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乙骨太郎左衛門尉安利

   
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清和源氏源三位頼政末流

2003-09-30 | Weblog
疾きこと風の如く、徐かなること林の如く、侵し掠めること火の如く、動かざること山の如し

人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、讎は敵なり


清和源氏源三位頼政流。甲州諏訪にあり源三位頼政の後裔なり。始め甲斐候信玄に奉仕した使番なり。甲斐候信玄の御内にお使い武者十二人あり。指物がいずれも白き白半に黒百足を描きたる指物なり。武功第一の者の役柄なり。戦場を騎馬に跨り駆け回る武者なり。百足に朱六つ星の旗差物を目印とす。天正3年甲州くずれにより諏訪に引篭る。注釈:国立公文書館内閣文庫に所蔵されている「乙骨太郎左衛門覚書」は、天正10年から寛永元年まで左衛門尉安利の功績と不当な処遇を、2代目左衛門尉安一が綿々と書いた上申書である。
注釈:使番とは戦場において伝令や監察、敵情偵察、敵軍への使者など合戦の重要な任務を担なう役職である。状況によって前線にとどまり、指令が徹底するまで見届け、ときには指揮を取った。また甲陽軍鑑に、白地には墨にて書く。黒地には朱にて書く。黒地に金にても、青地に金にても、面々覚悟次第とあるそうで、配色は様々であった。お使い武者の十二人は、出世すると入れ替わり常時十二人の定員である。
江戸幕府では若年寄の支配に属し、役高1000石布衣の格、菊間に詰める。平時は、視察巡見使の一員として出張し、あるいは国目付の一員として赴任し、国政の後見監察にあたり、また二条・大坂・駿府・甲府などに目付として出張し、遠国役人の勤務ぶりを検分した。このほか、大名の改易や転封で城の受渡に立ち会い、江戸市中火災のときは、火勢を見届けて報告し、あるいは大名火消を指揮し、定火消の火事場の働きを監察し上申した。
天正10年大久保忠世酒井忠次本田正信等徳川七人衆に請われ北条の戦に参陣。天正10年大御所の頼みで諏訪頼忠公の調略のため、初代左衛門尉が頼忠公の許へ赴くと、頼忠公烈火の如く怒り「本来為れば盃を交わして持て成す所為れど、湯漬けでも食べて早々に立ち去れと」申され冷遇されるなり。初代左衛門尉草々に罷り帰るが、危険を冒した褒美に鉄砲3丁、弓3張、槍3本を下される。
天正10年9月釜無しの戦で、首級多数を討ち取り一番槍の軍功を上げる。家康は殊の外喜ばれ、直々に家名と家紋並びに御朱印御書付を賜わる。また褒美に鉄砲3丁、弓3張、槍3本、京銭30貫、鎧、紙衣、夜着を下さる。
天正12年大久保忠世・酒井忠次・本田正信の推挙で正式に家臣の列に加わり、天正18年江戸に400坪と八王子千人同心が住む地に7650坪の下屋敷を賜わる。家康に所望の地を問われ、武田遺臣が住む八王子を望んだものと思われる。軍功も無い大久保十兵衛長安の所領が八王子に8000石、家康の側近く使えた初代が、家康の他界と重ならなければ長安と同様8000石はあっただろう。
定かではないが或る書物に、太郎左が関ヶ原の戦勝を占って戦が始まったらしい。本当かい。
伝書には、天正20年相模国仲原に御鷹狩なされた折、初代左衛門尉を召し「3000石の所領をとらせよとの書付を、大久保十兵衛に渡しておいたが受取ったか」と尋ねられ「否」とお答えすると、「これより罷り帰り十兵衛より請け取れ」と申された。大久保十兵衛が申すには「国許の知行と只今御加増の知行地と一緒に渡し、御朱印も一つにして取り進めるので知行所を此方へ預けられよ」と申すので、御朱印御書付は御書替になる御朱印と引き替えに手前に留め置いたとある。その後大久保十兵衛長安の悪事により、預けた御朱印御書付が不明となりたり。この中には、天正20年3000石を賜る内示も含まれていた。どうやら、幕政を牛耳り権勢強大であった同郷の長安に、3000石の御朱印御書付を預けた侭になったらしい。武徳編年集成に、「長安は誠に奸賊なり」と記されている。忠輝、政宗の反乱に、長安が連座したとも不正蓄財があったとも言われている。元和2年、家康の他界と初代の死去が重なり3000石のお墨付きは、上記の理由で反故となる。まったく、不運な成り行きである。
恵林寺の武田家臣団七十基の墓陵に、信玄候と供に初代左衛門尉が眠っているが、奸賊大久保十兵衛長安の墓はない。ちなみに前隣に高坂弾正忠昌信殿、二基お隣が武田信武八幡寺殿です。
天正18年大御所と供に江戸に入府して以来、総代官大久保十兵衛長安の下、初代代官をはじめ御徒組頭などの下級旗本となった。幕末は林大学の推挙で昌平校教授、西ノ丸裏門番頭、徽典館学頭、御徒歩目付組頭から監察局海防掛目付、外国奉行調役勝安房守の下で歩兵差図役格軍事掛、勝海舟さんと江戸城開城まで行動。その後も、勝さんと親交が続いたそうだ。将軍慶喜さんと静岡藩へ供奉。沼津兵学校教授を勤めたのち、維新後は東京に戻り大蔵省教頭海軍省御用掛など、明治新政府に出仕した士族であった。

国家'君が代'に触れておきたい。十二代目が沼津兵学校当時、イギリスのエディンバラ公アルフレッド(ヴィクトリア女王の次男)を饗応するために横浜に出張。この時、イギリス人の軍楽隊長ジョン・フェントンが「日本には国家は無いのか。」と聞くもんで応対係は大慌て。そこに十二代目の太郎乙さんが「こんな詩があるけど、どうぉ~」そんで決まったのが君が代です。当時は勝てば官軍。元幕軍の功績など何処へやら。大山巌公のほかに、原田宗助、野津鎮雄、川村純義など、薩摩出身者が作詞した事に成っていますが、大奥に於て施行せられた儀式の内「おさざれ石」が元。君が代は、12代目当主である太郎さんの発意により選定されたものでした。海軍七十年史談や司馬遼太郎さんの随想にも書かれている。

また十一代目の事跡にも少し触れておきたい。
十一代目の彦四郎さんは甲府徽典館学頭を二度に亘り勤め、永井尚志、岩瀬忠震、川路聖謨ら後輩の薦めで監察局海防掛目付に就任。驚いたことに十一代目の彦四郎さんは、開国論を老中阿部正弘に上奏。しかし井伊直弼が大老に就任し、幕府の政治体制が変わり阿部正弘、永井尚志、岩瀬忠震、川路聖謨ら左遷や蟄居。徽典館学頭は出世街道だが、当然十一代目も左遷されてしまった。

また、杉田玄白さん森林太郎(鴎外)さん上田敏さんそして日銀総裁から貴族院議員を経て、12代東京府知事となった富田氏とも縁戚関係にある。富田氏との媒酌人が、福沢諭吉さんだったと言う事も付け加えておこう。
また伯母が旧東京女子高等師範学校、現お茶の水女子大学を卒業後、呉竹寮へ昭和天皇第一皇女照宮成子内親王さまの御教育係として奉職した。海軍軍医と結婚が決り退職を申し出たが、昭和天皇第四皇女順宮厚子内親王さまが学習院女学校過程にお進みになるまで、引続き御教育係としてお仕えする事と為った。伯父も天皇家より叙勲賜り、勲三等瑞宝章を受章し天皇陛下に御拝謁を賜った。
ここに紹介した古文書は、法政大学史学研究室のご協力で整理分類され山梨県立文学館と沼津市立明治資料館へ伯母により寄贈された。

領地由緒書

2003-09-29 | Weblog



大御所より拝領した領地は、天正10年、甲斐塚河と村山を拝領。御朱印御書付は、左衛門尉殿へ本田正信、大久保忠秦と署名、花押。天正17年、甲斐比野を拝領。御朱印御書付は、左衛門尉殿へ伊奈忠次と署名、花押とがある。天正18年、八王子に7650坪の下屋敷を賜わる。天正20年、3000石を賜る内示を頂く。当時、幕政を牛耳り権勢強大であった総代官大久保十兵衛長安の奸言に乗せられ、拝領の御朱印御書付3000石を預けたのが不覚であった。長安が忠輝、政宗の反乱に連座した事と、不正蓄財に関与した罪に問われ失脚。元和2年家康の他界と初代左衛門の死去と不運が重なり、結局所領は返して貰えずに終わった。八王子下屋敷と僅かな扶持が残る計りである。幕府へ2代目と7代目が、綿々と上申書を出したが認められる事はなかった。将軍秀忠と幕閣の意向で、人員削減と家康側近の解体があったためだろう。まことに不運な成り行きであった。拝領の下屋敷は初代代官所となったが一代限りで終わり、下級旗本としては珍しい下屋敷として幕末まで残った。今は中央高速道路の下で、僅かに屋敷守のお稲荷様が残るのみとなる。