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アトリエダイズ

アトリエダイズの活動報告

討ち入り

2011-12-11 | Design
ゴルァ!!で済まされない時は、我慢するしかないのですが、その溜め込んだ我慢は・・・。そう。「討ち入り」でござる。討ち入り
ユニコーンの素浪人、ではないですが。いや、素浪人ならまだしも。刀のさびを気にしながらも、夜風が身にしみる程度。
ユニコーンの大迷惑、ではないですが。いや、三年二ヶ月の過酷な一人旅ならまだしも。単身赴任の夜もすがら、コンビニの唐揚げとビールでメタボリックか中年太りが関の山。
それでも、許すまじあの野郎。その時は・・・。男子たるもの、本懐を遂げるべく、「討ち入り」でござる。
テロは良くない。しかし、予告先発。先方も想定内の、斬りたくないが、刀が覚えしこの恨み。南無阿弥陀仏。
いつかは討ち入られることを、想定内であろう。そこは武士の情け。お出ましなさえ。この戸板の上。
震える足腰で、そこはさすがの公家接待指南役。今で言えば営業部長。場数も踏んで来たはず。
一打ち、二打ち、三流れ。山家流の陣太鼓が聞こえた時から、ついに来たか内蔵助、と覚悟は出来ていたはず。
主君の恨みハラサデオクベキカ。
両国から江戸城内を迂回して海側を渡り、朝焼けの中を江戸っ子の喝采を浴びて泉岳寺まで歩む一行。
これは凱旋ではない。一行は既にこの世の人ならず。
即日切腹は余りの情け容赦ないお裁き。美談であらねばならない、忠臣内蔵助と四十七の赤穂の素浪人。
その日は、12月14日。
あなたの身に、討ち入られる1年9ヶ月の恨みはないか???(D)

結婚式における私の立場

2009-04-19 | Design
 昨日、大学の後輩の結婚式に参列し、披露宴に出席してきた。「新郎の先輩」として。新郎・新婦およびご両家の晴れやかで幸せなご様子に触れ、こちらも幸せをお分け頂けた様な、良い結婚式・披露宴だった。
 私は大学院を二つ出ており、一度社会人になり、社会人を辞めて「完全な学生」として後のほうの大学院に入った。今回は後のほうの大学院の後輩の結婚式・披露宴だったのだが、私をお呼び頂いたことに心から感謝したい。そして、「完全な学生」として大学院に入ったことは実はコンプレックスでもあったのだが、私には合っていたし、今はそれを(大げさだが)「誇り」にも思う。
 大学の同期・先輩・後輩の結婚式・披露宴、特に後に続く2次会の場は、参加した者全てを次第にタイムスリップさせる。昨日は修了して5~6年の後輩たちが集った。ちなみに私と彼らとは10~12歳の年齢差がある(よく呼んでくれたと思う)。当然ながら彼らは5~6年のタイムスリップを行う。私も同様にスライドして5~6年のタイムスリップ、となればよいのだが、どうにも自制が効かず、5~6年のタイムスリップに10~12歳の年齢差を足した15~18年のタイムスリップであったと、本日は深く反省している。
 どうして一緒になって騒いでしまうのだろう?いい年をして「JK」だの「デレツン研究室」だの、そして定番の「大学院なんてやめちまえ!」だの・・・。以前もよくIに注意された。「一度社会人になってから大学院に入ったんだから、若い後輩たちと一緒になって騒ぐんじゃないの!」と。当時は30代半ばの私が20代初めから半ばの後輩たちと騒ぐ、自分だけの10~12年のタイムスリップを、私の体力が許してくれていたのだと思う。しかし、昨日の15~18年のタイムスリップは体力的には限界だったかもしれない。集合写真の際のジャンプで脇腹を痛め、そして今日は二日酔。気がつけば「後厄」である。
 でも、こうして結婚式にまで呼んでくれる後輩たちに恵まれ、2次会にも呼んでくれる(勝手についていったのだが)ことがとてもうれしく、誇りであり、「完全な学生」として大学院に入った財産ではないかと感じている。とても、楽しかった。(D)

職場のメールチェックはストレス

2008-03-23 | Design
 もうすっかり慣れてしまっている「メールチェック」。実は精神的にストレスがかかっている。寝る前の「メールチェック」はエスプレッソ3杯分だとか!私もかつて、軽度だが生活習慣病(メニエル病)に悩まされ、ひどいときは不眠症に苛まれた。幸い、「もう若くない」という諦めと、「社会的ストレス・職業的ストレスと上手く付き合うしかない」という覚悟から、健康に気を使うようになり、多少改善したが・・・。
 「人間環境系」に関する「倫理」を研究しているので、この手の問題には敏感である。高度に都市化(養老猛司によればIT機器の普及もそれに入るらしい)した社会生活には、心理的障害がつきものである。「居心地の悪い場所」も当然形成され、例えば満員電車の中、望ましくない他者の発する声やその内容・態度・行為の傍らで、ひたすら本や携帯画面に目を落とし、耳にI-PODを装着して生きていかねばならない。
 社会的ストレスにはこういう付き合い方があり、私も仕方なく実践している。本来、街を歩く際にはそこにある事物・歴史・建築・文化とそこに居る人々(つまり他者)を楽しみたい。要するに顔を上げて真正面に付き合いたいけど仕方ない。しかし、職業的ストレスとは、もともと顔を上げて真正面に付き合うことを「強要」されている。自分で選んだ職業だけに責任感もあり、知らず知らず職業からも「職業的ストレス」からも「強要」されているという感覚が欠如し、頭は麻痺し、ストレスをストレスと感じなくなってしまう。
 これは危険だ!生きている体の方が客観的なので、ときどき危険信号を発するが、耳鳴りがしても、眩暈がしても、「忙しいから当たり前だ」と頭は勝手に間違った結論を出し、それ以上、体をいたわらない。「メニエル病」などという具体的なラベルを貼られて、やっと頭が間違った結論を出していたことの「判決」を受け、「自分裁判」に負けるのだから、要するに私の頭は私の体を管理する「管理者」としては「失格」であった、私の頭は私の体を弁護する「弁護士」としては「失格」であった、と思い至るのだが、やるせないのは私の体が私の頭を「解任」できないことだ・・・。
 先日、職場の一人から、職場同報メールが届いた。私がそれを「メールチェック」したのが休日の朝だったのだが、メールのタイトル(紛糾している議題)を見るなり、心臓の鼓動が早くなり、見る見る血圧が高くなるのを感じた。もう私は若くない。しかも「動悸・息切れ・眩暈・・・」というあの○心のキャッチフレーズを初めて身近に感じ、過労死や突然死の直接的死因として「心停止」が多く、AED(自動体外式除細動機)の普及していることなど、色々と考えが巡り、単純に生命の危険を感じ、いかに職業的ストレスと上手に付き合うことが必要で、したがってワーク・ライフ・バランスを上手に達成することこそ、全職員に「強要」すべきであるという結論に至った。こういう結論を出す私の頭は、私の体の「管理者」、私の体の「弁護人」として「合格」でしょうか?
 つまり、職業的ストレスと上手く付き合う一手段として、「職場でしか職場のメールはチェックしない」「休日に職場のメールチェックなどしない」「寝る前のメールチェックは絶対にしない」を実践する。そして、メールアドレスや携帯電話番号を職場用とプライベート用にきっちり分ける(既に民間企業ではあたりまえのことだが、大学ではむずかしい。しかし、あえてこのあたりのけじめをつける!)。さらに、属する組織には(ユビキタス社会に逆行するが)職場以外で職場のメールチェックができないようにしてほしいものである。そして「どうしてあの人は関係者だけに直接口頭で言えばよいだけのことをいちいちメールで、しかも職場同報メールで送るのだろう???」「たぶん(時間外や休日返上で)自分がこれだけやってるんだと言う証拠を残したいんだろうなあ・・・。」などと、望ましくない他者のことなど一切考えないようにして、「難しいことはわからナインチェ!」と寒いギャグでとぼける。これくらいの付き合い方(処方箋)をしないと生きていけない時代になってしまった。こんな職場(働く「場所」)、こんな「人間環境系」しか形成できていない現代日本における都市生活の質は、限りなく貧しい・・・。(D)

キッズケータイ

2008-03-22 | Design
 私は携帯電話を好まない。携帯電話が出始めた頃(つまり第1世代?)、それはそれは重かった。会社で出張するときなど連絡用に持たされるのだが、上着の内ポケットに入れてもぽっこりと形が出てしまう。現在の固定電話の子機よりも重かったような気がする。
 デジタル式携帯電話のさきがけであった「MOVA」(つまり第2世代?)が生産を中止し、本格的かつグローバルな携帯電話時代(というのもおかしいが)が到来している(つまり第3世代?)。地球の裏側に居ても即時的に通信可能である。
 これが厄介なのだ。携帯電話を好まない大きな理由の一つとして、「即時性」がある。ワークスタイルがグローバルしている反面、ライフスタイルのグローバル化して欲しくない部分まで、この「即時性」に侵食される。ワークスタイル上、持たざるを得ない携帯電話であるし、ライフスタイル上も持っていたほうが良い面もあるので、私も遅ればせながら4年ほど前から個人用の携帯電話を持ち始めた。
 持ってみると、恐ろしいもので慣れてしまう。その小さな箱に頼ってしまう。どこに居ても連絡がつくということの、なんと便利で、なんと恐ろしいことか!
 最近、気がついたのだが、充電を繰り返すとバッテリーは弱るらしい。持続時間がどんどん短くなっていく。そしてメールよりも通話の方が電力を消費するらしく、この間などは止むに止まれず出張先で携帯電話による通話を多用したために、ついに単なる「ハコ」と化してしまった。電源切れの携帯電話ほど無駄なものはない。空しい。テレホンカード一枚で通話が可能な公衆電話のなんと頼もしいことか!充電器を持ってこなかった自分が悪いのだが、こういう事態で汗をかくと、携帯電話と、それに頼っている自分の両方がイヤになる。
 さて、携帯電話を好まない理由がもう一つある。私の携帯電話は世間では少ない方の「2代目」である(ちなみに本体に1円以上支出したことは無い)。先の電源切れ事件もあって、そろそろ寿命だし、なにやらポイントもこの時期なら使えるらしいので買い換えることにした。そこで、店であれこれ実物を見たのだが、なんと「これいいじゃん!」「他のどの携帯よりもシンプルでデザインが気に入った!」という機種をみつけてしまった。その機種には「はなれたよアラーム」や「ちょこっと通知」、さらには「時間割」までが入力できる。大学で働く者にとってこんないいものはない!という「キッズケータイF801i」!何と言ってもデザインがGOODである。ちなみに佐藤可士和氏のデザイン。
 ここで、携帯電話を好まない理由である。チューンアップができないのだ。「キッズケータイの筐体にFOMA705シリーズのスペックを」ということができるようになるには第4世代か第5世代の携帯電話を待たなくてはならないのだろうか?MacはColor Classicの筐体にPower PCを入れることができたし、建築分野にも「レトロフィット」という技術がある。もしかしたら、私が知らないだけで、もうできるのかも知れないけど・・・。
 好まない、と書きつつも、パソコンと同じように、好む・好まざるに関わらず、携帯電話は仕事と生活の一部になっている。(D) 

パーソナルベスト

2008-02-25 | Design
 「ナンバーワンではなく、オンリーワン。」少し前に流行った言葉だ。しかし、両者の間には、「ずれ」というか、論理のすり替えのようなものがあると、私は感じている。
 ナンバーワンも、オンリーワンも、他者との比較あってのことである。例えば10人の人達が参加したとして、10人をある一定の尺度(群)で比較すると、必ずナンバーワンが選出できる。また、逆に10人のうち、ただ一人しか持ち得ない尺度(群)が認められる場合、これをオンリーワンと言う。しかし、参加者10人のうち、その尺度(群)で比較できる人が一人でも居た場合、たちまちオンリーワンと言える人は選出できなくなる。
 「誰でもオンリーワン。」などという言葉は、「ずれ」であり、論理のすり替えであり、まやかしであると言ったら言い過ぎであろうか?参加者が10人でさえ、「この人はこういう尺度でオンリーワン。」と断定することは難しい。さらに、参加者を100人、1000人と増やした場合、さらにオンリーワンの定義は難しくなる。ということは、この言葉は単に耳に心地よい響きだけで生きているのではないか?と怪しむ気持ちが出てくる。
 「人を気にするな。もともとのありのままの君でいいじゃないか。君は君以外の誰でもないのだから。」がもともと「オンリーワン」が世に広まった経緯である。ちょうど世の中「癒しブーム」であったから。そして、そこには最初から他者との比較という概念がない。他者との比較や競争に疲れてしまったという時代背景もある。しかし、流行言葉で使われた「オンリーワン」は、このことをすっ飛ばして、「ずれ」を生じさせ、論理をすり替え、まやかしになってしまい、「オンリーワン」を比較や競争の道具にするような本末転倒の輩も現れ始めた。「オンリーワンで競争的資金を獲得しよう!」などと正気で言っているのだから・・・。
 孤独な努力に耐える覚悟があるのであれば、何かの分野で必ず「ナンバーワン」になれる。何の分野が自分に合っているか見極めるのも孤独な努力である。そして、その分野で孤独な努力を積み重ねること、「パーソナルベスト」を日々更新していくこと、これこそが「オンリーワン」の真意ではないだろうか?
 よって、「ナンバーワンより、パーソナルベスト。」である。好きな分野でパーソナルベストが出たときの喜びは、「もともとあなたはオンリーワン。」などと言われた時に生じる感情などとは比較にならない、別種のものである。(D)

愚問と復讐

2008-02-20 | Design
 デザインの研究を工学部でやっていると、以下のような「愚問」を受ける時がままある。敢えて「愚問」と書いたのは、それを「愚問」と書かなければ工学部においてデザインの研究が成立しないというジレンマもある。
 1)「数字で表現してもらわなければ解らない。」
 2)「言葉の意味や用法、定義が解らない。」
 3)「調査すれば解るというものではない。」
 4)「何を言っているのか解らない。」
 いずれも愚問である。なぜ愚問であるか?
 1)数字で表現してもらわなければ解らないということは、数字で表現できないものを理解しなくても良いという「驕り」がある。恋愛やスポーツや映画を「%」「時速」「収益率」などのスペックに置き換えないと理解できないと言っているのと同じだ。いや、置き換えなくては価値がないと驕っているのと同じだ。それに、数字は主たる評価手段であっても、主たる価値判断の手段ではない(数字自体に価値はない。)。数字に価値を認めて結婚すると不幸になることもピンと来ないのではないだろうか?よって愚問である。
 2)「日本語が解らない。」と言っているのと同じである。せめて「その言葉の使い方はこうであり、あなたの言葉の使い方は間違っているのではないか?」と言うべきだ。そのためには日頃から新聞を読み、自身の言葉を鍛えなくてはならない。それをせずして他人の批判ばかりする輩が得てしてこの手の台詞を吐く。「国語を勉強して下さい。」としか言いようがない。具体的には「なぜこの言葉は平仮名標記なのか?」などと堂々と聞く。平仮名標記の言葉は現実に数多くある。現実に法律や条令や教科書までが平仮名標記である言葉に対して「異分野であるから解らない。」は済まされない。解らないなら、知らないなら、黙っているべきではないか。知っているのであれば正答を示し手指摘すべきではないか。よって愚問である。
 3)調査すれば、それがいかなる手法であっても一貫性とポリシーがあれば必ず解ることがある。それを「無から有を生み出す。」と解釈するのは甚だ低レベルである。ありのままの事象をただひたすら記述することであってもそれは調査であり、その蓄積がそのまま伝達力を持つ。登記簿や地図や名簿も立派なデータベースである。そのようなありのままの「記録」を「情報」として扱えない輩が得てしてこのようなことを言う。「解る」とは何か?「解釈」とは何か?同一の事象に対して個人でさえそれは違う。文化によっても違う。いわんや学問分野が違うだけでその調査手法に対する「解る」の内容を尊重できないことは、学問的視野の狭さ、井の中の蛙、自分以外はバカという意識、を如実に表している。よって愚問である。
 4)説明不要。全く非建設的。その場に居る資格すらない。黙っていた方が良い。よって愚問である。
 偉大な数学者、偉大な物理学者は、偉大な文学者、偉大な心理学者でもあった。ブログに書けないほど枚挙に暇がない。彼らは自ら工学部におけるその余地をつぶしている。したがって、こういう人々には無視だけでは足りず、ひそかに復讐せねばならない。そして理解させなくてはならない。それが工学部をより良くする道だと信じている。(D)

変汗キャラ-003

2007-11-16 | Design
 変な汗が出るマスコットキャラクターがこんなにも多いとは思わなかった。
 私はこの手のキャラクターを「かわいい~」とは思ったりしないし、「欲しい~」とも思わない(携帯電話にもひとつだけシンプルなストラップをつけているが、マスコットキャラクターではない。)が、何かの商品やどこかの地域を宣伝したり愛着を持ってもらったりする役割を担う「媒介」としてのマスコットキャラクターの力や魅力については、常日頃から敏感である。
 今回ご紹介する「びんちょうタン」は、いままで取り上げてきたレンジャーものではない。レンジャーはレンジャーで「なぜレンジャーなの?」と思うところに変な汗が出るわけだが、今回の「びんちょうタン」はいままでとは違う変な汗が出た。
 「びんちょうタン」、呼んで名のごとく、備長炭を世に広め、地域振興を図るという壮大な任務を負う。この点ではJALの「シーサキ」とよく似ているが、こちらは正真正銘の「アニメキャラクター」なのだ!変な汗が出る。さすが紀州!このブログでも取り上げた「紀の国戦隊紀州レンジャー」の一員にも「スミレンジャー」が居るが、和歌山としてはあの手この手で「紀州備長炭」を世に広めたいらしい。しかし、キャラがあまりに違いすぎる。
 「びんちょうタン」の「タン」はおそらく(絶対?)女の子の愛称「ゆりタン」とか「まいタン」と「炭」をかけている。私は女の子を「タン」付けでは呼ばないが、アニメ界では常識なのか?とにかく、「びんちょうタン」という名を持つこの女の子はそのアニメ顔も手伝い、かわいらしい。そして満面の笑顔ではなくどこか哀愁に満ちた(元気のない?)顔をしている。そこに「萌える」人は「萌える」のだろう(か・・・?)。
 「みなべ町は私のこころのふるさとです。びんちょうタン。」というキャッチフレーズとともに紀州備長炭振興館を背に立つびんちょうタンのファッションはミニ浴衣(定番?)であり、なんと頭に紀州備長炭をのせ、落ちないように紐でくくってあご紐で頭に固定している。和歌山の森からふらりと出てきた「炭の巫女」という感じであろう。
 実はみなべ町は、3年ほど前に南部町と南部川村が合併してできた町であり、梅の生産量は全国一という、なかなか豊かな良い町であり、私も何度も行ったことがあるが、紀州備長炭振興館にはまだ行っていない。なにやら「びんちょうタン」の周辺にはみなべ町を舞台とするストーリーのようなものがありそうなので、次回はこの変な汗が出るマスコットキャラクターのストーリーについてレポートする。意外と行けば、「びんちょうタン」が欲しくなって、私も携帯ストラップくらい買ってつけてしまうのだろうか?変な汗が出る・・・。(D)

変汗キャラ-002

2007-10-18 | Design
 前回からかなり時間が経ってしまったが、久々に書く。変汗キャラ、とりわけレンジャーについて。001では和歌山を取り上げたが、002では福岡である。その名も「少年フクオカ」!!
 ちょっと見には少年ジャンプ、少年チャンピオンを髣髴とさせる厚い冊子体を模したプロポーション。側面には雑誌背表紙のように堂々たる「少年フクオカ」、しかも「初回限定版」と来た!果たして第2号は刊行(いや発売)されるのか?背表紙の逆の面にはいかにも冊子らしく紙束のようなラインにグラデーション、その両側面にもそのラインとグラデーションが続く。恐々とラッピングを解き、冊子を開く(表紙だけが開き、中は箱になっている)と、表紙の裏には「博多方言番付」が掲載されている。「これで博多に来ても大丈夫たい」とある。「たい」は「隊」の方がよかったのでは?とひそかに思う。「少年フクオカ」初回限定版だから、第2号は「柳川」とか「門司」の特集をやってくれるのだろうか?
 果たして中身はただのクッキー。しかもミルクチョコクッキー・・・。どうして?しかもクッキーでよかったのか?とさらにひそかに思う。まあ、辛子明太子が入っていたらびっくりだが、それにしても、この「少年フクオカ」の変汗キャラは「博多メン隊カラインジャー」である。「辛いんじゃ~」と言われて、しかもフクオカで、辛子明太子を思いださぬ者はおらぬ。この企画の難点はここにある。どうして中に辛子明太子を入れなかったのか?いや、入れられなかったのか?クッキーは全く辛くなく、逆に甘い!パッケージを再度見つめ、変な汗が出る。
 紙面の許す限り、この「変汗キャラー002」について記述する。「罪を憎んで人を憎まず、博多で生まれ、博多で育ち、博多を愛する情熱ヒーロー」と書かれた表紙には、ラーメンを作る「セカラシカゴールド」、客席に腰かけ、出来立てのラーメンを手に持つ「バッテンレッド」、すでにどんぶりは空になっている「スイトートピンク」、そしてのれんごしに屋台に顔を出す「オイサッブルー」の4人がいずれも無表情で正面を見つめる。
 彼らの紹介は裏表紙にある。どうやらゴールドはとんこつラーメン、レッドは辛子明太子、ピンクは梅、ブルーは山笠らしい。レンジャーの基本は5人だ。もう一人加えられなかったことも惜しい。そして何よりも「フクオカ」なのに博多に焦点を当てすぎている。第2号もお菓子であろうから、とんこつラーメン味や梅味のクッキー?しかし、第4号の山笠は何を持ってくるのか?まさか「引き締まったオ・シ・リ」がチャームポイント(そう書いてあり、実際にブルーの後姿は締込姿だ)だから、Tバック下着?それはそれで面白いが・・・。
 しかし、前回も書いたように、「マスコット」「キャラクター」はそれに接した人に愛着や共感を抱かせ、かわいらしいと思わせなくてはならない。この点では少年フクオカはぎりぎり合格点であろう。しかし、「なぜレンジャーなのか?」という問いには答えていない。レンジャーは敵をやっつける「特殊部隊」である。しかも主として「奇襲」を任務とする。まさに安易に「レンジャー」を「マスコット」「キャラクター」に起用した代表例と言えよう。前回紹介した和歌山県の「紀ノ国戦隊紀州レンジャー」は、「紀州」と「奇襲」が微妙に掛詞になっており、「和歌山の大自然を汚す敵」をやっつける「環境保護活動」という任務がある。しかし、少年フクオカには、その紹介を読んでも「レンジャー」である必要性は全くない。「ソレ!イケ!我らの博多メンタイカラインジャー」とあるが、いったいどこへ行けというのだろう。彼らの活動は、任務は、目的は未だ不明である。
 変な汗が出るが、今回は、「冊子体」にして、あくまで「博多メン隊カラインジャー」はその雑誌の登場人物であるという設定でパッケージされたヒーローとしたところで、まあまあの星2つ。第2号に期待する。もちろん「紀ノ国戦隊紀州レンジャー」は星3つである。そういえば先日、和歌山の「紀州をどり」を見に行った際に、居ました!「紀ノ国戦隊紀州レンジャー」の一員で、赤いやつの着ぐるみが!まあまあの人気だったが、それよりも子供たちに大人気だったのは「花王」の「メリーズちゃん(うさぎのようなやつ)」の着ぐるみだった。反則でしょう、そのキャラは・・・。(D)

変汗キャラ-001

2007-05-06 | Design
 「マスコット」だとか「キャラクター」などと言われるこれらの擬人化手法について、常々思っていることを書く。既に自治体や各種団体の奇妙で微妙なキャラクターについては、みうらじゅん氏によって「ゆるキャラ」なる命名がなされており、二番煎じ(いや、二十番煎じ?)であることは承知である。
 「マスコット」はもともと「幸運をもたらすお守り」のような意味があり、「キャラクター」はこの意味において商品や地域を身近に感じられるように考え出されている。ということは、これらの「マスコット」「キャラクター」はそれに接した人に愛着や共感を抱かせ、かわいらしいと思わせなくてはならないのだが、現実には誠に奇妙で微妙なものが多く、中にはやるせないと言うか恥ずかしいと言うか、とにかく変な汗が出る「マスコット」「キャラクター」がいる。
 私はこれを「変汗キャラ」と呼ぶことにするが、特に「レンジャー」が使われる場合、「なぜレンジャーなのか?」と考えさせられる。誰が「レンジャー」でいこうと言ったのか?なぜ「それはないんじゃないの?」と誰かが止めなかったのか?それともあえて公衆の目にさらし、判断を仰ごういうわけか?
 JALの「シーサキ」は、「マスコット」「キャラクター」としてはよくできていると思う。もともと「マスコット」「キャラクター」としてほとんど失敗作の無い「相武紗希」を「先得」で起用し、そこへ沖縄の伝統的「マスコット」「キャラクター」である「シーサー(もちろん厄除けであり、幸運をもたらすお守りである。)」を持ってきて、「シーサキ」と来て「JAL OKINAWA 2007」と一気にたたみかける。やられた!もともと相武紗希がまんがや絵文字で表現出来そうなほど単純(失礼!)・童顔(失礼!!)・非戦闘的(失礼?)であるにもかかわらず、見るものはいとも簡単にやられてしまう。これが「マスコット」「キャラクター」の実力だ。「シーサキ」は笑ってばかりではない。説明したり小躍りしたり泣いたりしている。なんだかがんばっている。応援したくなるのだ。
 ところで「レンジャー」である。ご存知の通り、レンジャーは敵をやっつける「特殊部隊」である。しかも主として「奇襲」を任務とする。そうでなければ「警備隊」位の意味だ。もともと戦闘的であり、複雑であり、しかも童顔であってはならない。ここのところをわかっているのか?安易に「レンジャー」を「マスコット」「キャラクター」に起用する人たちよ!「秘密戦隊ゴレンジャー」以降、様々なレンジャーが登場し、様々な「悪」と戦っているが、ついに「マスコット」「キャラクター」界にもレンジャーが登場し、「悪」と戦っている。「悪」とは何か?やるせない。恥ずかしい。変な汗が出る。
 現在のところ、私にとっての「変汗キャラ」の最高峰は、和歌山県の「紀ノ国戦隊紀州レンジャー」だ。「紀州」と「奇襲」が微妙に掛詞になっており、ますます変な汗が出る。奇襲はいかんだろう。いや、戦い自体がどうなんだろう?彼らにとっての「悪」は「和歌山の大自然を汚す敵」であり、彼らの任務は「環境保護活動(まあ「警備隊」くらいの意味なのね?と納得?」)」「和歌山県物産の認知(彼らが認知してどうする?せめて認知度向上と書いて欲しい。)」「地場産業活性(活性化では?)」である。メンバーは「クジレンジャー」「ミカンレンジャー」「タチレンジャー」「ウメレンジャー」「スミレンジャー」「メハリズシレンジャー」そして「キンザンジミソレンジャー」である。どのメンバーも戦闘的である。特に「タチレンジャー」などは顔に太刀魚をいただき、太刀を振り上げている。そして名前が複雑(そのまんま?)である。最後の二つはなんとかならなかったのか・・・。そして全員覆面であるからまったく童顔などではない。一番の変汗は、「悪」として設定された「和歌山の大自然を汚す敵」は、和歌山に住み、働く和歌山県民ではないのか?そして和歌山に来る観光客ではないのか?あなたは「シーサキと遊ぶ沖縄」と「紀州レンジャーとともに戦う和歌山」のどちらに行きたいか?見ようによっては「世界遺産への観光などに来るんじゃない!和歌山の大自然を壊す敵め!」と県外の人に対して怒っているようにも見える。
 断っておくが、私はこういう地域活性化の取り組みを応援しているし、実際にそれなりの活動も行っている。断じてこのマスコットキャラクターのデザイナーや企画者、およびこの活動を軽んじるつもりはない。だからこそ辛口の批評を加えたくなるのだ。悲喜交々の状況の中、今回は画像を載せることは差し控えさせていただいた。
 変な汗がおさまらぬまま、先日ある団体が経営する店でおにぎりを買った。なんと、そこにも「レンジャー」が!「おにぎり推進宣隊COMEX」と来た!「鮭マヨ」は「うちが作ってん!」とエプロン姿のおばちゃんらしき覆面がアピールしている。一方、「鮭トロ」は「よーけ、た・べ・て・なあ(ハート)」とこちらはきらきらした目を隠さない。昔はやったソバージュの髪型からしてこちらもおばちゃんに見える。こちらもかなりの「ゆるキャラ」であり、「変汗キャラ」だ。しかし、こちらは「戦隊」ではない。「宣隊」なのだ。つまりレンジャーではなかった。しかも「推進宣隊」だ!おにぎりは普通にうまかったが、こいつらが作ったものをよーけ食べてよいものだろうか?COMEXのおにぎり推進活動に、これからも私なりに協力するが、それにしても変な汗が出る。(D)

考えても、がんばっても、どうにもならない?

2007-04-07 | Design
 デザインって、そもそも「こうあるべき」「こうしたい」「こうしてあげたい」などのコンセプトが無いと出来ない。だから、逆の「こうあってはいけない」「こうしたくない」「こうしてあげたくない」という現象や事柄に直面すると、デザイナーは知らず知らずのうちに、考えてしまう。問題だと感じてしまう。あるべき、こうしたい、こうしてあげたい方向に持っていかなくてはならないのでは?とがんばってしまう。
 ところが世の中には、「考えてもどうにもならない」「がんばってもどうにもならない」事の方が、実は多い。デザイナーが陥りやすい、このストレスに満ちた状況を、デザイナーならば乗り越えなくてはならないのだろう。
 そもそもデザインという行為がふさわしくない環境もある。デザイナーにとってふさわしくない環境もあるだろう。その場その場で、複数の人がバラバラに、自分勝手に、自分の主張を繰り広げ、自分の利益を守る、自分の手柄を誇示する、そういう状況の方がむしろ正常なのか?まさかそんなことは信じたくも無い性善説に立つデザイナーから見れば「自由放任主義がうまく行く」と言う経済学者の主張など一番遠いものに感じる。しかし、現実は、私の職場ではそんな状況が圧倒的で、みんなそういう状況に慣れている。考えても、がんばっても、どうにもならない、という状況に。
 普通、そういう状況に、性善説に立つデザイナーが直面すれば、モチベーションを削がれよう。もはや私もこの状況を「考えても、がんばっても、どうにもならない」と感じていて、もはやどうこうしよう、デザインしよう、などとは思っていない。この状況ではこうするしかなかろう、という妥当な線を探して立ち居振舞っている。こういう行動様式が定型化することを「怠惰」「堕落」「日和見」と呼ぶのだろう。いずれも「コンセプトレス」だ。私はすでにそういう評価をされているのかもしれない、と思うと寒気が走る・・・。やはりデザイナーならば、気を強く持って、性善説なら性善説を信じて、人を動かす、つまり物理的環境(モノ)だけではなく社会的環境(コト)をもデザインしなくてはならないのだろう。やはり、デザイナーは、考えて、がんばるしかない。
 そうはいいつつも、ずっと考え、ずっとがんばるよりは、一度すぱっと忘れ、十分休んでから、道草しながら、また考え、またがんばる、そういうサイクルを構築できるように、なりたい。奥田民生のように。(D)