あすかの会 3月 兼題「霞 耳」 あすかの会会長 大本 尚
◎ 野木桃花主宰
行くほどに霞濃くなる奥千本 最高得点句
耳つきの白磁の器冴え返る 準高得点句
耳朶のむづ痒くなる霾晦
福耳の人を恋ふなり目借時
◎ 野木主宰特選
秀峰の静かに脱ぎぬ朝霞 尚 最高得点句 武良推奨句
◎ 武良特選
行くほどに霞濃くなる奥千本 野木桃花 最高得点句 大本会長推奨句
◎ 最高得点句
耳成山二山引き連れ遠霞 悦 子 大本会長・武良推奨句
一宿をして夕桜朝桜 さき子 武良推奨句
◎ 準高得点句
耳つきの白磁の器冴え返る 野木桃花 大本会長・武良推奨句
初音かな耳聡くする交差点 玲 子 野木主宰推奨句
人生の集まっている花筵 さき子 武良推奨句
◎ 準々高得点句
空耳か機の音聞く春の宵 尚 武良推奨句
耳鳴りを終の友とし春深む 尚
島々を縫ふ橋々や霞立つ 尚
のつたりと曲がる大川遅日かな 悦 子 武良推奨句
料峭や耳たぶ触る癖またも ひとみ 野木主宰推奨句
仙人の食の好みの花霞 孝 子 武良推奨句
純潔といふ色のあり白木蓮 礼 子 野木主宰推奨句
花吹雪耳から目から風のまま 都 子
《 以下、高得点順 》
春動く大樹に耳を当てたれば 典 子 大本会長推奨句
あたたかや耳石の動く昼さがり みどり 野木主宰・武良推奨句
空耳とおもふ小暗き雛の間 みどり
明け残る川面の霞より小舟 礼 子 野木主宰・大本会長推奨句
大家族十三詣の耳年増 礼 子
踏むまいとすればするほど犬ふぐり さき子
右耳の聞こえあやふし街霞む ひとみ
聴き慣れし踏切の音夕霞 市 子
初蝶の用心深き息遣ひ 悦 子
風の杜総身を耳に初音聞く 市 子
のどけしや両耳立てゝ白うさぎ 英 子
遠く来て納沙布岬霞立つ 典 子
春障子座敷童が耳澄ます 典 子
イアリング跳ねる少女や花の道 玲 子
投句する切手つぎはぎ冴返る 都 子
大胆な剪定ありきあいうえお 孝 子
霞立つ森の緑は色を失せ 都 子
針持てば母のしぐさや春着縫ふ 都 子
夜辺の雨に奔る渓流風光る 悦 子
辿り着く雨の御堂や寝釈迦像 玲 子
病床の足の爪切り春愁 孝 子
学らんに片耳ピアス春の雪 孝 子
植え過ぎて反省しきり木瓜の花 一 青
耳の日と合点す三月三日かな 一 青
丹沢山の山頂遠く霞みけり 一 青
利き耳は右よ左手より春光 一 青
彼岸寺耳撫で拝む撫仏 市 子
薄霞故山は今もわが鑑 市 子
春霞大阪を宙に置き さき子
春霞筧の水の苔に沁み 英 子
小さき息入れられ旅立つしゃぼん玉 英 子
琴の音とまがふ水琴窟うらら 英 子
織部焼ふつくらとして目借時 ひとみ
遠足や耳なしサンドイッチ分け ひとみ
黄砂来る会場変わると立て看板 礼 子
山塊の霞の帯や奥信濃 みどり
春雷やむ薬袋の字の青さ みどり
うららかやハタと翻へ象の耳 典 子
待ちきれぬ若人海へ風光る 悦 子
武良竜彦 ゲスト参加
人は地に花は世に咲け路地すみれ
頴水(えいすい)に耳を洗ひて春に立つ
道祖神霞の衣日がめくる
薔薇の芽が和解を拒む暗き空
◎ あすか塾 71 講和 ◎
宮坂静生句集『鑑真』鑑賞 (本阿弥書店 二〇二四年八月刊)
―― 地貌季語そして時貌語の実存の手応え (抄) 武良竜彦
※全文は「コールサック誌」121号に掲載
『季語体系の背景 地貌季語探訪』(岩波書店二〇一七年刊)の「あとがき」で次のように述べられている。
私は地貌季語が使われる現場に立つ経験を重ねながら、地域限定語はわかりにくく拡がりがないという問題に絶えずぶつかった。そこで納得できたのは、表現の究極の目的は端に広く知られることの普遍性が問題なのではないということである。一つ一つの地貌季語の持つ特異性への理解を深める愛情こそが新しさを見出す表現者の喜びに繋がるということではないか。
第十五回みなづき賞を贈った俳誌「件」(№31 二〇一八年六月号)で、宮坂氏は受賞の言葉として次のように述べている。(「兜太の縁――「みなづき賞へのお礼」)
(略)雪月花とか花鳥諷詠とか有季定型とか文学的に整然と呼ばれる以前、いまだ混沌たる季節感、それが朧気ながら五七五のリズムと結ぶかどうかさえも判然としない。けれども花綵列島の人々が大事にしてきた歓びのリズム、そこに俳句表現の美感の源がある。兜太のいう「あいまいさ」こそ、後に私が「地貌季語」と称して掘り起こしたい根っこであった。
美意識は頭から被せるように与えられるものではない。人々の暮らしの中から押し上げられるように顕ち上るもの。(後略)
高野ムツオ《地貌季語とは何か。四季の農耕生活の中で育まれた各地の季語といった狭い範囲のことではない。もっと広く豊かな世界である。農耕以前の狩猟生活に遡って、古代からの日本人の精神世界すべてを抱合するものだ。さらに現代社会只今の営みによって生まれた言葉も指す。阪神淡路大震災の句に触れながら、「大震災の経験は、体験者だけでなく、日本人に、自然への畏怖と同時に失っていた原始感覚を覚醒させるきっかけを与えてくれたように思う」と当時、すぐさま述べている。地貌季語とは時代とともに進化する世界である。革新精神こそ地貌季語の本質なのだ。》
横澤放川《今度の評論集『季語体系の背景』も、地貌ということばが風土の単なる言い換えではないことを明快に表明している。そのことばの背景と由来がはっきりと読み取れるのである。/昭和二十年代からの社会性俳句論議、それに続く三十年代の造形前衛論議、そうした戦後俳句論との対質なしには地貌という、ある意味では苦慮の末のことばは生まれては来なかったのである。/そういう経緯をはっきり教えてくれているのが、この本の末尾に据えられた金子兜太論だった。/社会性の問題から始まって創る主体の造形論へ、そうしてことばの肉体としての生き物の感覚へと変化をつづけていった兜太の変遷の必然を、この論は短い文章のなかでやはり明快に教えてくれている。風土ということばを嫌った兜太の最後のスローガンともえる存在者ということばの本質を、なによりも分かりやすく教えてくれているのである。/それが同時に地貌ということばの位置づけとなっていることにも思い至るのである。》
横澤氏のこの言葉は、宮坂氏の「地貌季語」を巡る独自の視座の確立は、優れて現代俳句表現論の樹立のための営為であることを、的確に指摘した言葉だと思う。
宮坂氏が提唱する「地貌季語」は、ただの標準的な季語の代替記号論ではない。
わたしたちが生きている実存の響きという、「うた」の根源的な存在意義に関する、一つの表現方法論として理解されるべきものではないか。
その認識は現代俳人に共有されつつある、普遍的な俳句論であると思う。
そのくだりを以下に摘録する。三枝昂之氏がその著書『佐々木信綱と短歌の百年』の中で述べていることに関連しての言葉である。
句集『鑑真』鑑賞 宮坂静生 第十一句集
Ⅰ 能登
祖霊守る間垣ぐらしの暮れかぬる
夏の日に骸(むくろ)のごとし塩づくり
天へのぼる梯子があらず秋出水
冷まじや家の中まで千曲川
目鼻なき泥に嵌められ林檎園
神鏡も梟の巣も流されし
Ⅱ 松代地下壕
精霊ばつた碿山(ずりやま)に血のにほひ
碿山(ずりやま)を恋しと去らず禰宜(おかんぬし)
なんといふ昏さ国体護持と蟬
蟭螟(しょうめい)や大本営の跡はここ
「碿山(ずりやま)」は掘り出された岩石片という注記がある。「禰宜(おかんぬし)」は「きちきちばつた」の俗称という注記がある。「蟭螟(しょうめい)」は蚊のまつげに巣くうという、想像上の微小な虫。転じて、ごく小さなもののこととも。
御座所とはかくや天鵞絨毛蕊花(びろーどもうずいか)
魘(うなさ)さるゝ寒暑百夜の碿搬び
短夜の発破轟音死にとうて
牛屠り高粱飯をしのぎきし
Ⅲ 静かな大地(アイヌモシリ)再訪
靺鞨へ白鳥の発つ虚空かな
静かな大地(アイヌモシリ)魂より著き雪解星
アイヌ葱青人(あおひと)草(くさ)はかなしき語
蛇シューシュー鴉ホワホワ神謡(かみうたい)
ユーカラの知里喜恵(ちりゆきえ)よ火の神忌
悼・色川大吉
牛蒡掘り読みつぐ『明治精神史』
「MINAMATA」のエンドロールの氷雨かな
逝きし子の柱の中にゐる小春
Ⅳ 鑑真
東征伝絵巻読初め読納め
初明り鑑真和上まのあたり
わが死後の南無毘廬舎那仏(なむびるしゃなぶつ)善知鳥(うとう)啼く
坊津秋妻屋浦(あきめやうら)
二月風廻(にんがちかじまーい)鑑真の漂着し
慟哭に涙はいらず浜万年青(はまおもと)
坊津(ぼうのつ)秋妻屋浦は鹿児島県南さつま市にある。旧薩摩国河辺郡秋目郷秋目村。天平勝宝五年(七五三年)に唐からの渡海に際し、鑑真が日本本土に初めて漂着した地とされる。この句は現地の地貌季語の「二月風」を使って、その東征の苦難を忍ぶ表現である。
Ⅴ 大江健三郎追想
悼・黒田杏子
兜太嵐龍太花冷え杏子の死
黄泉からの電話来るはず花巡礼
筑豊のセツルメントが花のとき
バードウィーク大江光の鳥の曲
尾崎真理子『大江健三郎の「義」』
ギー兄さんは柳田國男父の日よ
蜃楼(かいやぐら)わが青春の大江ゐる
句碑建立(五月二十一日)
句碑は鯨潮吹きあぐる新樹海
碑に小鳥のいのち借り申す
自祝「岳」半世紀へ
六月の梢を仰ぎて桐の花
戦争が立たぬ縁側ぬくしとよ