終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。
悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。(10~11)
サタンの支配する世は霊の戦場であるから、このことばはすべてのキリスト者に対する命令である。
しかし、十字架においてキリストはすでに勝利を取っておられ、霊の目が開かれておれば、勝利の兵士であることが分かるのだ。
そのことを知っているなら平安があり、世に振り回されることなく、負け戦を味わうこともない。これらの武具は霊の目に眼鏡のようである。
私たちを強める方は勝利の主であり、人の力ではないから、この戦いは誰にとっても確かな勝利となる。
私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。
ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。(12~13)
悪魔は人を用いて、キリストにたまわっている平和を攪乱し、その魂を汚して争いを持ち込み、自身の滅びの道連れにしようと策略を巡らせる。
しかし、それらに一々対峙する必要はなく、そんな暇もなく、日々聖霊に導かれるみことばによって、主が、今日命じられていることを行うのは、これ以上の守りはないからである。
悪魔は策略を巡らせても、神はもっと賢い。聖霊による武具を、昼も夜も身に着けてキリストに安息するなら、すでに勝利の中なのだ。それはキリストへの信頼によることである。
では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、
足には平和の福音の備えをはきなさい。(14~15)
真理であるイエス・キリストの福音を身に結び、十字架でたまわった義の胸当てを着ける時、悪魔が放つ責め言葉から完全に守られ、平和のうちに何処にでも出て行き、神のことばを誰はばからず叫ぶことが出来る。
そこからはみ出し自分の義によって人を攻撃する時に、悪魔の思うツボとなる。
戦われるは神であるから、私たちは、聖霊の導きによって示されたみことばを、たまわった力によって粛々と行うのみである。
これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。
救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。(16~17)
みことばを貶めるものに対しては、神の正義によって戦うのである。その手段はみことばへの従順に依り、神のご計画の通りであって人の戦略ではない。すべてを行わせる力の「神のことばを受け取りなさい」とある。
しかし、それは1ミリも退くことのできない戦いであるが・・。
主は狩人のわなから、恐ろしい疫病から、あなたを救い出されるからである。
主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる。あなたは、その翼の下に身を避ける。主の真実は、大盾であり、とりでである。
あなたは夜の恐怖も恐れず、昼に飛び来る矢も恐れない。
また、暗やみに歩き回る疫病も、真昼に荒らす滅びをも。(詩篇91:3~5)
悪魔の策略は世に在る限り、何時、どんな形で牙をむくかわからず、どんな罠が待っているかわからないので、絶えず神の武具を身に着けて、聖霊の導くみことばの剣を構えているのだ。此処が主の砦であり私たちの休らう所である。
すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。(18)
そこでは主への賛美があふれて、霊の深い交わりがあり喜びと安息がある。そう、何者もどんな時代も決して奪えない永遠への望みがある。
キリスト者の働きには時が良くても悪くても、キリスト印の兜を付けている。それは頭がキリストであるという証である。自分を曖昧にするなら、敵からも味方からも矢が飛んで来るからである。
兜が高く掲げられていれば、主がご自身の印しを守ってくださる。それゆえ、恐れてはならない。私たちは岩の割れ目に隠れる者ではないのだから。
「絶えず祈りなさい」と命令されている。私たちの霊は寝ても覚めても主の中で祈っており、また、聖霊によって祈りを促されたときには、何処ででも即座に祈る。
それは大切な伝言を素早く伝えるのと同じである。口移しのような単純な祈りであり、ほんの数分のことである。後にするなら敵に記憶を持ち去られ、また時を失ってしまうからである。
聖徒のための祈りは神の兄弟愛から生まれ、忍耐をもってする祈りである。
また、私が口を開くとき、語るべきことばが与えられ、福音の奥義を大胆に知らせることができるように私のためにも祈ってください。
私は鎖につながれて、福音のために大使の役を果たしています。鎖につながれていても、語るべきことを大胆に語れるように、祈ってください。(19~20)
パウロの祈りの要請には胸を打たれる。彼でさえも祈りの助けを必要としていた・・。そうして神は、彼に祈りの助け手を備えてくださっていた。彼が育てて来た人たちである。