叔母さんが、住んでいるところは、愛媛県西条市だ。
朝一番の飛行機に乗り、松山に到着後、すぐにレンタカーで、出発した。
松山から40分位で、西条に到着した。
叔母さんの家は、海がすぐそばだった。
迎えてくださった叔母さんは、元気そうだった。
何年ぶりにお会いしたのだろうか?
おじさんとは、本当に子供の時以来に一回お会いしただけで・・・
なんとも私は、親戚関係には、疎遠だ。
西条を出て、松山へ行く。
叔父さんの家を2件、お邪魔する。
従姉妹もいたのが、何年ぶりにあったのだだろう?
懐かしい顔。
私の知る人たちは、ここにいる。
叔父も叔母も、私の母の兄弟なのだ。
母の生まれは、松山だ。
松山は、10年ほど住んだ町。
生まれたのは、愛媛県大洲市。
3年間だけいた。その後、松山へ引越しした。
小学校に入学する頃は、大阪へ引越し、
4年後、松山に戻った。
父の仕事の転勤で、住む場所は、コロコロ変わった。
いつの間にか、父母は、不仲になり、毎日ケンカをしていた。
そして、高校になり、
松山からバスで30分の砥部にある高校へ通った。
入学して、夏頃、また親は、転勤した。
今度は、関西方面だ。
もういい加減にしろよってな気持ちだった。
高校も一年生の時だけは、砥部の高校(デザイン科)へ通う。
2年生の時に、転校した。
私は、8ヶ月間、間借りをした。
道後温泉の近くだった。
ツライ思い出が多いけれど、砥部の学校に通った頃は、
何もかも新鮮だった。
学校へ行くのが、楽しかった。
転校しなければ、砥部に移って最後まで、この学校へ行きたかった。
やはり親のそばの方がいいってことで、転校した。
ちょうど、同じ学科が、親の住んでいた町にあったし・・
仕送りの負担もなくなるだろうってね。
焼き物の里にある学校は、こじんまりとして、
一学年30名、全校生90名の小さな学校だった。
松山へ行く時は、必ず砥部に行きたい。
ハードスケジュールの中、松山にいる叔父さんと砥部に立ち寄った。
あまり変わらない風景に安心した。
私が、ここに居た・・
そんな風景があった。
砥部焼の窯元は、多数あるが、一番のお気に入りは、
梅山釜。
作業場は、公休日だった。
窓から、眺めた。
砥部へ行ったあと、道後へ行く。
懐かしい町。
右のアパートがあったあたりに、8ヶ月間住んだ家があったと思う。
もうないのよね。
しかし・・・古い土壁だねぇ。
松山は、古い民家がたくさんあるので、撮りたいって思う。
旦那は、仕事が忙しいので、休みが取れない。
私も巷の3連休の最中なので、連休は、無理。
最終便で、帰った。
一日、行っただけなのに、
思い出が走馬灯のように、思い出されて、
なんだか切ないような、甘酸っぱいような気持ちでいるのだ。
おばさんの命、2ヶ月なんて・・・少しでも長くいきてほしい。
また元気な姿を見たい。