石ころ

私たちの中に住まわれる神のキリスト(ヨハネの福音書1章)

 

ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。(14)

 

キリストは永遠のいのちに在る神の栄光から、罪によって死ぬべき人の体を纏い、人によって育てられて生きることの苦しみや痛みを知っていてくださる。
高い所から見下ろして裁く神ではなく、救いのために十字架にまで下ってくださって、今も私たちの弱さの真ん中に居て同情してくださるお方である。

 

私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。(へブル4:15)

 

ヨハネはこの方について証しして、こう叫んだ。「『私の後に来られる方は、私にまさる方です。私より先におられたからです』と私が言ったのは、この方のことです。」(15)

 

キリストはすべてのはじめであり、すべては神のみこころによってキリストが造られた。天地の造られる以前から存在されたお方である。

しかしどうして霊である神を、肉なる者が知るであろう。創造主を知ることこそ奇跡である。


造られたものがその作者を知ることなどは奇跡以外になく、聖書は創造主なる神の知識の書であり、人となって父なる神のみこころを行う御子イエスを語り、聖霊なる神によってキリストの真理を教え導き、三位一体の神の御わざによって滅ぶべき者を罪から救い出し、神の子として永遠に共に生きる者としてくださったのである。

 

私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた。
律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。(16~17)

 

主の豊かさを知る時、人はすべての貧しさから解放される。死ぬことのないいのちの豊かさを持っており、天地のすべては御手の中に在ることを知っており「求めなさい。そうすれば与えられます」と言うみことばを聴いているからである。

 

神の御愛は御子をたまわるほどの愛であり、罪をあがなって神の子としてくださるほどに無限の愛をたまわっている。

病や体の心配は、永遠のいのちを生きるようになる身には一時の事であり、この体の滅びる時は愛する主の御許に行き、晴れがましくも深い感謝の中で主にお目にかかる時となる。真にすべては神の備えによって、イエス・キリストが地に来てくださった幸いである。

 

いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。(18)

 

今、父なる神にもキリストにもお会いすることはなくても、キリストが世に生きて下さったことを聖書を通し、使徒たちから多くの言葉を持って教えられ、神を見てはいなくても御約束の希望の中で生きている。

 

それは聖霊が共に生きてみことばを指し示し、祈りのお交わりを通し、この世の様々な出来事を通しても、主をリアルに解き明かし続けていてくださるからである。

 

今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。
なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の律法が、罪と死の律法からあなたを解放したからです。(ローマ8:1)

 

このことの故に、主に信頼して大胆に生きることが出来るのは、聖霊が日々にキリストの律法を教えて、恵みに満たしてくださる平安があるからである。

キリストが支払ってくださった罪の代価が、神の御子がご自身を捧げるほどの重い罪であっても、それほどの値によって救われたいのちのゆえに、我が身の幸いをみことばに聴き続けて止まないのである。


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