五羽の雀は二アサリオンで売っているでしょう。そんな雀の一羽でも、神の御前には忘れられてはいません。
それどころか、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。(ルカ12:6~7)
髪の毛の数さえも数えられているとは・・、大げさに感じたことがあった。抜け落ちて変化し続ける数をと思ったけれど、人の心はもっと変化するものであった。
信仰があろうが無かろうが、相手の顔色一つで心が揺れる頼りない者。時々刻々移ろう心をも見ておられる主に在って、すべては知られているのだ。
イエスさまはキリスト者のうちに在って、常に親しく「友よ」と呼んで責任を取っていてくださるから、示されたことは何でもできるのである。
恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。(イザヤ41:10)
昨日は孫のお誕生日だった。「10歳おめでとう」と言ったら、「11歳だよ」と教えられた。まったく私はとんちんかん・・。
間違いを教えて貰ったらしっかり記憶できる。もっとも私の事だから来年また「11歳おめでとう」と言わないとも限らないけれど・・。
私のとんちんかんは例外にしても、人は間違いを犯す者である。
だから聖霊に聞いた言葉を語る時は、間違いに対する恐れを覚える。しかし、知り尽くしておられる方に用いられる時、その恐れは主を敬っての恐れではなく不信仰から出るものなのだ。そこに嵌ると前に進めなくなって、タルシシュ行きの舟の中となってしまう。
人々があなたがたを、会堂や役人や権力者などのところに連れて行ったとき、何をどう弁明しようか、何を言おうかと心配するには及びません。
言うべきことは、そのときに聖霊が教えてくださるからです。(ルカ12:11~12)
聖霊に直接教えられる時はみことばの全体像が見えなくて、物足りなさを抱え主に問い続ける中で、在る瞬間にはっきり見るのだけれど、ただ、それを正確に書くことや話すことは肉を通す作業となり・・、それが結構恐いことである。
分かったことに満足してサッサと次に進みたくなるけれど、主は誰のために教えてくださったかが分かっているので、それが許されるわけもなく・・。拠って立つ所は、「主は私の使い方を間違えなさらない」という信頼だけである。
たとい、人の子をそしることばを使う者があっても、赦されます。しかし、聖霊をけがす者は赦されません。(ルカ12:10)
聴く人は、聖霊を通して聖書に照らして、確認することができるわけであり、主は真実に求める人を守られる。
誰が語ろうともみことばに関しては、聖霊に拠らずに受け入れることは間違っている。
「神は霊」だから、神さまは学問や言い伝えではなく、聖霊の導きに拠って礼拝するのである。「聖霊を汚す」とは、聖霊以外のものに拠ることなのだ。
神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」(ヨハネ4:24)
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