くもりときどき思案・2

アイウエオ順に思い出すあのひとのこと。
あのころのこと。

115 田雑さん

2006-04-05 02:04:25 | あのひと
息子1の小学校の同級生のかおりちゃんの苗字は田雑さんだ。こう書いて「たぞう」と読む。

田雑さん一家は同じ団地の住人だった。むこうが1号棟うちが2号棟だった。

団地内には月当番というものがあり、各棟の各階段から一名ずつ出て会計だの書記だの連絡係りだのの仕事をする。

かおりちゃんもかわいい女の子だったが、おかあさんがまた美人で、その美人さんとはよく月当番がいっしょになってあれこれいっしょに動いたものだった。

温和な性格で物事を荒立てず、丸くおさめたいタイプだけれど、仕事はきちんとこなすひとだった。銀行にお勤めもしていた。

ちなみにおとうさんはヤクルトの古田に似たやさしいひとだった。

あるとき、田雑さんの上の階の部屋が火事になった。

団地内に消防車がはいっていきて、野次馬も集まってきて大騒ぎになった。

そんななか、田雑さんの奥さんが青い顔をしてスーツケースを抱えて階段を下りてくるのを見た。きれいな顔が引きつっていた。

幸い同じ階段の男性陣が消火器でなんとか消しとめ、放水にはいたらなかったがもしも放水していたら、田雑さんの部屋も水びたしになったことだろう。

原因は、その家の息子さんがベランダにおいていたバイク用のガソリンに煙草の火が引火したとのことだった。

その息子さんは耳が聞こえなかったので、いつもそのバイク音に悩まされてもいたらしいが、それからほどなく田雑さん一家は家を買って団地を出た。

団地内の付き合いはよほどでないかぎり、そこで終わってしまう。

114 ただ先生

2006-04-03 23:09:12 | あのひと
高校の物理の先生の名はただ先生。わたしたちが二年生のときに赴任してきた。

いつも白衣の前をはためかせて前のめりの大股で歩くただ先生。

無駄のない動き、無駄のない言動。

鼻が大きくて、目が窪んでて、おでこにしわがあり、その風貌はドイツ軍将校を思い起こさせた。あのおかっぱのようなヘルメットが似合いそうだなと、こっそり思っていた。

大きな口から発せられる大きな声。その言葉のどこかしらに北のほうの訛があった。京都の学生には耳慣れない響きだった。

実直に、堅実に、無骨に物理の問題を解くただ先生。滑車だのフレミングの法則だの位置のエネルギーだのを教わったはずなのだ。

ひときわ大きな声で「ここだいじですよ」と言われた全てのことをわたしはすっかり忘れてしまっている。

いや、その当時でさえ、よくわかっていなかった。

今は、ただ先生の「こうこうこうであるからして」というような断片的が声ばかりが思い出される。

いや、覚えていることもある。物理の定期テストで学年の平均点が9点ということがあった。

そのときのただ先生は戦いに敗れた将校のように、たいそう不機嫌でたいそう無念げでたいそう悲しげだった。

そのときわたしは12点だったような気がするが、それは記憶の捏造というものかもしれない。


113 たけさん

2006-04-03 08:22:19 | あのひと
顎の手術をした病院では病室が何度も変わり、そのたびに見知らぬ人と同室で眠ることになった。

手術前の二回目の部屋替えで三人部屋の病室になった。そこで隣りのベッドにいたのが、たけさんだった。

たけさんは一回就職してからまた大学へ入って勉強をし始めた20代半ば過ぎの女性で、額関節の手術を受けることになっていた。

腰のあたりまでストレートヘアーの伸びたたけさんは決して不器量ではなかったし、いつも前向きでものおじしないでどんどんひとの間に入っていけるひとだったけれど、その自分のペースに人をどんどん巻き込んでしまう感じが、わたしはなんだか苦手だった。

そして、なんとなくだが、その言動のどこかに、どよんとした重たさ暗さを隠し持っているように思えた。

その重たさ暗さは気味悪く粘着質で、それに触れてしまうとそこから徐々に腐食していきそうなそんな奇妙なイメージがわくのだった。

互いの手術を控えた数日前、たけさんのところにご両親が地方からお見舞いにきた。たけさんは一人暮らしだったので、案じてこられたのだとおもった。

どちらもにこやかで人当たりのいいひとだったが、たけさんの表情がいつもとちがっていた。

いくら隠そうとしても、無邪気そうな笑顔のしたに、居心地の悪そうな感じががどうにも透けて見えてしまうのだった。

見舞い客も帰り夜の食事が終わってそれぞれがカーテンを閉めたあと、たけさんのところから陰鬱そうな声が聞こえた。

こちらが何かを訊ねたわけではないが、たけさんはわたしともうひとりのわたなべさんにむかって来し方を話しはじめた。

たけさんはおとうさんに虐待されたのだという。殴られ、縁側から外へ放り出されたこともあった。

おかあさんに助けを求めても、おかあさんはおとうさんに嫌われたくなかったから、おとうさんといっしょになってたけさんをなぐった。

妹は可愛がられて自分ばかりがなぐられた。だから家をでた。少し余裕ができたから学校へ行くことにした。

そんな内容の話を人事のようにたけさんは淡々と話し続けた。

幾度もはがしたかさぶたをまたはがしているような話しぶりだった。本人の顔を見ずにその話を聴き続けるのはなんとも苦痛だった。

わたしは冷酷なのかもしれない。

年若いときからそんな人生の暗黒面に直面してきたひとなのだとわかって、さぞかしたいへんだったろうとこころを痛めながらも、わたしはたけさんとの距離を縮めることができなかった。

仲たがいをしたということではない。礼を失してはいないつもりだったし、いろいろなことを話しもした。しかし、なぜだかこころがひやひやと冷えていくのをどうすることもできなかった。

ひとには相性というものがあるのだと思うしかない。










112 たかださん

2006-04-01 10:12:03 | あのひと
高校三年のクラスはまあちょっとした梁山泊のようなものだったけれど、そのなかのいちばんのおチビさんがたかださんだった。

たかださんは豆腐屋のむすめさんだった。

どんぐりのような目、いつもすこし赤らんだふっくらした頬。たぶんおかあさんそっくりなんだろうなと思える面立ちだった。

そのおチビさんはバスケット部に所属していた。それは願いでもあったのかもしれないが、むなしい願いのようにも傍からは見えた。

彼女の仲良しはみな飛びぬけて長身だったけれど、一様にたかださんを認めていた。

このおチビさんはがんばりやさんだったし、商家の長女らしく目端が利くひとで、混沌としたクラスにあって、その発言に説得力があった。

バスケットコートでは、いつも大きな目を見ひらき、赤い頬を膨らませて、まわりの全てのひとを見上げながら、手にあまるボールをゴールへと運んだ。

大きな人のあいだをすいすいとおチビさんが抜いていく。そのスピード。小気味よさ。

なにが何でもボールは離さない、そんな気の強さ。根性。

その影には人一倍の精進があったに違いないが、たかださんはあたりまえの顔をしてこなしたにちがいない。

豆腐屋の長女はなんとも負けずきらいだった。

卒業して保育科に進んだと聞いたことがあった。さぞかし元気のいい保母さんになったことだろう。

そしてきっと今も少し頬の赤い元気のいいおかあさんでいることだろう。