中風の病人を、4人の人たちが担いでイエスさまの所にやって来た。群衆のために近づくことができなかったので、彼らは屋根を破って病人をイエスさまの前に吊り降ろすという、奇想天外な手段でイエスさまに病人の癒しを求めた。
此処でイエスさまは「彼らの信仰を見て」と言われた。彼らとは運んできた人々の信仰であって、中風の人の信仰ではない。彼はただ、なされるままに身を任せていただけである。
私は、「あなたの信仰が癒した。」というような箇所と比べて考えてしまった。
中風という病人の意識はしっかりしており、イエスさまの癒しを受けるために運ばれることや、他所の家の屋根を剥がすという行為を理解しつつも、止めることはなかった。
普通に考えるなら、少しでも自分の病に妥協しておれば「もう、そんなにしなくても良い。」と言うだろう。
彼は手段を選ばないほど熱心に、癒しを求めていたのだと思う・・。だから、イエスさまがほめられたほどの4人の信仰に賭けたのだろう。彼は「良くなりたかった」のだ。
「あなたの罪は赦された」
とイエスさまが言われたとき、律法学者の「神を汚している」というつぶやきは、日本ではあまり理解出来ない。この国では神々は人によって作られ、それをなんとも思わないのだから・・。この国の神のレベルはそのようなものなのだから・・。
しかし、罪の赦しを宣言する権威は造り主にしかないのである。
イエスに神を見いだすことが出来なかった律法学者は、
「起きて寝床をたたんで歩け」という、イエスさまの証の言葉によって病人が歩いたとき、まことに神にあってつぶやいていたのであれば、ひれ伏しただろう。
イエスさまは、彼らにそのチャンスを与えられたのだ。
イエスさまはご自身を証して下さるお方である。私たちの生活の中の卑近な事柄にみわざを現してくださる。それは私たちが、身近なことを通しても神をあがめるためである。
この病人のイエスさまへの信仰はまったくわからない。でも、主は癒された。イエスさまは小さな信仰をも、「あなたの信仰」とほめて育ててくださるお方だけれど、罪の赦しを受けるに価する何ものも私たちにはない。
それは本人の信仰でもなく、連れてきた人の信仰によるのでもなく、ただ、キリスト・イエスの権威による癒しであった。
私たちの生活の中で働いて下さる主の助けを、「私の信仰」によると勘違いすることは恐ろしい。ただ、神の御名が崇められるために、イエスさまの権威によるのであるから、主の御前に信仰を持ってひれ伏し、造り主なるお方を喜びあがめるのみである。
神の御子イエスさまが来られ、十字架によって救いのみわざを完成してくださった今は、イエスさまを主とする生きた信仰によって、イエスさまの権威を身近に味わい、いよいよ主を知って成長することが赦されている。
何時でもイエスさまのことばを食することが出来るし、いのちの水を飲むことができる。
その人は新しい葡萄酒であり、古い人間の宗教にはとどまれない。もし、留まろうとすると中から破壊し、それを裂く存在となるだろう・・。
新しい革袋であるイエスさまの中に住み、イエスさまにあれば成長することができる。
人はすべてただで受けたことであり、なんの対価も払っては居ない。
「わたしを愛する者を、わたしは愛する。わたしを熱心に捜す者は、わたしを見つける。」箴言8:17
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