goo blog サービス終了のお知らせ 

石ころ

罪の債務証書




 姦淫の罪を犯したダビデに、神様はナタンを遣わして悔い改めに導かれた。こうしてダビデは守られた。
今私たちにも聖霊によって、みことばを示して悔い改めを導いてくださる。だから主と共に居るならいつも平安である。

神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。(ヘブル4:12)

 善悪の知識の木の実を食べて以来、人の善悪の基準は自己中心に揺れ動く。造り主の主権を認めず理屈を付けて、みことばのみが正義であることを認めない。
人が罪を考える時は神様を見上げずに人を見て判断する。それは、「赤信号みんなで渡れば恐くない」であり、それが基準になって滅びることは神様の悲しみである。

国民が喜び、また、喜び歌いますように。
それはあなたが公正を持って国々の民をさばかれ、
地の国民を導かれるからです。(詩編)67:4


善と悪を神の支配の下に置いて委ねるなら、神様はご自分の愛する者を守ってくださる。裁きも導きも主のなさることである。それを私たちはただ喜ぶのである。
聖霊によって罪を示されて十字架に導いてくださる時、そこで私たちは福音のみことばに出会うのだ。

いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。(コロサイ2:14)

私の過去、現在、未来の罪々を書き連ねられた罪の債務証書は十字架に釘づけられている。それがキリストと共に死んで完了されたものであることを、みことばによって確認するのである。
罪を思い出す度に十字架に戻るなら、その罪がすでに処罰を終えていることを知るのである。永遠の責めから解放されたことはなんと幸いなことだろう。

だから十字架の下で私は歓喜する。救いの神をほめたたえて心は喜びで震える。それは日常の良いこと、悪いことによって変わることはない喜び。
それはこの何の価値もない罪の者が、神様にどれほど愛されたかということであるから・・。

幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。
幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は。(詩編32:1~2)

ランキングに参加中。クリックして応援お願いします!

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

※ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「Weblog」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事