きっちり一週間目にお電話を頂いたとき、彼女の本気が伝わってきて、再び喜んでお迎えすることが出来た。
彼女は向かい合うと、「前に聖書を読んでから来てと言ったでしょう。だから、ルカの福音書を繰り返し読んできた。」と話された。
そこで、わからないことや疑問に思ったことを書いてきたから教えて欲しい。と言われ、以前のように宗教の議論を持ち出すこともなく、開いた聖書の箇所を一緒に読み、私の知っていることをお話しすると「やはり自分で読んでおいてから聞くとよく分かるわ」と喜んでくださった。
私は恥ずかしかった。主が送って下さった方に対して性急に失望した自分の傲慢さ・・どうして私はこうもわがままなのだろうと・・本当に、主に忍耐されているのは誰でもない私自身。
主は人手不足なのだと思う。だからこの者をも忍耐の中で導きつつ、用いて下さるのだろう。
でも、このことは本当に喜んで良いのかどうか・・私には感謝だけれど・・だって、主を知る喜び、感動、そんな様子を見る時はとても嬉しいから。
メッセージで教わったラハブのこともお伝えした。主が彼女を評価されたのは、ただひとつ人を恐れずに神を恐れる信仰、それこそが私たちの目指す行いだと。
このことは、私には目から鱗だったので誰彼に伝えたかった。私にはちょっと苦手だったヤコブ書の、大切なことがわかった気がして嬉しかったから。
イエスの系図の中に売春婦であったラハブの名がある、人間的には恥ずべき経歴の人物もありのままに書き込まれている聖書。
でも、ノアもアブラハムもダビデもみんな罪人ではないか・・誰が誰よりも清いなんて、誰が誰よりもマシだなんて系図が語っているはずはない。「罪人も居た」なんて思ってしまうけれど、聖書には「義人はいない。ひとりもいない。」と書いてある。
私は、あの系図は罪人のど真ん中にイエスさまが来てくださった事を語っているのだと思った。

イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マルコ2:17)