
今日は役場に行ってそれからライフへ行った。
行くとこ見る物全部悲しかった。胸の奥に重い水たまり。ドンドン膨らんで押しつぶされそうになったから、そそくさと買い物をバイクに積み込み店を後にした。
吹っ切ろうと思いっきり飛ばして帰った。
主人の部屋に祭られている祭壇、むせかえる花の匂いがもどうにもなじめない。花が嫌いになりそう・・。なんとかしなければ。
一番好きな主人の写真をリビングの家族写真の中に貼る。うん、これが一番落ち着く。褒めてくれているような満足そうな顔。その顔には自然に言葉が出てくる。
主人が褒めてくれるから何でも出来た。しんどいことでもそれだけで報われた。誰も評価しなくても「お前やさかい出来た。いつでもお前がそうしてくれるさかいや。ありがとう」って言ってくれた。
だから、さり気ない顔をしている時も、調子に乗ってピースサインをするときも私はいつも報われ幸せだった。
主人は私と一緒に居るべきで、写真に向かって語る人ではなく、墓に語る人でもない。
確かに私が主人を、この手の中に抱きかかえるようにして天に送った。
今、霊はイエス様とともにパラダイスに居る確信があり、深い平安と喜びがある。その嬉しさは、みことばが真実である事を経験させていただいた喜び。
葬式ではその事実のみに私の心は釘付けであって、悲しくはなかった。喜びと悲しみは同居しないから・・。
しかし・・、霊柩車の中でひとり写真を抱いて、病院の帰りにいつも通った道を走っているとき、留めようもなく涙が溢れた。運転手に気付かれたくなかったのだけれど・・。
昨夜、テレビをぼんやりと見ていて、そのポジティブな生き方の中にハッと気付いた。
「ああ、そうだ。今も主人を喜ばせておれば良いのだ」って・・、何も変わる必要なんか無いのだってことに。
私が笑っていると主人も機嫌が良かった。私が元気なとき主人も元気で、私が病気になったら主人もしんどくなった。
一緒に居た日々と同じように生きて行こう・・。何を評価してくれるのかを良く知って居るから、主人はいつでも心の中に応答してくれる。
出来ないときには、今までみたいに甘えていよう・・「無理、知って居るやろう」って・・。それでも驚かせたいから、今までみたいにやってしまうかも知れないけれど・・。
「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」(使徒16:31)