
弟子の殉教の様子はほとんど聖書には記されていない。これは驚くべき事である。勇敢な信仰の最後が書かれていないことは、彼らの意向に添ったことであり、神のみこころに叶ったことなのだ。
彼らの死の棘は抜かれており、いかなる死も彼らに勝利しないからである。ペテロの信仰の歩みは失敗も成功も詳しく記されている。パウロもそうである。
キリスト者にとって重要な事は、「どのように死んだか」ではなく「如何に主とともに生きたか」である。
日々主と共に喜び、悲しみ、驚き、悩み、感動し、失敗のときの助けと守りを経験するなかで、神の愛に育まれて成長して行く歩みにこそ価値があるのである。
キリスト者は救いの喜びを知り、滅びの恐ろしさを知り、世にあってその両方を見る日々は、時に深い悲しみや悩みがある。
それは、イエスさまの御足跡を自分の十字架を負って行くことであり、死はそれらの苦しみからの脱出でもあるから、その死がどうようなものであっても、主が待ってくださるゴールに達したという喜びは大きいのである。
忠実に生きた者ほどその喜びや感動は、一時の苦痛をはるかに凌ぐものであろうと想像できる。
この世に死ねない苦痛はいくらでもある。死を前にした苦痛など多種多様にある。キリストを知らなければそれらは、殉教とは比べものにならないほど恐ろしいものであろう。そこには何の希望もないからである。
いま私は、心を縛られて、エルサレムに上る途中です。そこで私にどんなことが起こるのかわかりません。
ただわかっているのは、聖霊がどの町でも私にはっきりとあかしされて、なわめと苦しみが私を待っていると言われることです。
けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。(使徒20:22~24)
すべての賢い言葉を捨てて、主への従順さにおいては幼子のようになることを選んだパウロ。彼は時に自慢と受け取られる言葉を語ったが、それは幼子のように直截に事実を述べたのである。彼は謙遜な言葉で自分を粧うことをせず、愚かな言葉で明確に語った。それは彼の聖さである。