曾祖母のトキさんは川沿いの道の大きめの家に一人で住んでいた。もちろん、もうお婆さんだった。
家の入り口は広い土間になっていて涼しかった。
二階に上がるには、部屋の天井をあけて階段を掛けたような簡単なものを使っていた。
私たちが行くのは夏休みなので、従兄弟たちも来て一緒に川遊びしたこともある。
普段男の子と遊んだことはなかったし、あまり話もできなかった。そういう時話をするのは姉たちだった。
彼らは素手で川の端の茂みに隠れている魚を取っていて、驚いた。
その川でシジミを取ってきて、佃煮にしてもらった事もある。私は食べた記憶はないけど。
祖母のコトさんはそこから少し山に登った所の小さめな家に住んでいた。こちらももうお婆さんだった。
その家に父の弟とそのお嫁さんと三人で住んでいた。
叔父は働いていなかった。身体が弱くて働けなかったそうだ。
父はその叔父の性格を褒めていた。叔父を悪く言ったことはなかった。
だから、従兄弟がその叔父のことを「働かないで世話になって、」と言ったときにはびっくりした。
叔父はまだその家で夫婦でお暮らしだ。
コトさんには、母が現金封筒で毎月お金を送っていた。添える手紙を書くのに何回も便箋を書き直していた。
子供たちに食べさせるお金もない時に送ってくれと言われた時には辛かったと、母はしょっちゅう言っていた。
母はそういうことが忘れられないたちだった。
どんな時でも、人には「ウチにはお金はありません」と言わなかったらしい。
父には、その叔父の下にもうひとり弟が居たが三十歳ほどで亡くなっている。
私の次姉が小学校の二年生の時、その叔父の葬式に出たと言っていた。
葬式で後ろから押されて棺に入りそうになって怖かったと言っていた。
その頃次姉は、まだ一歳になるかならないかの弟と一緒に、家から遠く離れた母の姉のところに一年間預けられていた。
コトさんの兄で、武者小路実篤の新しき村に参加していた方がいる。その方の書いた本が一冊家にある。
墓に、武者小路実篤が「天上に憩いあり」と書いてくれたのが彫ってあると、父が嬉しそうに何度も言っていた。
この方も身体が弱くて、皆で支えていたらしい。
コトさんも父も和歌を書いていた。それとも和歌は書くのでなく詠むのかな。
そういえば後年もずっとお世話になった日本画の主任教授もよくなさっていた。
コトさんの従姉妹の子供が世界的に有名な数学者だ。
私は写真のお顔しか知らない。その写真では、精悍な、でも優しそうな目をなさっている
その方がアメリカから故郷にお帰りだった時に集まりがあって、たくさんの親戚が揃ったと、叔父から聞いた。
そしてアメリカから毎月お母様宛に送金なさっていて、その毎月のお金を二回に分けてお母様に渡す役を、父の長姉が誰かとふたりでしていたと聞いた。
一度に渡してしまうとお母様が全部すぐ使ってしまうからだったと、その長姉の長男である私の従兄弟から聞いた。
その従兄弟の父もその方と親戚であったというのだから、親戚同士の結婚が多かったのだろうと思う。
母は父方のそういう話を、何故かとても嫌がっていた。
母の前では出来ない話だった。
父の長姉はトキさんの養女になり、養子を迎えてトキさんの家を継いでいた。
墓は私と同い年の従兄弟が継いでいる。
お寺の一丁目一番地にある(従兄弟はそう表現していた)お墓の管理は大変だと言っていた。
いつもきれいにしておかないといけないからと。
お墓にニ年前に父の法事で行った時に案内してもらった。広い敷地に石を張り、土足が憚られるほどきれいになさっていた。
お墓は二基あって、一つはトキさんのもの。一つは日露戦争で亡くなった旦那様のものだった。
旦那様のお墓は、大きくて立派だ。自分たちで建てたのではなく、建ててもらったものだとその時聞いた。
勝った戦争はやっぱり違うと思った。
トキさんの家は貸家にしていたが、ちょうど出て行ったばかりで借り手を探していると聞いたので、中を見せてもらいたかったのだが、叶わなかった。
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