あすか塾 70
《野木メソッド》による鑑賞・批評
「ドッキリ(感性)」=感動の中心
「ハッキリ(知性)」=独自の視点
「スッキリ(悟性)」=普遍的な感慨へ
◎ 野木桃花主宰 二月号「枇杷の花」
日を紡ぎつむぎ膨らむ冬木の芽
「紡ぎつむぎ」のリフレーンに春到来の予感と期待感の籠ったリズムを感じる表現ですね。
地のいろとなる冬耕の暮れ残る
日差しの中の、冬耕の土の色にあった輝きが、日暮れとなって落ち着いた「地のいろ」に戻ってゆくという、時間の推移の表現がいいですね。
寒鯉の影追ふやうに水動く
大きな鯉がゆったりと泳いでいるさまが見えますね。「影追やふうに」という表現が光っていますね。
花舗ばかり覗く二人に日脚伸ぶ
どんな二人連れなのか想像させられます。恋人同士、熟年の夫婦、姉妹、親友で景が違って見えますから楽しいですね。
白湯含み今日をつましく枇杷の花
健康な人でも「白湯」を飲む習慣をつけることが勧められています。そんなことをきちんと守って生活している生き方まで感じられる表現ですね。
◎ 感銘秀句 「風韻集」2月号から
点々と庭の露草朝まだ来 磯部のり子
「朝まだ来」は大和言葉で、未だ夜が明けきっていない時のことで、上五に「点々と」を置いた表現がいいですね。
鉄塔が校歌となりて秋高し 大木典子
校歌の作詞はその地の象徴的な風物が詠い込まれていることが多いですね。この句の「鉄塔」は河川沿い、小高い峯沿いに設置されている景が浮かびますね。近代化の象徴のように、町の誇りにもなっているような立派な鉄塔のようですね。
穭田の短き命賢治の忌 大澤游子
穭田の穂は実をつけることはないですね。賢治文学は生前にはあまり世に知られず評価もされない状態だったのを、弟の清六氏たちの努力によって、後に名作の評価が定まりました。そのことに思いを寄せた表現ですね。
そよぐもの無きも安らぎ大枯木 大本 尚
枯木は俳句などでは通常、うら寂しさや冬に向かう厳しさが詠われる傾向がありますが、この句は逆に、そこに「安らぎ」を見出しているという独創的な視座の表現ですね。背景に深い仏教観を感じますね。
子沢山母の鮟鱇吊るし切り 風見 照夫
鮟鱇の吊るし切りは、大変な体力が要るさばき方ですね。それを豪快にこなしている景が浮かびます。上五の「子沢山」が効いていますね。
雲の翳走り枯野の動き出す 金井 玲子
枯野原の上を雲の翳が、上空の雲の動きと同時に流れていっている、大きな景ですね。それを枯野全体の動きのように表現して、ダイナミックですね。
野面積み穴太の剛力天高し 近藤 悦子
「穴太(あのう)」、歴史的仮名遣での読み仮名は「あなふ」。穴太衆(あのうしゅう)は、安土桃山時代に活躍した石工の集団ですね。主に寺院や城郭などの石垣施工を行った技術者集団で、石工衆、石垣職人ともいいます。「剛力」は歩荷(ぼっか)や登山案内を生業とする日本古来の運送業者で「強力」とも書きます。この句では石垣を見揚げての句ですね。
各駅の秋を乗せたり小海線 坂本美千子
「小海線(こうみせん)」は、山梨県北杜市の小淵沢駅から長野県小諸市の小諸駅までを結ぶ鉄道路線で、南側区間は八ヶ岳の東南麓を走り、全線は「八ヶ岳高原線」の愛称で親しまれていますね。中七の「秋を乗せたり」が高原らしい表現ですね。
玄関に来し蟷螂も一過客 鴫原さき子
「過客」は芭蕉の「おくの細道」でも使われていることばで、時の旅人のことですね。この句は実際には玄関に偶然、蟷螂が迷い込んできていた景だと思いますが、それを生きもの目線で詩情豊かに表現した句ですね。
此処までと津波碑小さき新松子 摂待信子
歴史的に津波被害が繰り返された地には、平地より少し高い位置に、津波の到達地点を示す石碑が建てられていて、後世の人たちに注意を促していることが多いですね。「新松子」の季節に、作者はそのことを改めて噛みしめているようです。
筑波路は秋色早し息子を見舞う 高橋光友
いつも目にしている「筑波路」がどこよりも早く秋色に染まり始めているようです。それを「秋色早し」と詩的に表現して、具合を悪くされているご子息の見舞いの景に詠みましたね。
茶の花やつましき寡婦の暮らしむき 高橋みどり
地味だけど可愛らしく趣のある茶の花で、「寡婦」の暮らしぶりを簡潔に詩的に表現して味わいがありますね。
黒い雲光踊るや初しぐれ 服部一燈子
空一面の黒雲に光が踊るように走っている、という景。稲光でしょうか。その不気味さを巧に表現した句ですね。しかもそれが「初しぐれ」だった、というのですね。
籾袋積み込む蔵や窓一つ 宮坂市子
収穫して詰めた籾袋を積みあげて保管する、厚い漆喰壁の倉の、高い位置にぽつんと小さな窓が一つだけある景を視たことがあります。中のひんやりとした空気感も伝わりますね。
冬あたたか転校生の国訛 村田ひとみ
クラスに転校生がやってきた時の記憶を詠んだ句でしょう。違う地方から転校してきたようで、そのお国訛の言葉遣いに、冬日のような温かさが感じられたのでしょうか。
柿の実の色となりたる村ひとつ 柳沢初子
素朴な文化を守っている過疎の村の雰囲気を感じる句ですね。初子さんの今月の句は、他に「萩ゆれて風の噂を聞き流す」「朝毎に雨の一刷毛もみづれる」「ねこじやらし千の穂先の陽に遊ぶ」と秀句揃いでした。
馬手に筆弓手に酸素日向ぼこ 矢野忠男
侍の馬上姿の「馬手」「弓手」という言葉を使い、酸素マスクをして日向ぼこをしながら短冊に筆文字で作句をしているのでしょうか。その心意気が伝わります。
曼珠沙華ときを逃さず咲いて消ゆ 山尾かづひろ
植物の自然に身をゆだねている姿に、ある種の清々しさを感じている表現ですね。自分もあれこれ悩んだりせずにそんな心境でいたいという思いの表現でしょうか。
庭去らぬ冬蝶吾子の化身とも 吉野糸子
子に先立たれた親の心境を詠んだ表現のようですね。その思慕の深さが伝わります。
歯ブラシに噛み跡しるき寒さかな 安齋文則
東北の身震いするような寒気を具象的に描き出した表現で、訴求力がある句ですね。
◎共感好句 「あすか集」2月号から
初針や背守りの赤き糸を張る 須賀美代子
「背守り(せまもり)」は子供の着物の背中に縫い付けるお守りのことですね。着物を作る時には左右の身頃となる布を縫い合わせるために、背骨に沿って「背縫い」という縫い目ができます。
昔の人は「目」には魔除けの力があると信じており、背縫いの「縫い目」にも背後から忍び寄る魔を防ぐ力があると考えていました。ところが、赤ちゃんが着る着物はとても小さく背縫いがありません。そこでお母さんたちは、子供に魔が寄り付かないように背縫いの代わりとなる魔除けのお守りを付けました。それが「背守り」ですね。この句ではその「お守り」が「赤き糸」なのですね。親の愛が籠っている赤ですね。
秋草の種を土産に山下る 須貝一青
秋の野山への散策の帰りに、記念のお土産として「秋草の種」を摘んで来たのですね。自宅の庭に植えて、来年を待つという言外の時間を詠みこんだ表現ですね。
小春日や壁に凭れてズボン穿く 鈴木 稔
足腰が弱ると片足立ちのとき、よろけてしまいます。だからズボンを立って穿くことが困難になり、壁などに凭れて穿いているのでしょう。上五の「小春日や」のせいで、それを嘆くでもなく、ゆったりと淡々とこなしている表現になっているのがいいですね。
妙義山奇岩彩る冬紅葉 砂川ハルエ
「妙義山」は群馬県甘楽郡下仁田町・富岡市・安中市の境界に位置する日本三大奇景の一つとされる山ですね。奇岩がいたるところに見られる妙義山の中でも中之嶽の景色は、中腹を巡る第一石門から第四石門を始め、ロウソク岩・大砲岩・筆頭岩・ユルギ岩・虚無僧岩といったユニークな名前の岩石群があり、日本屈指の山岳美と讃えられています。その奇岩と紅葉の競演は見ものですね。
冬天へメタセコイヤの温き色 関澤満喜枝
「メタセコイヤ」の葉は短枝に羽状に対生し、秋に紅葉して枝とともに落ちます。公園や並木などに植えられています。大きなものは高さ五十メートルにもなります。幹の樹皮が若木のときは赤褐色、成木では灰褐色になり、縦に細長く剥がれ落ちます。この句はその赤褐色を「温き色」と表現したのですね。青い冬空との対比が鮮やかですね。
選に漏れし句の音律や風の秋 高野静子
屋外を散策しながら、頭の中で句の推敲をしているような表現ですね。選に漏れたから駄句というわけではなく、自分では気に入っていた句があったのでしょう。その韻律のいい句を秋の風の中で味わっているのでしょうか。
一隅に無口決めこむ石蕗の花 高橋富佐子
石蕗の花はものいわぬ植物ですが、そこに無口な自分の思いを投影した表現ですね。石蕗の咲き方は、路傍や庭の角に孤立しているようにぽつんと咲いていて、びったりの表現ですね。
りんご捥ぐ実習ありし頃思ふ 滝浦幹一
実習で林檎園での林檎の収穫があったようですが、青森県ならそんなことが普通校でもありそうですね。何か楽し気な雰囲気で郷愁を誘います。
カピバラになつたつもりの柚子湯かな 立澤 楓
鑑賞文など無用で、読者の実感的な共感を誘う、ユーモラスな句ですね。
迷いなく手の平サイズの手帳買う 千田アヤメ
「日記買ふ」という季語はありますが、「手帳買ふ」という季語はありません。ここは手帳を日記に替えて鑑賞しました。手の平サイズの手帳を兼ねた日記を買ったのでしょうか。上五の「迷いなく」とこのサイズ感に詩情がありますね。
和菓子屋に花鉢並ぶ冬日和 坪井久美子
店先に何もないよりも、手入れの行き届いた花鉢が飾られていると気持ちがよく、売られている和菓子まで美味しく感じられるでしょうね。
団栗を星座のように並べあり 中坪さち子
星座だとわかる形に団栗が並んでいたのを発見して、少し驚き、微笑んでしまったのでしょう。十字や四角や三角では星座とは分かりにくいですから、北斗七星かオリオンの形くらいには整っている置き方だったのでしょうね。まさに地上の星ですね。
空澄めり警策の音迫り来る 中村 立
禅寺に参拝して座禅の体験をしたときの句でしょうか。「警策」は坐禅の際に修行者の肩に打ちつけて、注意を与えたり眠気を払ったりするために用いられる法具で、曹洞宗では呉音で「きょうさく」、臨済宗などでは漢音で「けいさく」と読みます。この句ではその音が自分の位置まなどってきていることを意識している表現ですね。「上五」の「空澄めり」。そんな澄み切った境地になりたかったのですね。
柿紅葉誰れが名づけし鴉山 成田眞啓
「鴉山」という名の山は全国にいくつかありますが、関東圏では川越の鴉山でしょうか。鴉山稲荷神社は、太田道真が河越城築城に際して当地を伐採したところ小祠・及び源氏の祈願文を発掘したことから社殿を建立、鴉が群棲していたことにより鴉山稲荷神社と称されるようになったと言われ、境内が広いので川越七社の第一位とされているそうです。この句はその名の由来に思いを馳せているようです。紅葉の季節に登山されたのでしょうか。
先生を借りて走るや運動会 西島しず子
運動会の徒競走の種目に「借り物競争」というのがありましたが、今も行われているのでしょうか。「先生を借りて」はその「借りて」ですね。楽し気な雰囲気が伝わります。
絵馬殿の歴史の重み冬日さす 乗松トシ子
神社・寺院で奉納された絵馬を掲げておく堂を絵馬殿、額堂といいますね。それがあるのは大きくて歴史のある神社で、古いものが遺されていて趣がありますね。この句はどこの神社でしょうか。
冬の蜘蛛時計の隙間に迷い込み 浜野 杏
蜘蛛自身は自分が隠れたのが時を測る機械だとは思っていないでしょうね。まるで時間の迷路に迷い込んだ自分の気持ちの暗喩ともとれる表現になっていますね。
見るべきものまだ見ぬうちに年始め 林 和子
初日の出を見逃した、という表現かなと解しました。元旦は年末の慌ただしさの余韻があって、あっという間に時が過ぎる実感が籠っている句ですね。
いつの間に炬燵の上の物あまた 平野信士
解ります。いつの間にか、ですね。普通は果物やお菓子の入った籠、テレビのリモコン。高齢者なら老眼鏡など。新聞、チラシ、ティッシュペーパー、炬燵に入ったまま何か作業をしてその道具が置きっぱなしされている…そんな景ですね。
ガス灯は明治そのまま秋深む 曲尾初生
横浜や神戸など、明治時代に港町として開かれた街には、今も残っているのを見かけますね。ただしそれはお洒落にデザイン化され、ガスではなくLEDランプに変わっていますが。
虫たちも塒に帰る枯野かな 幕田涼代
これは実景ようで、実は心象景の句ですね。虫は遠目に視えませんから、塒に帰る姿は、作者の心の中によぎった景ですね。小さな生き物に寄せる作者の優しい眼差しを感じますね。
どんぐりを拾ひて捨てて散歩道 増田綾子
これは誰もが経験のある、共感される句ではないでしょうか。無意識にどんぐりを拾ってしまうのは、子供時代、大好きな遊具だった記憶のせいでしょうか。
サンタにも廻る順番寝落ちの児 水村礼子
サンタさんが来るのを今年は見るんだと、頑張って起きていた子が寝てしまったのでしょう。親の立場からは自分がサンタなのですが、心の中での子供との会話「サンタさんにも廻る順番があるからねー」を独り想像しているような表現で楽しいですね。
船漕ぐも笑いの渦も冬の寄席 三橋光枝
寄席の笑いに満ちた温かい雰囲気が伝わる句ですね。高名な落語家が高座の最中に居眠りをするという珍事が起きたとき、お客が「いいから、少し寝かしとしてやんな」と言ったという逸話もあるほどですね。
こりもなく三年日記九冊目 緑川みどり
合計二十七年も三年連用日記帳を使っているのですね。それを「こりもなく」という心情吐露で詠んだのは、もうその習慣がすっかり身についていることの自己確認ですね。継続は力なり、です。きっと何かプラスになっているはずです。
声出して語り合ひたし冬鷗 望月都子
鷗はあまり声も出さないで、水面に浮かんでいるように見えます。集団性を持つ鳥なのに、仲間同士の親密性など感じませんね。その姿に自分の気持ちを投影した表現ですね。
瓦礫とて聖樹を飾る紛争地 保田 栄
ウクライナか、ガザ地区か、あるいはその他の数多の紛争地のテレビ報道を見ての感慨でしょうか。瓦礫と煌びやかな粉飾ツリーが対照的で、よけい無惨さが際立ちますね。
入院の日々の空白日記果つ 矢吹澄子
入院中は、習慣になっていた日記をつけることもままならないことが多いですね。かといって、退院後、思い出してその空白を埋める気にもなりませんよね。そして年末に……。
箸使い見事に秋刀魚食す人 吉田 史
幼いころから食事のマナーや作法を習って、きちんとそれを身に付けている人を見たのですね。佇まいまで美しく見えますね。
風やみて片削ぎの月かかる村 安蔵けい子
中七の「片削ぎの月」という表現には初めて出会いました。冬空の荒れた感じに相応しい、見事な表現ですね。
干柿を食めばつくづく汚染郷 内城邦彦
熟したまま落ちてしまう柿、放射線汚染で村ごと帰還のできない里のことを思っての句ですね。自分はこうしてちゃんと干柿になったものを食べているのに、という感慨ですね。
雪載せて貨車百両の通り過ぐ 大谷 巌
貨物専用列車は全国各地に散在するようです。この句は寒い地域の景ですね。こう表現しただけで、その寒気まで伝わりますね。
日を溜めて刻惜しむがに帰り花 大竹久子
帰り花には二種類あって、気候の乱れで偶然咲いたものと、品種で違う季節に二度咲きするものがあります。この句はどちらでしょう。上五中七の表現に詩情がありますね。
鉢の土干して片付け冬隣 柏木喜代子
一つの季節の役目を終えた鉢の土を、天日に干して殺菌する作業を冬になる前にしているのですね。よく民家の庭先で植物が枯れっぱなしになっていて、土も干乾びるにまかせている、だらしない景を見かけますが、みなさん、この柏木さんを見習って欲しいものですね。
煤払ひ友の遺せし絵にサイン 金子きよ
友人が描いた絵が部屋に飾ってあるようです。普段はそのサインまで気にかけていないのに、煤払いの季節にハタキがけをする時に、そこに目がゆき、その筆跡にそのことが思い出されているのですね。そこを切りとった表現が効果的ですね。
不喰芋描く画伯や冬に入る 神尾優子
「不喰芋(くわずいも)」と「蘇鐵(そてつ)」は、画家・田中一村の晩年の傑作で、生涯の集大成とも言える一枚ですね。「アダンの海辺」と合わせて畢生の「大作二枚」の一つに数えられます。奄美大島移住後に創作の柱となった自然信仰が画面の中に凝縮されていますね。優子さんはもう一句〈回顧展「蘇鐵とアダン」と対峙の冬〉とも詠まれています。
葉牡丹の深き懐ひかり満つ 木佐美照子
葉牡丹は中心部に向かって色がグラデーションになって、その色合いに深さを感じるものがありますね。中七下五の表現に詩情がありますね。
備はりし知恵をつくして渡り鳥 城戸妙子
普通「本能だよ」とか言ってしまうところを、上五中七のように表現して、味わいがありますね。作者の思い入れも伝わります。
ズンバダンス派手なもの着てクリスマス 久住よね子
「ズンバ」という言葉に特定の意味はなく、ブランド名として名付けられたものですね。ダンサー兼、振付師であるアルベルト・ベト・ペレスによって創作されたフィットネス・プログラムで、世界的に有名なエクササイズですね。色々なリズムの音楽が融合した楽しいダンスです。それをクリスマスにみんなで踊っている陽気な景が浮かびます。
初雪と単身赴任の息子より 紺野英子
俳句的な省略法を利かせた表現がいいですね。ご子息の手紙、声か、今時のメールでの便りでしょう。母子の暖かい普段からの交流のさままで想像されますね。
沢渡の翁独りで茸売る 齋藤保子
「沢渡(さわんど)」は中部山岳国立公園の裾野に位置していて、上高地に向かう拠点となっています。現在沢渡温泉として知られているエリアは、かつて日本各地と鎌倉を結ぶ旧街道の宿場町でした。沢渡という地名は、飛騨と信州を結ぶ中継地点であったことから「沢を渡る」場所とされたことに由来します。この句は高齢の翁が独りでその山で採れた茸を売っている様子に歴史的な、詩情を感じたようですね。
白足袋の一日の疲れはたきけり 笹原孝子
足袋姿ですから、普段から和服で過ごしていらっしゃるのか、改まった和装で外出されての帰宅後の景ですね。その仕草で意志的に疲れを吹き飛ばしているようで、爽快ですね。
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