石ころ

戦いの中に在るキリストの平安(ヨシュア記23章)

 

主が、周囲のすべての敵からイスラエルを守って安息を与えられてから、多くの日がたち、ヨシュアは年を重ねて老人になっていた。(1)

 

主はヨシュアの働きに満足されて、老年期の後半には平和を与えられた。民はリーダー次第で何もかも変わる。主に従順なリーダーに恵まれて、良く聞き従い彼らは主の祝福の中に住んでいた。
ヨシュアは全イスラエルの指導者を呼び寄せて言った。

 

あなたがたは、自分たちの神、主が自分たちのために、これらすべての国々に行ったことをすべて見てきた。あなたがたのために戦ったのは、あなたがたの神、主である。(3)

 

今の平和は主が与えたものであると、ヨシュアはその事実を、あなたがたは見て来たのだと、改めて確認させている。
それはやがてくるヨシュアの終わりの日のために、イスラエルが覚えて置くべきことなのである。

良いことが人の力によって得たものなら、その人の死がすべての終わりとなるのだ。何時までも続く祝福は、唯一終わりの無い方に拠らなければ実現しないのである。

 

あなたがたの神、主ご自身が、彼らをあなたがたの前から追い払い、あなたがたの目の前から追い出される。あなたがたの神、主があなたがたに告げたように彼らの地を占領しなさい。(5)

 

ヨシュアは主に拠って彼らの地を、主の備えによるくじによって与え、今彼らは平和を享受している。

ヨシュアは、平和はこのままの状態で何もせずに続くものではなく、主の賜りものの平和は主に留まるために戦い勝ち取るものであることを伝えた。

 

今も平和や繁栄の中で主を忘れて堕落する。戦いの最中に主を忘れる者は居ない。それは命の危険があるからである。
しかし穏やかな日々の中では、世に調子を合わせているうちにすっかり世に染まり、繁栄を競い合って一喜一憂する中で、自分が何ものであるかを忘れてしまうのだ。

 

平和の中で主が占領せよと言っておられるものは、過ぎ去ったはずの古い価値観であり、勝ち取るべきものは、キリストに在って新しく生まれたいのちに拠る生き方である。神のことばに安息するいのちの日々である。

 

わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。(ヨハネ14:27)

 

それは世が見たことも聞いたこともない平安である。それは戦いの中に在り、怯んでいては捉えることのない真理である。それらは、世に心を騒がせていては得られないのだ。


それは、世が見た聴いたこともないものゆえに、キリストの平安に住んでいる人を見るとき、その人の魂はキリストに渇きを覚えるのである。このことこそ、世に対するキリスト者の勝利の印しである。

この平和は如何なる状況にも対応してその身の避け所となり、終わることの無い希望となって、唯一真の愛に導くものである。

 

また、モーセの律法の書に記されていることを、ことごとく断固として守り行いなさい。そこから右にも左にも外れず、
これらの国々、あなたがたの中に残っている、これらの異邦の民と交わらないようにするためである。彼らの神々の名を口にしてはならない。それらによって誓ってはならない。それらに仕えてはならない。それらを拝んではならない。(6~7)

 

神はねたむ神である。御手によって造られ、ひとり子の神をたまわるほどに愛された者ゆえに、ご自身を否んで偶像を礼拝することをお赦しにはならない。それは愛する者が滅びに向かって行くことだからである。

 

彼らの土地にまだ住んでいる異邦人に対しては、律法に忠実なきよさを守って、汚れた行いである偶像礼拝から身を守って主に純潔を捧げるのである。
神の選びの民は神を離れては何も出来ず、主を離れた途端に彼らには血の腐敗と堕落が待ち受けているからでもある。

 

パウロの戦いは今もキリスト者の戦いであって、世とキリストのほどよい所で生きるということは、堕落であり、そこでキリストが崇められることはなく、創造主なる神がほめたたえられることもない。

 

私の願いは、どんな場合にも恥じることなく、今もいつものように大胆に語り、生きるにしても死ぬにしても、私の身によってキリストがあがめられることです。
生きることはキリスト死ぬことは益です。(ピリピ1:20~21)

 

この戦いは一人の戦いではなく、聖霊はみことばを思い出せて知恵を与え、主が共にいてくださることを経験させてくださる戦いである。
このような日々に在って主への信頼を増し、御国の約束が確かなものであることを経験して行くことになるのだ。

 

神はこの世に完全な平和を与えることは無い。此処は安住の地ではないからである。常に戦いの中に在って主に聴きつつ、御許への一日一日を主と共に生きるようにされている。
それは神の愛から出たことであり、無事に御国にたどり着くために交わりを絶やさないためである。

それは御国の門はキリストであり、例え命を捧げるほどの善行を行ったとしても、キリストを離れては決して入れないいのちの門だからである。


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