岩を打って水を出すことよりも、岩に命じて水を出すことの方が信仰が必要である。
自分の行いに満足することには信仰は要らない。しかしキリストの行いに安息することには信仰が必要である。
愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。
御子にこの望みをかけている人は皆、御子が清いように、自分を清めます。(Ⅰヨハネ3:2~3)
イエス様の十字架のあがないの血によって、自分の罪汚れを洗うことは完全な清さである。人の清さはただキリストにかくまわれ神様の義に与ることにある。
「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。(黙示録7:14)
キリストの内にいる者は罪を犯すことができない。罪を犯す者は、ユダのように自分から闇の中に出て行って罪を犯すのである。
惑わされてはいけない。「罪を犯したから、清くなるまで主から身を避けよう・・」などと騙されてはならない。
ただ、直ちにその罪をキリストの血で洗うこと。
私たちの願いは、神様の命令を守りたい、清くありたい、愛したいのである。その願いは神様から出ていることであり、みこころであるから神様は必ず叶えてくださることである。此処に私たちには安息する。
愛は時に叱責として現れ、時に鞭をも振るわれる。
イエス様は宗教者に対して、偽りに厳しい言葉を語ることで愛された。しかし、彼らを無視されることはなかった。
招かれれば食事を共にし、彼らの集まりの中で真実を暴いて悔い改めを迫られた。それがご自身への憎しみを掻き立てることであるとしても、主の愛はご自身を惜しむことも恐れもなかった。
愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。(Ⅰヨハネ4:18)
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