自分の十字架を負ってわたしに従って来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。(マタイ10:38)
イエスさまの負ってくださった十字架は無実の罪の十字架であり、全人類の罪を負ってくださった結果、罪を受け入れることができない御父に捨てられる過酷な十字架あった。
キリストは私たちに「自分の十字架を負ってついて来なさい」と命じられた。私の十字架は自分の罪の結果による十字架であるが、キリスト信仰によって、すべての罪は赦されており無実の十字架なのである!
一方的な主の憐みによって義とされ、聖とされた恵みによることであり、それは罪なきキリストの十字架とはおよそ似てはいないけれど、神がキリストの御わざにより神の子とされた者である。
キリスト者のいのちは霊に在って、からだは死や携挙によって脱ぎ捨てるものであり、霊にはまったく傷の無い新しいからだを賜るのだ。
キリストが無実で死刑とされたのなら、神に敵対するものによる責めや、訴えがキリスト者に執拗であるのは当然である。古いからだを纏って生きている者には、突っ込み所が満載だからである。
キリストの十字架の御救いにしっかりと立って、罪の奴隷のくびきを負わされて弱り果てないように、聖霊の助けに依らなければならない。その責めは神から出てはいないからである。
キリストは、自由を得させるために私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは堅く立って、再び奴隷のくびきを負わされないようにしなさい。(ガラテヤ5:1)
しかし、人はキリストのような無実ではないので、浴びせられる責めの一つひとつを、あれは事実であってもこれは無実だと仕分けをして言い訳に明け暮れるなら、すでに敵に絡めとられているのである。
キリストが「自分の十字架」を負ってついて来なさいと言われたのは、すでに罪を赦された神の子として、責められるところの無い平安と、喜びを持って付いて来なさいと言われたのである。永遠まで・・。
この古いからだや魂に纏わり付く罪を、前を行くキリストの十字架の御約束によって、霊も魂も肉も日々洗いきよめられつつ新しい日を生きるのである。
聖霊はみことばを確信させ続けてくださる。キリストの信仰に留まって、キリストと同じ罵りと恥の十字架を負うことが出来るのである。十字架は世では成功の冠ではなく恥と罵りと責めであり、天では耐え忍んだ者に与えられる冠となる。