき、あなたは自分がすることで繁栄し、そのとき、あなたは栄えるからである。(8)
みことばと祈りは一つであり拠り頼む者の神の力である。人の知恵も権力も何の役にも立たない。どうして神の計画を人の何かによって成すことが出来るであろう。
聖霊に導かれたみことばは、すべてのことを成し遂げるための必要を教えて、主に聴いて「アーメン」と答えた時に完了している。後は立ってその事実を経験しに行くだけである。
わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたが行くところどこででも、あなたの神、主があなたとともにおられるのだから。」(9)
キリスト者が恐れるものとは何だろう。自分の弱さ・・罪深さ・・愚かさや、無知、そんなことはすでにキリストがあがなってくださり、聖霊はうちに蓄えたみことばを思い出させて神の知恵と力を満たしていてくださる。
恐れるのは自分により頼むからである。どんな知者であろうと学者であろうと神のご計画を知る者はなく、其処に主は居られないから恐れるのでありその恐怖は当然である。
主はヨシュアを、イスラエルをこれほどに祝福しておられる。同じ神が、御子キリストの命をたまわっているキリスト者にも、日々のうちなる主とのお交わりの喜びと、やがてリアルに主と共に生きる永遠の望みに溢れさせてくださっている。