
その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」
こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。(ヨハネ20:19~20)
弟子たちは、肉体を持ってよみがえられたイエスさまをすぐに認識することができなかった。これは不思議なことである。復活ということがどれほど理解のむずかしいことか・・ということであるが、イエスさまは世でラザロを生き返らせておられるのだ。
彼らはイエスさまが近しく来て見せてくださった十字架の傷跡によって、かって語ってくださったおことばの通りであることを思い出して喜んだのだった。
イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。(マタイ16:21)
クレオパたちも、同行して話してくださるイエスさまに気付くことができなかった。
気落ちして去って行く彼らに、イエスさまが寄り添って歩みご自身を解き明かしてくださったのだった。
その時、名の書かれていないもう一人とも一緒に歩いてくださったのである。そのことに今の私は近く感じた。人生をそっと共に歩いてくださって、渇いて主を求めた時にご自身を教えてくださったからである。
イエスが、死人の中からよみがえってから、弟子たちにご自分を現されたのは、すでにこれで三度目である。(ヨハネ21:14)
その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。(Ⅰコリント15:6)
歴史の中でイエス・キリストの死と復活が記されている。それでも人の心は頑なであり、神のキリストを信じるには主の助けが必要なのである。
一人ひとりの心に来て、霊の目を開いて解き明かしてくださらないと、誰もイエスさまを知るができないのだ。
でも、そこに私たちの平安がある。主の良きご計画によってすべてが始まったのなら、完成してくださえるのも主であるから・・。
すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。(ローマ11:36)