あなたが、あなたの神、主の命令を守り主の道を歩むなら、主はあなたに誓われたとおり、あなたをご自分の聖なる民として立ててくださる。(9)
天地創造の神を信じている者に神の一方的な祝福がある。彼らは主に信頼してみことばを聴き、たまわった命によって聴いたことを行う。
ご真実な主が一人ひとりに相応しく必要を備えてくださってあるから、主に信頼しているなら誰でも出来ることである。
みことばを聴き続けているなら、それを行うことも自然な流れであり、聞くばかりということは、聞き流してみことばが留まっておらず、応答が無い所には関係が育つこともない。
信頼関係なければ教えを受けて成長することはなく、自分自身を主に委ねて働く力も、そこにある平安も経験せずに、祝福の年月を空しく過ぎ去らせるのである。
地上のあらゆる民はあなたに主の名がつけられているのを見て、あなたを恐れるであろう。(10)
この恐れは、人の力や賢さや武器への恐れではなく、神に造られた者が抱く霊的な恐れである。世の状況を見て恐れているのではないので、戦いの中にあろうと平和であろうと変わることのない恐れである。
人間の力を恐れているのではないので、霊のことを人の知恵や力をもって戦っても、そこに主のみわざが現れることはなく、主の備えによる勝利もない。
すべては「あなたに主の名が付けられているのを見た」からである。
「主の名が付けられている」者は、大きなことも小さなことにもイエス・キリストのみことばを根拠にして働く者であり、時が良くても悪くても変わることなく、キリストに全幅の信頼を置いて命を用いる者である。
自分を恥じて主の名を隠すなら、それは訴え続けるサタンが勝利した結果である。自分を恥じ続けることは主の十字架を軽んじ、みことばに安息していない故である。それを不信仰という。
私たちの失敗によって神が躓くだろうか、主は私たちが塵に過ぎないことはご存じである。
みことばを成し遂げさせて、計画を完成されるのは主である。
主にすべてを委ねて安息する者を、神の知恵は御手のうちに練り直し、キリストの血潮に洗って用いてくださる。それは神の愛に拠ることである。
主があなたに与えるとあなたの父祖たちに誓われたその地で、主はあなたの胎の実、家畜が産むもの、大地の実りを豊かに恵んでくださる。
主はその恵みの倉、天を開き、時にかなって雨をあなたの地に与え、あなたのすべての手のわざを祝福される。それで、あなたは多くの国々に貸すが、借りることはない。(11~12)
財力がない、学歴がない、血筋による伝手もないと言いつつ、自分自身を神から守って、漠然とわかってはいても示された地に渡ることをしないのは、このままで良いと神の祝福などには興味もなく、自分の計画を明日も生きて行くと言う。
いや、明日があると思うのは幻想である。命の時は一時も止まってはいない。慣れ親しんだ日々は一瞬にして変わる。世で積み上げたものは必ず一瞬に崩れる。それが地に生きる命である。誰にとっても、永遠に残るものを求める日は今日限りかも知れないのである。
神のすべての祝福を得て御名の栄光を現すために、神の御子のいのちをたまわった者には莫大な借りがある。
祝福を受けて返済しなければならない。キリストによって与えられた祝福は、受けても受けなくても良いものではないのだ。
私が今日あなたに命じる、あなたの神、主の命令に聞き従い、守り行うなら、主はあなたをかしらとし、尾とはされない。あなたはただ上になり、下になることはない。
私が今日あなたがたに命じるこのすべてのことばから右や左に外れ、ほかの神々に従い、それに仕えてはならない。(13~14)
神はキリストに在る者を、主を知らない人々の上に置かれる。このことは一人でも多くの人々に永遠のいのちをお与えになるためである。其処はすべての頭なるキリストが立たれる所であり、その宮であるキリスト者も当然そこに在らねばならない。
すべては神の御名があがめられるためであり主の権威によることであって、人は謙遜によって「ご計画がこの身になりますように」とすべてを捧げるのである。