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『信長考記』

織田信長について考える。

光秀の過去はどこまでわかるか 第一部・第二章(p55~p76)

2014-01-27 17:09:36 | 本能寺の変 431年目の真実
 明智憲三郎氏による光秀の過去の経歴についての考察は、さすが子孫ということもあってか熱も入っており、傾聴すべき点も多いと思われます。

 光秀の経歴については長らく、美濃を離れた後、越前朝倉氏に仕え、将軍である足利義昭と信長に両属していたというのが定説となっていました。その一方で、従来より研究者の間では細川藤孝の家臣であったとする史料の存在も知られていましたが、あまり注目されてはきませんでした。
 今回、明智氏はその朝倉氏への仕官を否定するとともに、両属問題にもメスを入れられておられます。

 すなわち、藤孝の家臣であった光秀は、義昭の上洛に伴い欠員を補う意味で足軽として幕臣に取り立てられたものであり、その後は奉公衆として出世を重ねていき、元亀二年(1571)九月の叡山焼き討ち直後に信長の家臣に転じたというものです。
 そもそも、光秀が朝倉氏に仕えていたとするのは『明智軍記』の記述が初見とみられ、細川氏の正史である『綿考輯録』(『細川家記』)がそれを引き継ぎ発展させ定説化されたものであり、光秀の両属も『明智軍記』の記述に起因しています。
 細川氏にしてみれば、立場の逆転とも言うべき事実は不都合な真実であったのではないでしょうか。
 
 従来、光秀の両属問題については、ただ「ありうる」としておざなりにされてきた感がありますが、それに対し一歩踏み込んだ明智氏には敬意を表したいと思います。

謀反に特定の条件はあるか 第一部・第一章(p50~p53)

2014-01-26 07:05:08 | 本能寺の変 431年目の真実
 明智憲三郎氏は、謀反について
  謀反に失敗したら一族滅亡だ。その悲惨な事例はいくらでもある
とし、戦国武将が謀反に踏み切る条件として、
  ・ 一族滅亡の危機
  ・ 成功の目算が立つ
の二つを絶対条件として挙げられています。
 はたしてそうでしょうか?

 そもそも、信長ほど謀反・離反を起これたされた人物は他になく、家督継承直後の山口教継の離反に始まり、弟の信勝(信行は誤り)、異母兄の信広(※未遂)、義弟の浅井長政、松永久秀、波多野秀治、別所長治、荒木村重、そして足利義昭のそれも謀反と言えるでしょう その彼ら全てに「一族滅亡の危機」があったとは言えず、むしろ結果として一族滅亡を招いたとさえ言えます。

 なかでも注目すべきは荒木村重の謀反であり、噂を聞いた信長は、
  何篇の不足候哉、
と耳を疑ったとされますから(『信長(公)記』)、村重の謀反の理由に「一族滅亡の危機」などなかったのは明らかです。

 また、「成功の目算」については当然それぞれに考えていたでしょうが、どこまで具体的に計算=計画されていたかは推し量れるものではなく、それを明智氏の言われるような現代の企業経営における投資評価と同一視して議論するのは妥当だとは言えません。
 ましてや、光秀の「目算」がハズレ続きであったことは言うまでもなく、結果その行動が「無策であった。」と言われても仕方がないでしょう。

 要するに明智氏の挙げた二つ条件は、祖先である光秀の謀反を正当化、弁護する為の方便だと言わざるを得ません。

閑話 信長最後の敵は「将軍」②

2014-01-23 07:18:39 | 信長
 天正九年(1581)の京都馬揃えの直後、朝廷は信長に左大臣としての復官を求めていますが、信長はそれを断っています。※

 翌天正十年(1582)の「三職推任」はそれを踏まえたものであり、中でも、武田氏を滅ぼした甲州攻めの勝利に対し「関東打はたされ珎重間」として「将軍」への就任を求めているのは、よいよ西国平定に向かう信長に対し将軍職を与えることを認めたものと考えられます。
 おそらくその切欠は、甲州攻めの勝利に対し、信長が嫡男・信忠に自らが持つ「天下の儀」を与奪する旨を伝えたとされる出来事であり(『信長(公)記』)、同行していた太政大臣の近衛前久や勅使として派遣された誠仁親王の義弟である万里小路充房らからその意向が伝えられたのでしょう。

 信忠は、天正三年(1575)に正五位下に叙され、出羽介次いで秋田城介に任官されると信長から織田家の家督を譲られており、翌四年には従四位下、従四位上、同五年には正四位下そして従三位への昇叙とともに左近衛中将に任官されており、稀代の昇進を遂げています。
 また、そのころから信忠は父に代わり前線での指揮を取るようになっていますが、同六年の信長の「両官辞任」の直前、一門、重臣からなる大軍を率いて大坂への出陣を行っているのは(『信長(公)記』・『兼見卿記』)、それまでの信長の先例からすれば、昇叙、昇官へのデモンストレーションに相違ありません。
 
 しかし「顕職は信忠に譲られたい」との信長の申し出は実行されず、信忠の昇進も打ち止めとなっています。 
 信長の発言は、それに対する再アピールであり、それが「三職推任」となったのは、やはり朝廷が信長自身にも復官を求めていたのではないかと考えられます。 まずは信長自身が「将軍」に就きそれを信忠に譲る。もしくは、信長は関白もしくは太政大臣に就き信忠が将軍に就く、そういうシナリオではなかったでしょうか※。

 実は、その「三職推任」こそが光秀に謀反を決意させる切欠になったのではないかと考えられます。
 なぜなら、もしそれを信長が受けた後に謀反を起こせば、それは単なる「主殺し」から「将軍暗殺」、延いては「朝敵」の汚名を着る行為となる訳で、それまでに事を起こさなければならないとのプレッシャーを光秀に与えたのではないでしょうか。

 皮肉にも信長は、欲していた「将軍」という肩書きに殺されたと言えます。


※信長より「誠仁親王への譲位」が条件としてだされ、「金神」を理由に朝廷が拒否したとする説と、逆に信長が取り下げたとする説がありますが、もとより信長自身にその気がなかったと見るべきでしょう。
※『尋憲記』天正二年(1574)三月二十四日条には、信長が「近衛」の家督を継承し関白に推す動きがあることや、次男信雄が将軍になるのではとの噂が記されています。

閑話 信長最後の敵は「将軍」①

2014-01-22 06:39:16 | 信長
 天下平定を目指す信長にとって最後の敵は誰であったかと言えば、それは「将軍」であったと言えます。

 元亀四年(=天正元年・1573)、将軍であった足利義昭は信長からの離反を企てるも破れ、そして京を追われます。結局、義昭は天正十六年(1588)に辞任するまで現役の将軍であり続けました。しかし、その義昭にも解官の危機はありました。
 天正十年(1582)のいわゆる信長への「三職推任」がそれであり、その中で
  関東打はたされ珎重間、将軍ニなさるへきよしと申候へハ、又御らんもつて御書ある也。
と、安土へ使わされた勧修寺晴豊により、信長に対し将軍就任を推す朝廷の意向が伝えられています(『天正十年夏記(晴豊公記)』)。

 当時、義昭の官位が従三位・権大納言であったのに対し、天正三年(1575)に信長は従三位・権大納言そして右近衛大将としてこれに並び、さらに翌四年には正三位・内大臣、同五年には従二位・右大臣へと昇り、同六年に右大臣・右近衛大将の両官を辞任するものの、朝廷での地位は義昭のそれを上回っていました。当然、その間に義昭の解官が議論されていてもよさそうですが、表立った動きは確認されていません。

 ただ、天正六年(1578)の右大臣・右近衛大将の「両官辞任」の際、信長が、
  然者以顕職可令譲与嫡男信忠之由、
と奏上しているのは(『兼見卿記』)、当時、嫡男・信忠の官位が従三位・左近衛中将であったことを考えれば、その信忠の右近衛大将昇進、あるいは将軍推任を暗に求めていたのではないでしょうか。
 つまり、信長自身は「将軍」の官職を求めてはいなかったものの、その権威は認めていたのではないかと思います。それが実行されなかったのは、朝廷としてはあくまでも年功序列の建前があったからではないでしょうか。

 また、義昭が正親町天皇の即位に際して貢献のあった毛利氏に庇護されていた事も一因かも知れません。

閑話  光秀の「大義名分」

2014-01-19 21:07:57 | 信長
  父子悪逆天下之妨討候、

 本能寺の変当日、天正十年(1582)六月二日付で光秀が美濃の西尾光教へと送った書状に、信長・信忠親子を討ち取ったのは、彼らの悪逆が「天下の妨げ」になっていたからだとあります(『武家事紀』巻三十五)。それを、「主殺し」という不義を働いた自身を正当化する言い訳だと言えばそれまでですが、「名分」として掲げていたことに間違いはないでしょう。

 しかしながら、ただ「天下の妨げを討った。」と言われて自分に味方してくれると光秀は思っていたのでしょうか。やはり「名分」には「大義」が必要であったはずです。
 それを窺わせるのが、続く文面の
  其表之儀 御馳走候て大垣之城可相済候、
であり、「御馳走」という文言からは、光秀が自分より上位の存在への馳走を求めていることが分かります。
 すなわち光秀は、その人物に対しての「信長の不忠」を唱えるべく謀反を起こしたと言えます。

 とは言え、それが真の理由であったかどうかは別ですが、少なくとも光秀は「大義」を見据えて謀反に踏み切ったはずで、それは広く同意を得られるものでなければならなかったはずです。
 
 その「大義」とは詰まるところ「天下」であり、光秀にとっての「天下」と信長の「天下」の違いが顕著になったことが謀反の原因のひとつにあったのではないかと思われます。

閑話  光秀の証言

2014-01-16 00:56:00 | 信長
  今度謀反之存分雑談也、

 天正十年(1582)六月七日、勅使として安土に赴いた吉田兼見は、対面した明智光秀と謀反=本能寺の変に対する考えを語ったという。(『兼見卿記 別本』)
 当事者から直接聞いたという証言だけにその内容が記されていないのは惜しまれますが、光秀の証言が全く残っていないわけではありません。

 従来の「本能寺の変」研究は、結局のところ第三者の伝聞として残された史料から、自分のイメージに都合のよい部分をピックアップし、さらには共犯者であったかのごとく決め付け証拠として紹介し、その真相を解明したと主張しているに過ぎません。

 「虚心坦懐」。まずは光秀の証言に素直に耳を傾けるべきでしょう。

『明智軍記』は幕府公認か 第一部・第一章(p40~p44)

2014-01-13 13:04:19 | 本能寺の変 431年目の真実
 明智憲三郎氏は、今日の光秀の伝説を作った『明智軍記』の出版背景について
  幕府も何らかの理由で光秀の名誉回復を図りたかったのである。
と述べています。
 はたして本当にそうでしょうか。

 氏も取り上げている光秀の辞世の句は
  順逆無二門 大道徹心源 五十五年夢 覚来帰一元
というものですが、そのモデルではないかと考えられているのが
  五十余年夢 覚来帰一元 載籤離弦時 清響包乾坤
という句であり、詠んだのは延宝二年(1674)から同九年(1681)にかけて起きた「越後騒動」で切腹した越後高田藩家老・小栗美作(享年五十五歳)です。
 「越後騒動」の詳細は省きますが、美作は将軍・家綱治世の下で無罪とされましたが、後を継ぎ将軍に就任した綱吉の再裁定により自害を命じられました。
 『明智軍記』の著者は不明とされますが、著者は何をもって光秀と美作を重ね合わせたのでしょうか。

 同書は元禄六年(1693)には成立していた考えられ、「越後騒動」から十年ほどのちのことであり、まだ人々にその記憶も残っていたのではないかと考えられます。『明智軍記』はいわば光秀の名誉回復を図るものですから、光秀に美作を重ね合わせるということは美作の名誉回復を図るということでもあり、それは即ち、将軍・綱吉への批判になります。
 「越後騒動」では、周囲の反対に耳を貸すことなく、綱吉は越後国高田藩を改易、そしてその親藩を減封や移封としています。もし『明智軍記』に何らかの意図が込められていたとすれば、幕府公認どころか幕政批判だと言うべきべきでしょう。

 そもそも、本能寺の変から百年以上経って幕府が光秀の名誉回復を図る必要性が不明であり、氏の主張は、家康と光秀の間に密約があったとする持論に引きづられた想像だと言わざるを得ません。

「乱丸」か「蘭丸」か 第一部・第一章(p36~p40)

2014-01-12 07:13:58 | 本能寺の変 431年目の真実
 明智憲三郎氏の『太閤記』についての見解には特に異論はありません。問題は「森蘭丸」の表記についてです。

 氏は信長の小姓であった森乱(丸)について、今日「蘭丸」の表記が一般的になっているのは『惟任退治記』が最初であり、
  美少年をイメージさせる蘭丸という字にして信長の男色を臭わせたのであろう。
と述べています。
 しかし、当時、男色が忌避されるものであったかといえば疑問であり、またその存在がクローズアップされるようになったのは江戸時代になってからであり、氏の指摘は全く的を射ておりません。※

 なおかつ、今日伝わる『惟任退治記』のすべてが「蘭丸」と表記している訳ではなく、漢文体の同書を一般向けに仮名交じりに改めた『総見院追善記』に「森亂」とあることには注目されます。
 なぜなら、当時、彼を「らんまる」と呼ぶことはなく、史料に見られるのは「乱」「御乱」「乱法師」などであり、当然『惟任退治記』の現本も「もりらん」であったと考えられます。もし「(もり)らんまる」と記されていたら、その文献は後世の写本だと言えます。
 
 では『惟任退治記』の現本には「森蘭」と記されていたのでしょうか。その可能性は低いと思われます。
 と言うのも、『総見院追善記』を著したのは細川氏の関係者であり、なおかつその目的が杉原家次(秀吉の正室・寧々の叔父)の名誉を後世に残す為だとあります。
 彼らはまさに、明智憲三郎氏言うところの疑惑だらけの関係者であり、秀吉が『惟任退治記』を著させた意図もしっかり理解していたでしょうから、文字の間違いにも細心の注意を払ったことでしょう。

 氏には、捜査資料の洗い直しを願いたいものです。


谷口克弘『信長の親衛隊』中公新書 1998/12

信長は「淫乱で残忍な人間」か 第一部・第一章(p34~p36)

2014-01-11 07:08:02 | 本能寺の変 431年目の真実
 明智憲三郎氏は、『惟任退治記』が秀吉の政権奪取の為の喧伝書だと述べられています。

 秀吉が同書を著述させた意図が事件の幕引きを図るものであったという氏の主張には同意できます。ただし、信長を「淫乱で残忍な人間」と貶める意図があったという主張には異論があります。
 光秀を討ちとる一番の功績を挙げたとはいえ、いまだ織田家の一家臣である秀吉が露骨に亡君を貶めることは反感を呼びこそすれ、自らの評判を高めることにはならないでしょう。

 そもそも『退治記』は、冒頭、信長について
  天下に棟梁とし、国家に塩梅たる事歳久し。
と、「国家の重鎮」であることを記し、安土城の見事さ、百官諸侯が伺候する様子を述べるとともに、趣味であった鷹狩りや天正九年に行われた馬揃えについて記しています。
 そして
  朝には直を挙げて諸を枉れるに錯き(政治)※を行ひ、夕には翠帳紅閏に入り、
  三千の寵愛を専らとす。日々の徳行夜々えん遊宴、まことに余あり。

と記しているのは、まさに「英雄色を好む」ということであり、漢文体で著された物語特有の表現と言えます。

 それを、氏は「色」の部分のみを取り上げ「淫乱」と断じ、本能寺で信長が側妃を道ずれに切腹したという珍しくない行為(事実ではないが)を「残忍」だとしているわけです。特に後者をそう断じるのは現代人の感覚そのものです。
 おそらく、当時の人々が『退治記』を読んでも、その文面をまともに信じたりはしなかったったでしょう。

 氏にとって秀吉は祖先の仇ですから、ことさらそのような解釈をされるのでしょうか。


『論語』為政 第二-十九 「正しい人を挙用してまがった人の上におくと、人民は心服する。」

「二十四日」か「二十八日」か 崩せぬアリバイ 第一部・第一章(p27~p33)

2014-01-11 05:49:05 | 本能寺の変 431年目の真実
 史料における光秀の句の文言の差違につづいて続いて、明智憲三郎氏は日次の改竄についても述べています。

 「愛宕百韻」が張行された日次については、『惟任退治記』を筆頭に、今日、信長研究の基礎史料とされる太田牛一の『信長(公)記』が五月二十八日としているのに対し、数点伝わる「愛宕百韻」の写本のなかには五月二十四日とするものがあります。
 氏はその違いについて、「なる」から「しる」へ書き換えた結果、変の起きた六月二日との間に間が開きすぎることから、より変に近い二十八日(※同年の五月は翌二十九日まで)に日次も改竄したのだとし、
 六月まで「わずか二日の差」と誤魔化すことができるのだ
と述べています。
 そして、それが効果を発揮して「なる」から「しる」への書換えが指摘されてこなかったと結論づけられています。

 しかしながら、その前提にあるのは六月二日に謀反が計画されていたという氏の仮説であり、当時から今に至るまで具体的な計画性そのものについては指摘されていないことからも、五月のうちに決意し六月に実行したとみれば別段矛盾はなく、わざわざ日次を改竄する必要はないでしょう。
 さらに氏は当日の天気について調べ、二十八日は晴れであり「あめが下」とは詠めないと結論付けられていますが、それではわざわざ改竄した意味がありません。もし当時として日次を改竄するのであれば、実際に雨の降っていた前日(二十七日)もしくは翌日(二十九日)とするべきでしょう。日次の違いについては別の意見もあります。
 連歌研究家の田中隆裕氏によれば、実際に作り始めたのが二十四日であり、奉納されたのが二十八日ではないかとのことであり、一考を要するのではないでしょうか。※

 実は明智氏は日次の改竄について、二十八日に参加していた人物のアリバイを崩そうとしたがそれができず、天気をもってそれを証明したと言っている訳ですが、であれば二十四日に彼らがそこに居たことを証明せねばなりません
 『信長(公)記』によれば、光秀が坂本を立ち亀山に着いたのが二十六日ですから、まずはそのアリバイを崩さなければ証明したことにはならないでしょう。

 氏のここでの「捜査」には、史料を書かれた当時の立場で読むという基本か欠如しています。


『歴史読本』2000/8号

「しる」か「なる」か 第一部・第一章(p25~p26)

2014-01-11 05:20:39 | 本能寺の変 431年目の真実
 光秀の句の解釈に続き明智憲三郎氏は、今日に伝わる写本の間でのその文言の差違に言及されています。

 光秀の句については先に挙げた「時は今あめが下しる五月かな」の他に、
  時は今あめが下なる五月かな
とするものが伝わっていますが、一般的には前者の方が有名であり、後者は後に改竄されたものではないかと考えられています。※
 それに対し氏は、本来、後者こそが光秀が詠んだものだとされており、結論から言えば氏の指摘は正しいのではないかと考えられます。
 ただ問題は、氏がその理由として、「下しる五月かな」では実際に変が起きたのが六月であることと矛盾すると述べている点です。

 なぜなら、氏の言うこところは
六月二日という期日は決められていたのだから「天下を治める五月かな」などという句を詠む筈がない。
という事であり、完全に論点(結果)先取りの主張となっています。
 結果的には、後々、六月二日の「家康討ちの計画」について論証されていかれる訳ですからそこで問題は解決しますが(当否は別として)、それ以前にそこに齟齬があると指摘するのは妥当とは言えません。

 つまり、氏の「捜査」なるものが結論ありき、すなわち「見込み捜査」で進められていること、かつ読者の思考を誘導する性格のあることを窺わせる記述となっています。


桐野作人『真説本能寺』学研M文庫・2001/3 (p94~p95)

「時」は「土岐」か 第一部・第一章(p21~p25)

2014-01-10 21:05:44 | 本能寺の変 431年目の真実
 著者の明智憲三郎氏は、今日の「本能寺の変の定説」が少なからず軍記物に依存していおり、その根幹にあるのが歴史の勝者たる秀吉がその御伽衆であった大村由己に著させた『惟任退治記』であると説いています。それについては認めて良いでしょう。
 ただ問題は、『惟任退治記』における「愛宕百韻」で光秀が詠んだ句に対する記述への氏の見解です。

  光秀発句にいわく、 時は今あめが下しる五月かな 今、惟を思惟すれば即ち、誠に謀反の先兆なり。
  何人や兼ねてこれを悟らんや


 氏は、一見、五月雨の情景をよんだその句を、秀吉は「時」を「土岐」、「あめが下」を「天下」、「しる」を「統べる(治める)」と読み替え、「土岐氏である自分が天下を治めるべき季節の五月になった、と謀反の決意を詠んだことが今になって分かった」としたのだと述べています。
 光秀の句に対するそうした解釈は古くからなされてており氏独自の解釈ではありませんが、はたして『退治記』のそれが「時」に「土岐」を重ね合わせていたのかどうかといえば疑問です。『退治記』は「謀反の先兆」としていますが、光秀の出自が土岐氏であることまでは指摘してはいません。
 おそらく秀吉が注視したのは「あめが下しる」=「天下を統べる(治める)」であり、それ以上は問題としていなかったのではないでしょうか。

 では「時」=「土岐」という解釈が何時ごろからなされるようになったかといえば、やはりそれに一役買ったのは『明智軍記』ではないかと思われます。
 同書には、
  偖モ発句二、トキハ今アメガ下シルト云エルハ、光秀元来土岐ノ苗裔明智ナレバ、名字ヲ時節二準ヘテ、今度本望ヲ達セバ、自天下ヲ知ル心祝ヲ含メリ。
とあり、明確に「時」が「土岐」を擬えたものであると記されています。
  同書が数々の光秀伝説の元になっていることは研究史の上での常識であり、光秀が土岐氏の末裔であることを説明するうえで光秀の句にそのような解釈を付し、後世それが定説化されたのではないでしょうか。

「捜査」か「探偵」か

2014-01-10 20:59:18 | 本能寺の変 431年目の真実
 前著『本能寺の変 四二七年目の真実』 プレジデント社  1,600円(税込)(2009/03) は、謀反人とされた光秀の子孫が本能寺の変の真実に迫るとして話題を呼びましたが、読者がもっとも魅了されたのは、著者が自らネーミングした「歴史捜査」と呼ぶ研究手法をでしょう。
 しかし、もしそれを「捜査」と呼ぶならば、残念ながら著者である明智憲三郎氏には捜査に加わる資格がありません。
 なぜなら国家公安委員会が定めた「犯罪捜査規範」にそう記されているからです。


警察官は、被疑者、被害者その他事件の関係者と親族その他特別の関係にあるたるため、その捜査について疑念をいだかれるおそれのあるときは、上司の許可を得て、その捜査を回避しなければならない。
  「犯罪捜査規範」第一章 総則・第一節 捜査の心構え・第十四条(捜査の回避)

 ドラマなどでよく観られる、事件関係者にあたる刑事がその捜査から外される場面は上記の条項に該当します。
 「疑念をいだかれるおそれ」とは私情に他ありません。

 『本能寺の変 431年目の真実』の著者である明智憲三郎氏は光秀の子孫を名乗っていることからまさに関係者であり、しかも被疑者側の人間です。
 その著書の命題は「土岐一揆」なるものであり、光秀は土岐一族の命運を賭けて謀反に起ち上がったものであり決して自己の保身や私利私欲によるものではないというのが氏の主張であり、いわば先祖の汚名返上、名誉挽回にあることは前著のプロローグからも明らかです。
 氏が自らの研究手法を「歴史捜査」と称するのであれば明らかに捜査規範に抵触するものであり、直ちに捜査を回避せねばなりません。
 意味じくも氏はプロローグで、「推理小説を読むような感覚で、従来とは次元の異なる本能寺の変の謎解きをお楽しみいただけると思います。」と述べられていますが、まさに著書の全体を通した感想は「歴史推理小説」に他ありません。
 
その意味からは「歴史捜査」というより「歴史探偵」と呼ぶのが相応しく、なおかつその根底に八切止夫の遺伝子を感ぜずにはおれないのは自分だけでしょうか。