明智憲三郎氏による光秀の過去の経歴についての考察は、さすが子孫ということもあってか熱も入っており、傾聴すべき点も多いと思われます。
光秀の経歴については長らく、美濃を離れた後、越前朝倉氏に仕え、将軍である足利義昭と信長に両属していたというのが定説となっていました。その一方で、従来より研究者の間では細川藤孝の家臣であったとする史料の存在も知られていましたが、あまり注目されてはきませんでした。
今回、明智氏はその朝倉氏への仕官を否定するとともに、両属問題にもメスを入れられておられます。
すなわち、藤孝の家臣であった光秀は、義昭の上洛に伴い欠員を補う意味で足軽として幕臣に取り立てられたものであり、その後は奉公衆として出世を重ねていき、元亀二年(1571)九月の叡山焼き討ち直後に信長の家臣に転じたというものです。
そもそも、光秀が朝倉氏に仕えていたとするのは『明智軍記』の記述が初見とみられ、細川氏の正史である『綿考輯録』(『細川家記』)がそれを引き継ぎ発展させ定説化されたものであり、光秀の両属も『明智軍記』の記述に起因しています。
細川氏にしてみれば、立場の逆転とも言うべき事実は不都合な真実であったのではないでしょうか。
従来、光秀の両属問題については、ただ「ありうる」としておざなりにされてきた感がありますが、それに対し一歩踏み込んだ明智氏には敬意を表したいと思います。
光秀の経歴については長らく、美濃を離れた後、越前朝倉氏に仕え、将軍である足利義昭と信長に両属していたというのが定説となっていました。その一方で、従来より研究者の間では細川藤孝の家臣であったとする史料の存在も知られていましたが、あまり注目されてはきませんでした。
今回、明智氏はその朝倉氏への仕官を否定するとともに、両属問題にもメスを入れられておられます。
すなわち、藤孝の家臣であった光秀は、義昭の上洛に伴い欠員を補う意味で足軽として幕臣に取り立てられたものであり、その後は奉公衆として出世を重ねていき、元亀二年(1571)九月の叡山焼き討ち直後に信長の家臣に転じたというものです。
そもそも、光秀が朝倉氏に仕えていたとするのは『明智軍記』の記述が初見とみられ、細川氏の正史である『綿考輯録』(『細川家記』)がそれを引き継ぎ発展させ定説化されたものであり、光秀の両属も『明智軍記』の記述に起因しています。
細川氏にしてみれば、立場の逆転とも言うべき事実は不都合な真実であったのではないでしょうか。
従来、光秀の両属問題については、ただ「ありうる」としておざなりにされてきた感がありますが、それに対し一歩踏み込んだ明智氏には敬意を表したいと思います。