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石ころ

私の好きな「ヨブ記」

 

 信仰の初めに聖書を読み始めて引き込まれた箇所が「ヨブ記」であった。ヨブの神を求めて格闘する姿に強く惹かれた。
帰郷していた息子が通読箇所だと開いたので、一緒に読んでいて熱いものがよみがえって来た。

 

 神はヨブを正しい人と評価された。神のことばはヨブの心がひととき迷ったからと、変わってしまうようなものではない。
主が初めからヨブの本質をご存じないであろうか。サタンの企みによってボロを出すようなお方であろうか。神はサタンを用いて、ヨブを腹蔵なき信仰に導かれたのである。

 

どのような犠牲を払おうとも、人にとってこれほどまでに神のことばを聴く関係に至る祝福は、他に比べ得るものなき光栄である。ヨブは腹の底から叫びを上げて主を求め、みこころの解き明かしを求めたのである。それは主を知ることの飢餓である。

 

神は初めからヨブの信仰のすべてをご存じである。ヨブに物足りなさを覚えておられたことは、みことばへの飢え渇きであった。ヨブは息子たちの分まで主に仕え、その行いによって完全であろうと思っていたのである。

 

ヨブの正しさは「間違ったことを言わない」そのようなものではなく、どれほどに打ちのめされても「神との関係を求め続ける」ことにあった。
正しい言葉だけを語ることは表裏ある人なら簡単である。しかし神は私たちの言葉が口に出る前から、その真意まで知って居られる。

 

神はヨブの腹の底から溢れる出るような叫びを、初めからすべて聞いておられた。善悪知識の木の実を食べた者の価値観と衝突する、神の義を語り聞かせるために、すべてを吐き出して空っぽになるのを待っておられた。

 

エリフは人の正しい言葉を語ったが、ヨブのために何の犠牲も払わない解説者であり、神は彼については、ヨブの友人のようには心に掛けず無視された。誰であっても神の前に出るためにエリフの教えを受ける必要はない。神と人の間に立つ方はイエス・キリストだけである。
肉の弱さを持った人の取り繕いの言葉が、主に通用するであろうか・・。

 

「ヨブのように、誠実で直ぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっている者は、地上には一人もいない。」(ヨブ1:8)

 

神はヨブを愛しておられ、その愛は永遠に変わることは無いお方である。愛されたのは彼が隠し事をせず、ひたすらにみこころを知りたいと求める心にあるのだ。
神はヨブの心のうちにある叫びを初めからすべて聞いておられる。そうして、多くの時間をかけてご自身を語り聴かせてくださったのである。

 

母が幼子に絵本を読み聞かせるように、ヨブひとりのために創造の妙を順々と語り聴かせて、善悪をはるかに越える神のわざの高みに連れ登り、みことばに満ち満ちる関係の深みに導かれたとき、彼はすべてを主に委ねる真の安息を得たのである。
ヨブの子供たちの回復は決してサタンに勝利させることのない、神の初めからの計画によることである。

 

どうぞヨブ記をお読みになってみてください。


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