ごきげんよう 八八千景です

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私的小説『夢』 八八千景

2022-02-23 00:07:54 | 日記

 うっかり身内を殺してしまった日から、友人は狂ったように、ゆらゆら揺れていた。
 毎日、毎日、オレよりも早く起きては揺れ、何も映らない瞳で地面をじっと見つめている。数日前、何も感じないのだと言ったきり、友人との会話は途絶えてしまったのだが、別に死にたいとかいうわけでは無いらしい。オレの話も一応は聞いているようで、頼んだことはやってくれるし、飯も普通に食べている。
 ただ、肉と、赤いものだけを異様に避けていた。
 説明されなくても察する。血肉は生き物の基本だ。何も感じなくとも、無意識に避けているのだろう。
 犯罪を取り締まり、罪を法の下に裁く世界のある片隅で、法律の利かない世界もある。法律なんてもので統率がとれるのは、そいつらが真っ当な人間であるからで、逆に言えば、真っ当な人間なんていない世界に、法も裁きも存在しない。あるのは、少しの罪悪と同情心ぐらいだろうか。
 そんな世界に、オレと友人は暮らしている。そんな世界でしか、住める場所が無かった。もうこりごりだった。生活には金が必要で、金を得るためには仕事が必要で、せっかく貯めた金も、ただ「生きるための権利」とかいう税金に全て消える。
 外が怖かった。何もかも照らし出す昼が怖かった。オレのことを知りもしない脳みそで、勝手にオレの存在を否定する他者が怖かった。オレの意思とは別に、勝手に経過する時間が怖かった。天井のシミを見つめるだけで一日が終わることが、飯を一膳も食わなかったことが、明日も仕事があることが、家に他人がいることが、怖かった。
 だからオレたちはこの町に逃げてきた。
 友人には家族がいた。あまり好きではなかったらしい。ある晩、少しの返り血が付いた服を着たまま、オレの家を訪ねてきた友人は、世間話をするように「うるさくてさぁ」と呟いた。
 その晩は、夏だった。蚊に噛まれた腕が痒かったことを覚えている。
「蚊はうるさいし、刺されたとこは痛いし、あの馬鹿は馬鹿だから変なことやらかすし、馬鹿のやることにいちいち反応しててもしょうがないし、あんなのが身内なわけないし、それなのにそんな他人に母さんはいちいち怒鳴るし。もう、うるさいから、みんな殺しちゃった。蚊は小さくて見えなくて、殺せなかったから、家を飛び出してきて、現状、って感じなんだけど」
 友人は特に、家族の中でも男たちを嫌っていた。育ての親は母親だけで、父なんて存在は無いに等しく、友人の物心つく前から存在した妹は妹らしいが、後生まれの弟は弟ではないらしかった。随分前に、後から生まれたくせに生意気だ、と言っていた。それから、他人のくせに邪魔なんだとも言っていた。友人いわく、友人の「他人ではない」との判断は、小さい頃から一緒にいたかどうからしいし、それは小学校に上がる前までの判断になるという。友人が小学二年か三年の頃に生まれた弟は、その時点で既に他人だった。家族というのは、もともと存在していた人数が全てだ。自分の誕生を祝ってくれた当事者の人間だけが家族だ。それ以外は、ただのお飾りに過ぎない。そういうことらしい。
「うるさいから、この機会だと思ってさ、他人のくせに家族のフリしてたやつをみんな殺したんだ。おかげですっきりした。これからは本当の家族とだけ暮らしていけるよ」
 気が狂っていると思う。
 本当の家族と暮らせると友人は言ったものの、さすがに人を殺しておいて平然と過ごせるわけもなく、一年か二年は身を潜める必要がある。友人の話を聞いてしまったオレは共犯者になってしまい、仕方なく血のついた服を洗濯機に入れ、回し、紅茶を飲んで、友人宅へ向かい、小さな死体を寝袋に入れ、この町へ向かった。
 死体は町へ入るなり、処分屋へ引き渡した。聞くと、人間の死体は結構な値段で売れるらしい。新たな研究のために何某という博士に。骨格標本を作りたい何某という研究者に。
 それからオレたちは三千円で宿に泊まった。翌日には宿を出て、道中見つけた空き家に住んだ。酷いものだったが、寝食には困らなかった。
 町での暮らしは意外にも心地よかった。無法地帯でも、無法地帯なりに規律があるというか、例えば、自分が他人を襲うと、襲われた他人からの復讐が必ずある、とか、そんな恐怖心でお互いを締め付け合っているようで、目立つ問題も事件も未だ起きていない。道に死体が捨てられることがあっても処分屋が目ざとく見つけては関係各所に転売している。
 ある時、深夜の屋台でラーメン屋という名の配給をしているおじさんの店を訪ねたことがあった。町外でラーメン屋を営む傍ら、廃棄処分される食べ物をかき集めてはこの町に暮らすオレたちのような人間に無償で配給してくれている。おじさんの優しさに、涙する客人もあとを絶たない。困難と絶望の最中にいる人間ほど人たった一人で戦っているし、差し出されたであろう他人の手も全て振り払っている。助けがいらないのではない。他人の助けがいらないだけだ。知ったような気で肩を摑まれ、手を握られ、知りもしない他人に「自分だけはあなたの味方だよ」と囁かれたところで、それは他人の自己満足にすぎないのだ。他人が勝手に、偽善で満足しているだけだ。そんな偽善ほど邪魔なものはない。
 ラーメン屋のおじさんはそんな偽善者共とは違い、ただただ無言で温かいご飯を提供してくれる。偽善者の多くは言うだけ言って、何も助けてくれないが、おじさんは違う。温かい、ご飯がある。そこにみんなが救われる。
 オレたちは、そんな毎日が続けば良いと思っていた。それだけの日々でも、あの社会に戻る方が余程辛く、苦しいことを知っている。
 日々は突如崩れた。ありきたりな展開だ。幸せは長く続かないというのがテンプレなのだから。
 あろうことか、とある女性が社会から逃れてきた際、まだこちらを知らない新人の警官を連れてきてしまったのだ。警官は良いが、新人というのが良くない。無駄な正義感がある。正義感は、ほんの些細な悪を逃さない。果物屋の檸檬を万引きした程度で、地の果てまで追ってくるのだから。
 想像通り、若い警官は己の定規だけを見せつけて、この町の存在を真っ向から否定した。悪を否定した。悪を否定するということは、この町の人間を否定するということだ。警官は町から出てこれなくなった。短気な町の人間のひとりに銃殺されたからだった。銃殺した人間は、頭から血を流す警官の持ち物を物色しながら「甘やかされて育ってきたんだろう、かわいそうに。じゃなきゃ、警察になんてなってないはずだ。心からの善人なんて存在しない。悪者を全て排除しようものなら、地球上の人間全部を殺して自分も死ななきゃなんねぇことになるからな。かわいそうに」と、生気のない目で呟いていた。
 しかし、警官を殺したというのが相当に悪かったらしい。
 翌日から、ラーメン屋のおじさんが消えた。噂によると、オレたちの存在を庇って、社会の民衆の前で絞首刑になったらしい。「悪人に手を貸した」というのがおじさんの罪状だった。オレたちの町には法律が存在しない。社会とは隔離され、真っ当な人間が手を下せるほど腐ってもいない。
 だから、社会に生き、オレたちと過ごしていたラーメン屋のおじさんは、社会の法の下に罰せられた。
 オレたちを助けてくれない社会が、オレたちを助けたおじさんを殺した。汚いものには蓋をしたい一心で、社会はさらにオレたちを隔離する。オレたちを助けながら社会で暮らす人間は、汚いものだから徹底的に排除される。
 こうして、健全な社会が形成される。
 友人はまだ揺れていた。善悪とは遠く、ただひとりの虚空へと舵を切り始める。
「善も悪もない」
 数年ぶりに、友人の口が開いた。
「あるのは、ただ、経過する無駄な時間と、無駄に存在する身体だ。意思は別次元に存在しているし、別次元同士がぶつかることで成り立つ会話なんてのは、根本からズレてるんだよ。もともと出会うはずのないものだったんだ。偶然存在してしまったから、渇望することになる。悩むくらいならいっそ、はじめからやり直した方が早い。時間も身体もない、一人きりの世界から」
 そうして友人は弾丸を装填し、撃鉄を倒し、引き金を引いて、無へと戻っていった。家族すら存在しなかった、はじめの世界へと。

   了

 他人が存在するから世界は複雑になる。こんばんは、八八千景です。全ての考えは本文にありますので、特筆することはございませんが、近頃はまた、急に冷え込んできました。こんな文章まで目を通す好事家の皆さま、お体にはお気をつけてお過ごしください。

 余談ではありますが、誰しも複数の人格を使いこなしながら生活をしているものだと思います。家にひとりきりで篭る時、家族のだれかがいるとき、友人と会話するとき。友人と長時間、寝食を共にする、ということが私には大変な苦痛です。一時も休める時間がありませんので。本来なら、家族とでさえも極力の会話を控えて大人しく籠っているのに、友人たちととなると、めいいっぱいはしゃがなくちゃならない。一度「素で過ごしてみるか」と思って実践したところ「元気ないよね大丈夫?」と余計な心配をされました。大変迷惑な話です。

 一言も会話をしなくてもいい。そんな友人がほしい。けれど、そんな理想は存在しません。イマジナリーフレンド意外には。

 今晩も遅くなりました。それではまたお会いしましょう。