
主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。(ヨハネ13:14)
7年前にこの箇所から明確な答えを見つけられなくて、疑問を残したままだった。
「あなたがたも互いに足を洗い合うべきです。」とは、今私には何を言われているのだろうと思いながら読んだ。この言葉は、弟子に向かって言われたのである。
しかし、今、主の弟子は完全に十字架の血によってきよめられているのだから、私たちが互いにきよめ合うということとは何だろう・・。
世で「足を洗う」という言葉は、悪い行いから卒業することを言う。主に在って、互いの足を洗うということも、あるいは世的な何かからの回心を促すようなことなのかも知れない。それはやはりその時余計なお世話だろうけれど、主の命令なのだからそれをせずにはすまないような気がする。 2011年4月
何から足を洗うのか、その答えは12章に書かれていた。
指導者たちの中にもイエスを信じる者がたくさんいた。ただ、パリサイ人たちをはばかって、告白はしなかった。会堂から追放されないためであった。
彼らは、神からの栄誉よりも、人の栄誉を愛したからである。(ヨハネ12:42~43)
キリスト者は、世に依り頼みこの世の栄誉に生きることから足を洗われて、イエスさまの十字架の救いを頼みにして、みことばに拠って神の栄光を現すために生きる者とされた。
しかし、それは片時も滞りのない聖化の歩みに拠るものであり、生涯を通してイエスさまに賜ったみことばを実現して行くことである。
それ故、互いにみことばを語って教え合い、祈りをもって、右にも左にもそれないようにと、足を洗いあうことが勧められていたのだ。この聖化の歩みが教会の中に実現されて行くためである。
私は忘れてしまう者であるけれど、主は御真実なので私の不足を覚えて居てくださり、みことばによって、最も良いタイミングで答えを教えてくださる。
聖書を行きつ戻りつしながら、主の御真実に出会う旅はワクワクとした期待に溢れている。
私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである。」(Ⅱテモテ2:13)