御霊はわたしの栄光を現されます。わたしのものを受けて、あなたがたに伝えてくださるのです。
父が持っておられるものはすべて、わたしのものです。ですからわたしは、御霊がわたしのものを受けて、あなたがたに伝えると言ったのです。(14~15)
三位一体の神は、創造主なる神に反抗して罪の中に留まっている者を、死という永遠の滅びから救って新しいいのちを与えるために、御子イエスの命を身代わりとして罪を清算して神の義を行い、罪人に永遠の愛を示してくださった。
人にとって、この事実以上に重要な知識があるだろうか。御霊はこの神の愛を私たちの霊に来て知らせ、イエスを信じる勇気を与えてくださる。
「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなりますが、またしばらくすると、わたしを見ます。」
そこで、弟子たちのうちのある者たちは互いに言った。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見る』、また『わたしは父のもとに行くからだ』と言われるのは、どういうことなのだろうか。」(16~17)
聖書を正しく理解するためには聖霊による翻訳が必要である。神は霊なので霊によってイエスの言葉を知るためである。人の知性による知る知識は、サタンが勧めた善悪の木の実の由来のバイアスが掛かっており、神の言葉はそれらの対極にあるからである。
弟子たちが今イエスの言葉が理解できないのは当然であった。イエスは、後に聖霊によって解かれる言葉を聴かせておられる。
聖書を一読しても、繰り返し読んでもさっぱり意味がわかない時があるが、それは人から教えられた言葉で理解するという、初歩的な知識に納得してしまうものではなく、その言葉を生きることが出来るまで留まることが必要である。
イエスは、やがて聖霊によって真理を解き明かし、それを生きる力を添えてくださる。
こうして、彼らは「しばらくすると、と言われるのは何のことだろうか。何を話しておられるのか私たちには分からない」と言った。
イエスは、彼らが何かを尋ねたがっているのに気づいて、彼らに言われた。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見る』と、わたしが言ったことについて、互いに論じ合っているのですか。」(18~19)
この時の弟子とイエスとの対話は交わりである。彼らは将来をはっきり知る霊の目は開かれていないが、最も大切なことを味わっているのである。
それはイエスとの交わりの時であり、甘い関係が構築されている期間である。
このようなイエスとの交わりがあってこそ、聞いていた言葉が心の奥に愛の記憶として蓄えられる。慕わしい方の言葉は誰でも何時までも忘れないものであり、もし忘れても少し触れられたら直ぐに思い出すのだ。
私たちは日々のみことばと祈りの中で、イエスとのお交わりの時を持っているなら、みことばの内容がすぐにわからなくても少しも心配はいらない。時が来たら聖霊がそのみことばを示して、生きて働くみことばを経験させてくださるからである。
まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたは泣き、嘆き悲しむが、世は喜びます。あなたがたは悲しみます。しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります。
女は子を産むとき、苦しみます。自分の時が来たからです。しかし、子を産んでしまうと、一人の人が世に生まれた喜びのために、その激しい痛みをもう覚えていません。(20~21)
聞いている言葉が分かろうと分からなかろうと、嬉しい言葉であろうと悲しい言葉であろうと、主に近しく集まって聞き続けた事実は、生きる力を与え勇気を与えるものである。それは神に覚えられているからである。
みことばは聞いた時は悲しく思ったり、辛く思うことがあるが、すべてイエスの命と共にたまわった愛の言葉である。永遠のいのちに至らせる言葉である。
キリスト信仰を守るものは、みことばを通してイエスを味わい続ける中にある。主に喜ばれた日も、失敗を慰めてくださった時も、責められてみことばを握って主の背に隠れるようにして過ごした日々も、すべてはイエスを経験し信頼を深める記憶となる。
あなたがたも今は悲しんでいます。しかし、わたしは再びあなたがたに会います。そして、あなたがたの心は喜びに満たされます。その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。
その日には、あなたがたはわたしに何も尋ねません。まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしの名によって父に求めるものは何でも、父はあなたがたに与えてくださいます。(22~23)
御父に願い求めるものは、もっともっと生きて働くみことばを経験して、神の愛を知ることである。
そうして聖霊は彼らがたまわっている神の愛の真実を知らせ、使徒たちは殉教するまで、神の御愛に満たされていたのである。
すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。(エペソ3:18~19))
今まで、あなたがたは、わたしの名によって何も求めたことがありません。求めなさい。そうすれば受けます。あなたがたの喜びが満ちあふれるようになるためです。(24)
弟子は、イエスが共におられるときはパンを買いに行っていた。パンの奇跡を経験しても、日々に主に求めることをしなかった。彼らはイエスのもとでも生まれながらの経験によって生きていた。
しかし、イエスが去っていかれると彼らは聖霊によって新しく生まれ、聴いていたみことば、経験したキリストに拠って生きる者となるのである。
それは、すべてをイエスの御名によって父なる神に願い求めて、みこころを生きる神の子の生き方である。
わたしはこれらのことを、あなたがたにたとえで話しました。もはやたとえで話すのではなく、はっきりと父について伝える時が来ます。
その日には、あなたがたはわたしの名によって求めます。あなたがたに代わってわたしが父に願う、と言うのではありません(25~26)
その時、天地創造の神が父となり、御子イエスは兄となり、聖霊に助けられた神の家族である。
このことは、聖霊の臨在によってイエス・キリストを信じた者が、皆たまわる神の恵みであり特権である。この関係はただただ信仰よることであり、感情や知識ではなく、聖霊に拠り神の約束に信頼することで事実となる関係である。
父ご自身があなたがたを愛しておられるのです。あなたがたがわたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからです。
わたしは父のもとから出て、世に来ましたが、再び世を去って、父のもとに行きます。」(27~28)
ひとりの御子をたまわるほどの神の愛は、応答する時にその身に事実となり、あれこれと難しいことを学んで得ることではなく単純なことである。そう、神の愛は誰でも知ることが出来るように聖霊が導いてくださっている。
イエスは御父の愛を余すところなく世に現して、今は御父の右の座に着き、未だ肉の弱さにあるキリスト者を、その過去、現在、未来の罪の贖いが、十字架で終えている事実をもって弁護していてくださる。
弟子たちは言った。「本当に、今あなたははっきりとお話しくださり、何もたとえでは語られません。
あなたがすべてをご存じであり、だれかがあなたにお尋ねする必要もないことが、今、分かりました。ですから私たちは、あなたが神から来られたことを信じます。」(29~30)
イエスとの交わりの中では、主を喜ばせる言葉を語る必要は無く、むしろ分からないこと、出来ないことはそのままに申し上げて、必要な助けを乞わなければならない。
盲人はイエスに開かれた目がはっきり見るまで主に居た。彼は事実を申しあげてはっきり見えるようになった。
御前で待つこと、みことばを聞き続けることを求める必要がある。それが主を知るための熱心である。
イエスは彼らに答えられた。「あなたがたは今、信じているのですか。
見なさい。その時が来ます。いや、すでに来ています。あなたがたはそれぞれ散らされて自分のところに帰り、わたしを一人残します。しかし、父がわたしとともにおられるので、わたしは一人ではありません。(31~32)
イエスに誓った言葉は後に試される。それゆえ主は誓ってはならないと教えられた。しかし、イエスを主と告白する私たちの言葉は守ってくださる。それは私たちの言葉の確かさではなく、ご真実な主の憐みに拠ることである。
弟子たちは十字架のイエスを捨てて、迫害を恐れて閉じこもった。
神はご自身の聖さと義の故に、人類の罪を負われたイエスを十字架で捨てられたが、死んで神のご計画を完了されたとき、墓から呼び出して御子の栄光を現された。
私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えなさい。事実、私たちは神の子どもです。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。(1ヨハネ3:1)
神は私たちを子とする時に何の差別も付けずに「子」と呼んでくださったゆえに、救われた者は神の子である。
このことはイエス・キリストの十字架の完全さを現わすことであり、キリストの霊によって受けることである。
これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」(33)
世はイエスのことばに敵対する。キリスト者が語るみことばは、神に反抗する者の罪を暴いて、永遠のさばきの事実を語るからである。
キリスト者の愛とは、イエスが備えてくださった永遠のいのちの救いを伝えることである。それは罪を持ったままの死が永遠の滅びであり、消えない炎の罰を受ける事実を知らせて、イエスを信じて生きよと叫ぶことである。