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『信長考記』

織田信長について考える。

『明智軍記』は幕府公認か 第一部・第一章(p40~p44)

2014-01-13 13:04:19 | 本能寺の変 431年目の真実
 明智憲三郎氏は、今日の光秀の伝説を作った『明智軍記』の出版背景について
  幕府も何らかの理由で光秀の名誉回復を図りたかったのである。
と述べています。
 はたして本当にそうでしょうか。

 氏も取り上げている光秀の辞世の句は
  順逆無二門 大道徹心源 五十五年夢 覚来帰一元
というものですが、そのモデルではないかと考えられているのが
  五十余年夢 覚来帰一元 載籤離弦時 清響包乾坤
という句であり、詠んだのは延宝二年(1674)から同九年(1681)にかけて起きた「越後騒動」で切腹した越後高田藩家老・小栗美作(享年五十五歳)です。
 「越後騒動」の詳細は省きますが、美作は将軍・家綱治世の下で無罪とされましたが、後を継ぎ将軍に就任した綱吉の再裁定により自害を命じられました。
 『明智軍記』の著者は不明とされますが、著者は何をもって光秀と美作を重ね合わせたのでしょうか。

 同書は元禄六年(1693)には成立していた考えられ、「越後騒動」から十年ほどのちのことであり、まだ人々にその記憶も残っていたのではないかと考えられます。『明智軍記』はいわば光秀の名誉回復を図るものですから、光秀に美作を重ね合わせるということは美作の名誉回復を図るということでもあり、それは即ち、将軍・綱吉への批判になります。
 「越後騒動」では、周囲の反対に耳を貸すことなく、綱吉は越後国高田藩を改易、そしてその親藩を減封や移封としています。もし『明智軍記』に何らかの意図が込められていたとすれば、幕府公認どころか幕政批判だと言うべきべきでしょう。

 そもそも、本能寺の変から百年以上経って幕府が光秀の名誉回復を図る必要性が不明であり、氏の主張は、家康と光秀の間に密約があったとする持論に引きづられた想像だと言わざるを得ません。

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