娘が小学1年生の時に私は実家に戻った。娘はこちらの学校に転校した。
有難いことに担任の先生がとても良く出来た方で、クラスの皆と溶け込めるようあれこれと配慮してくださった。
うまく馴染んでくれてよかったと思っていたら5年生になってクラス替えがあり、しばらくして学校に行けなくなった。
私が何度も学校に行ってカウンセラーと相談したが効果はなかった。
勉強は家でしていたが、このままではいけないと私も娘も思っていた。
ある日娘は、小さい頃からの友人たちの居る以前の学校に戻ると決めた。
でもそれは私から離れて娘の父親と一緒に住むという事だった。
以前通っていたのは落ち着いた伝統のある学校で、生徒数も少なく家庭的なところだった。
家族ぐるみで仲良くしていただいていた友人たちのおかげもあり、娘はまた学校に通えるようになった。
そしてその友人たちと揃って近くの中学校に進学し、吹奏楽部に入って頑張っていた。
演奏会の折に何度か顔を見に行ったが、私に会っても別に喜ぶふうではなかった。
娘が中学3年生になった秋のことだった。
ある朝娘から携帯に電話があり「今日学校が終わったらそっちへ行ってもいい?」と尋ねられた。
その日は火曜か水曜日だったが、土日に来て泊まっていったばかりだったので「また金曜日に来たら?」と私は言って電話を終わらせた。
娘は反論しなかった。
そのままにしなくて良かったと、今まで何度も思った。本当に良かったと思う。
やはり気になり、しばらくして私は学校に電話した。
担任の先生に、娘に今日こちらに来るように伝えてくれと頼んだ。
今思うと担任の先生にもっともっとお礼を言わなければいけなかった。
担任の先生がちゃんと娘に伝えてくださったお蔭で、娘はその日こちらに来ることが出来たのだ。
その日暗くなってこちらに着いた娘はひどく憔悴していた。
そして「もうあちらの家には戻らない」と言った。父親には書き置きしてきたと言っていた。
驚いたことに娘は健康保険に入っていなかった。
すぐに住民票を移して保険に入る手続きをし、学校に越境で通学できるようお願いしに行った。
校長先生にお会いしたのはその時がはじめてだった。大柄な女性の校長先生だった。
担任の先生も同席されて3人で話した。
小学校で学校に行けなくなってこちらに娘だけ戻ったことなどの事情を校長先生に話すと、越境で通うことを許された。
それから娘は良く頑張ったと思う。片道2時間近くの通学を休む事なく卒業式まで続けた。
この四月に娘は公務員になり官舎を借りた。女性の一人暮らしは危ないよと言っても聞かなかった。
訊くと自分の城が、自分だけの部屋が嬉しいのだと言う。
「ここの家はお母さんの実家だけど、自分の実家じゃなかった。自分の実家は、元いたあの家だった。でもね、」と言う。
「足を伸ばして売られた家のところまで行ったら、住んでいた頃より素敵な家に変わっていたの。
二階のベランダには黒い細い金属の手すりが付いていて、可愛いガラスの入った高めの塀に囲まれていたの」と嬉しそうに言う。
もともと、その家に塀は作らなかった。というか、塀まで作る余裕がなくて手作りの低い木の柵を設けていた。
二階のベランダは、木の板で隙間の無いように囲いを作ってあったのだが、台風で囲い全てが一度に落ちてしまったと聞いた。落ちて夜中に大きな音を立てたと聞いた。
私が工務店に電話したらすぐに直すと言う返事だったが、別れた主人は長男が言っても何も聞き入れず、そのままになっていた。
「素敵に変わっていたからあの家を諦められた。前よりも素敵じゃなかったら、きっと諦められなかった」と娘は言う。
だからあの家を諦めた今では、あの家ではなくて、この私の実家が娘の実家なのだそうだ。
玄関で「ただいま!」と大きな声で言ったのは、そういう気持ちからなんだろう。きっと。
ところで人手に渡った家を見に行ったと娘から聞いて1年以上は経っている。そういうことを納得するまでの時間が必要だったのだろうか。
私もその家と土地が好きだった。実家に戻ると決めた時には、その家と土地から離れるのが辛くて泣いた。いつかまたその家で暮らせることを願っていた。
でも、人手に渡って良かったのだ、家にとっても私にとっても。と今は思う。
これから娘は仕事の関係で何ヶ月か寮に入るのだという。
他人と一緒の部屋で過ごすことに少し不安があると言っていたが、借りている部屋のことがいちばん気になるようだ。
「外泊できないから次に会えるのはお盆になるかな、休みには部屋を掃除しに行きたいし」と言ってから出勤した。
明るい顔を見ていると嬉しくなる。
良かった。
(絵は、娘が5歳くらいの時に描いた日本画です。デジタルで少し手を加えました)