
サタンが入ったユダは、兵士や祭司長、役人達を引き連れて、灯火と松明と武器をもってやって来た。灯火と松明・・光の元を去ったユダには、それでもなを闇が覆っていただろう・・。
引き連れて・・と書かれているので、ユダは先頭に立ってやって来た。
イエスを裏切る者は、彼らと合図を決めて、「私が口づけをするのが、その人だ。その人をつかまえるのだ。」と言っておいた。(マタイ26:48)とある。
イエスは御自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て、「だれを捜しているのか」と言われた。
彼らが「ナザレのイエスだ」と答えると、イエスは「わたしである」と言われた。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らと一緒にいた。
イエスが「わたしである」と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れた。(ヨハネ18:4~6)新共同訳
サタンは此処で倒された。
イエス様の「わたしである」というご自身を語られるひとことによって、サタンは倒れた。彼は完全に敗北した。
以前ペテロに「下がれ。サタン」と一括してペテロを守られたことがあったけれど、此処では
モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。(ヨハネ3:14)の実現のためにそのままにされたのだ。
神の計画は、その時は惨めな敗北としか映らなくても、この時からすでにサタンに勝利しており、神の計画のとおりに救いのわざが実現している。
18:28 さて、彼らはイエスを、カヤパのところから総督官邸に連れて行った。時は明け方であった。彼らは、過越の食事が食べられなくなることのないように、汚れを受けまいとして、官邸にはいらなかった。
神の選びの民は御子イエス様に、最期までただ一度の断食さえも捧げることはなかった。
自分たちの手を汚すことなく、イエス様を葬る賢さは善悪の知識の木由来のものである。しかし、どれほど巧妙に仕組んでも、聖い神の光のもとにすべてを曝して、いよいよ神の愛は、罠と残酷と愚かさを通して輝きを増すのである。