街の中心に聳えるノートルダム=ド=ストラスブール大聖堂をもう少し見ていきましょう。
現在の原型が建設されたのは、1177年頃で祭壇のサンクチュアリと身廊の東の端あたりが最初に作られました。この時はロマネスク様式で建設が始まったようです。
1225年にシャルトルから来た人達がゴシック様式にするように勧めたとあります、実際シャルトルでは、すでにシャルトルの大聖堂の建築が始まっていて、この建築様式の方が構造的に堅固なので、窓を広く取り、ステンドグラスなどを入れることができる、といった助言だったのではないかと推測します。
そしてそのとおりに窓をふんだんに取った大聖堂に成長していきました。
画像の正面はゴシック様式の傑作と言われ、上へ上へと伸びあがっていこうとする意思を表すようにファサード一面に施された彫刻や装飾の総体が、神のもとに登っていく有様を一瞬のもとに伝えています。
1439年に1つの尖塔が完成しました、尖塔はゴシック様式の特徴の一つで、建築の構造が強固になったので建設できるようになりました。
しかし、当初は先頭をもう一つ作る予定でしたが、それは地盤が弱かったために実願しなかったようです。
確かにこうして見ると街の中心にあって、街をも守るというか睥睨するというか、一種の重厚さと威圧感を感じさせるに十分な建物です。
しかし、ストラスブールにはかなり早くからプロテスタントが入ってきました。それは前にも言ったようにその頃はドイツでしたので、ルターの宗教改革が伝わりやすかったのだと思います。
1524年には市議会がここをプロテスタントの教会とするという決議したために、しばらくのプロテスタントの教会として利用されました。
そして、文献上最小のクリスマスツリーが登場したのはこの教会だったのです、以来ストラスブールはクリスマスマークトが盛んになったのでしょう。クリスマスになるとこの町はクリスマスマークトが一帯に作られ、クリスマスツリーもたくさん売られるということです。
更に時代が遡り、ストラスブールは17世紀にフランスルイ14世の統治下に入り、再びカソリックの教会に戻ります。
18世紀に一時的にアンジェラがこの地を支配して平等主義を主張します。其のやり玉に挙がったのは大聖堂の尖塔でした「尖塔は平等主義をそこねけしからん」ということで、破壊する計画を立てます。その時、市民たちは一計を案じます。
市民たちはアンジェラがかぶっていたフリジア帽、実はこれは自由の象徴だったのです。これをブリキで作り教会の尖塔にかぶせたため、彼らも手が出せなかったという話が残っています。
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