
ある村に入ると、十人のツァラアトに冒された人がイエスに出会った。彼らは遠く離れた所に立って、
声を張り上げて、「イエスさま、先生。どうぞあわれんでください」と言った。(ルカ17:12~13)
ツァラアトを罪とされ、人に近付くことが許されていなかった彼らは、近づけないイエスさまに遠くから叫んだ。
イエスはこれを見て言われた。「行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい。」彼らは行く途中できよめられた。
そのうちのひとりは、自分のいやされたことがわかると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、
イエスの足もとにひれ伏して感謝した。彼はサマリヤ人であった。(ルカ17:14~16)
彼らは、祭司の所に何の為に行くかわからないままに、お言葉に従う途中できよめられた。不思議なことだけれど重い荷を背負って居る時、イエスさまのお言葉に従うことは、それほど難しくないのだ。病や世の苦労はイエスさまに叫ぶチャンスであり、永遠の祝福の入り口となることがある。
そこでイエスは言われた。「十人きよめられたのではないか。九人はどこにいるのか。
神をあがめるために戻って来た者は、この外国人のほかには、だれもいないのか。」(ルカ17:17~18)
イエスさまは叫んだすべての人を癒し、御許に近づけてくださったのに、選びの民である九人は、癒されても感謝もなく行ってしまった。感謝は喜びの表現である。感謝の多さは喜びが沢山あることで、感謝のない人は、健康であっても、お金持ちであっても不幸な人である。喜びの感動がないからである。
それからその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰が、あなたを直したのです。」(ルカ17:19)
いずれ死ぬべき体が癒されただけでは、普通の人に戻っただけである。イエスさまの信仰の保証のみことばを聞き、真実な祝福のことばをアーメンと受け取る時、本当に生きる者となるのだ。
なぜなら、イエスさまの「行け」「生きよ」と言う言葉は、そのためのすべての必要が備えられているからである。
さて、神の国はいつ来るのか、とパリサイ人たちに尋ねられたとき、イエスは答えて言われた。「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。
『そら、ここにある』とか、『あそこにある』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」(ルカ17:20~21)
神の国はイエスさまである。みことばを通して主と交わり、暮らしの中で日々主のご真実を経験して、喜び、感謝にあふれる神に国に生きる者である。