
聖書には泣くという言葉がたくさん出てくるけれど、私にはこのときのペテロの涙ほど痛みのわかる涙は無い。
イエス様が捕らえられたときに、ペテロは一度逃げ出していながらも後を付けて行き、大祭司の家の庭に入り込みたき火(光)のそばにいた。恐くて隠れる者は闇の中を好むけれど、ペテロは明るいところにいた。命がけの時に暖を取りながら見物していたわけではないだろうから、彼はイエス様から見られることを意識していたのじゃないかなぁ。
イエス様に、「たとい死ななければならなくても、私はあなたを知らないなどとはいいません。」と誓った彼は「イエス様。私は逃げません。」こう言いたかったのだろう。しかし「イエスの仲間だ」と女中に言われただけで彼の強さは崩れてしまった。3度にわたる追求に否定の言葉はだんだん強くなって、「そんな人は知らない」と呪いをかけて誓ってしまうほどペテロは恐怖に襲われてしまった。これがペテロの本当に姿だった。これが私の姿だとも思う。
それにしても、神様の備えのなんと完璧なことか!私たちには涙が備えられていた。激しい後悔の涙。自分という者を知ったときのペテロの衝撃を癒す涙。
彼の涙は、ゲッセマネでイエス様と共に目を覚ましていることができずに眠り込んでしまった者であり、人が恐くてイエス様を否定して逃げてしまう、そんな者に過ぎないことを知った嘆きだっただろう。
痛烈な痛みの中で流す涙だけれど、涙にはなぜか優しさや甘ささえある。泣いて泣いて自分というものをすっかり注ぎ出してしまうまで泣いた後には、空っぽになった心にイエス様のみことばが残る。「わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。」(ヨハネ22:32)と言われていた・・・。そして、イエス様の慈しみの眼差しを思い出したろう。だから、よみがえりのイエス様に素直な喜びの中でお会いすることができたのだと思う。
「イエスはシモン・ペテロに言われた。『ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。』ペテロはイエスに言った。『はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。』」(ヨハネ21:15)
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石ころ

miyuki
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