★ミラノに行った訳はいろいろで レオナルド
1482年『レオナルド ダ ヴィンチ』が30歳になるころシスティーナ礼拝堂の装飾事業という大事業で、ベロッキオ工房から選ばれたのは、ボッティチエツリとベルジーノでレオナルドは選ばれませんでした。彼にしてみれは痛恨だったでしょうね。
非凡な才能を持ちながら、授注を受けながら作品を完成させることができずに、契約違反を繰り返したレオナルドにはもうチャンスは巡ってきませんでした。

画像はレオナルドが、所帯道具をすべて持って後にした『フィレンツェ』
また、この時代のイタリアを取り巻く各国事情は、ミラノ公国、フィレンッエ共和国、ベネチア共和国、教皇庁の国内諸国の確執とそれに北からフランスの脅威があり、それぞれに微妙な均衡を保ちながら「いつかは」と機を狙っていました。
このような状況下で、そのころのフィレンッエの実質的支配者の『ロレンツオ・デ・メディチ』は、フィレンッエにいる芸術家たちを政治に利用しました、『ボッティチエツリ』などお気に入りの芸術家を『ローマ』へ、『ヴェッキオ』らを『ベネチア』へ、そして『レオナルド』をミラノに送りました。

レオナルドもこのような情勢は熟知していましたからミラノに自分を売り込むために軍事顧問たる自薦状を書きました。
この自薦状はミラノ公の叔父である『ロドヴィコ』あてに出されたといいます。
レオナルド30歳にしての転身ですが、たぶんこのころは人生50年時代だったと思うので、半ばすぎての大決断だったと思います、ほかの芸術家のようにすでに幾多の業績を残して他国に迎え入れられるのであればまだしも、芸術家としての領域であれば、絵画ではなく『リラ』という楽器を奏して詩を吟ずる吟遊詩人だあったというのもまた根にか寂しい限りです。
画像たぶんレオナルドも『フィレンツェ』を離れるにあたって市街が一望できるこの丘から街を眺めたと思います。
ところがミラノでレオナルドは思わぬ才能で世界をあっと言わせるのですが、それは次の次ぐらいかな。