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身体との対話

2014-03-24 08:17:42 | 日記・エッセイ・コラム

”つべこべ言わず”、”有無を言わさず”、”とにかくやる”

--何事にも理論、理屈を求める自分にとって、”黙々と頑張る”というのはかなり苦手です。

それなのに、加圧トレーニングでは、なんとか頑張ることができているのはなぜでしょうか?

ひとつ考えられるのは、苦痛の時間が非常に短いということ。

わずか20分で終わることがわかっているから、どれだけしんどくても、がんばれる。

ふたつめに考えられるのは、わずか20分でも、鍛えた部分がパンパンに膨れ上がり、効果が実感できるから。”効果を積み上げている”実感があるから、インストラクターの指導を信頼できるし、寡黙に取り組めるのでしょう。

加圧トレーニングでは、体を痛いくらいに締め付けながら、ハードなトレーニングを行います。これは一種、体へのストレスと考えられます。しかし、そのストレスを乗り越えると、ワンランク自分の身体レベルが上がったような感じがして、それがまたうれしいのです。ストレスを楽しむという境地は、仕事にも応用したいです!

こうしたことに加えて、インストラクターがときどき提供してくれるプチアドバイスもポイントが高いです。理屈で納得したい自分は、トレーニングの効能をきちんと言葉で説明してもらうと、それだけ身体に”効果を暗示”できそうな気がするのです。一度理屈で納得できると、あとは無駄なあがきをすることなく、黙々とトレーニングに打ち込めるようです。

ところで、最近は、加圧トレーニングのエッセンスが、日常化してきています。トレーナーから教わったドローインという方法を、歩いているとき、立っているとき、常に実行するようになりました。昨年までは、”ジムにいるとき以外は、一切トレーニングはしない”というポリシー(?)だったのですが、インストラクターから、無理なくできるトレーニング法を教わってから、トレーニングが日常生活にもいよいよ入り込んできました。

ということで、身体レベルでのトレーニングは、日常生活レベルに入り込んできたので、ここから先は、特に意識しなくても、継続していく自分が容易に想像できます。

さて、次の課題は、この”定着感”を、語学(中国語・韓国語)にどうつなげていくか?自分の中のどこかに語学スイッチがきっとあるはずです・・・・


加齢願望

2014-03-22 09:33:54 | 日記・エッセイ・コラム

人生、半世紀を迎えるに当たり、振り返ってみますと、

今の自分って、若いころに描いていたイメージトレーニングの積み重ねでできているような気がします。ある部分、20代のころに目指していた中年オヤジ像に、今の自分はかなり近い。

テレビドラマなどで、”ああ、この役者さん、やっと自分が望んできた年代に入ったんだろうなぁ。この役者さんにとっては、若かった頃より、今の年齢の方が本望なんだろうな”って感じることがあります。自分も今、そんな心境です。まだ49歳なのですが、周囲の人たちには、すでに50歳と名乗っています。

どうして、そんなに加齢願望があるかというと、若い人ならではの一種自己顕示欲をどんどんそぎ落としたい気持ちが関係しているように思います。自分の有能さ、社会的成功の度合いを、これでもか、これでもか、と周囲、世間にアピールしたい気持ちが、どうも自分は生理的に受け付けない。若い人がそうであることは片目をつぶれるのですが、自分と同年代あるいは年配者にそうした傾向を見てしまうと、なんとも苦しい気持ちになってしまう・・・・

年を重ねるということは、そのような、”俺が、俺が、私が、私が”というステージを卒業し、世界平和や、地球環境を守ることを大真面目に考えられるステージに移るということでもあります。恐らく自分の人生の期限が見えてくるため、自分自身の成功だの名声にこだわることに興味がなくなり、自分の死後、この国、この地球がどれくらい持続できるか?ということに関心が移ってくるからなのでしょうね。

”もう自分は、十分地球資源の恩恵を受けてきた。次の世代、それ以降の世代も、地球で幸せに生きていけるように、私たちは、後の世代のために、地球資源の消費についていよいよ節度を以て向き合うステージに来た(というか、遅すぎるかもしれないけど)”

そんなことがぼちぼち頭をよぎります。

もちろん、目の前の商いをしっかりやりながら、国規模、世界規模、地球規模、宇宙規模のライフワーク見つけていきたいです。


言葉1割・行動9割

2014-03-05 12:29:03 | 日記・エッセイ・コラム

言葉の無力さを実感中です。

これからも、”言葉”のエキスパートを目指すのであれば、

言葉の力と同様に、言葉の無力さも知っておくべきです。

積み上げてきた言葉の重みが、

積み上げてきた知の牙城が、

己の軽はずみな行動で、一瞬にして無価値に変わるときがあります。

人の真価とは、言葉の巧みさでもないし、知識の多さでもない、

仕事ができるとか、戦略的思考ができる、という能力的なことでもない。

人の真価、それは行動に尽きるのだと思います。

言葉の力でキャリアを形成してきた自分が、

今度は、言葉を抑制し、ひたすら行動で、新たな世界を切り開いていきたい。

何をどうがんばるのか、それすらも言葉にしてしまったらむなしい。

誰に宣言するでもなく、ただひとり、自分自身に、言葉の力の限界を戒め、

行動する人を貫きます。

読書中心の思索生活を描いていましたが、

まだまだ行動のステージをまっとうしていない自分がわかりました。

動き回ることで、僕は乗り越えたい!

綺麗な言葉に弱い自分、

知識武装された知的な言葉に弱い自分、

論理的思考、戦略的思考の匂いのする、洗練された言葉にも弱い自分。

しかし、50歳を目の前に、もうそろそろ、言葉の外見至上主義を卒業しようと思います。

長年の講師業で多少は身についた言葉を操作する力。

それを過信もせず、過小評価もせず、言葉とニュートラルな関係を保ちつつ、

自分の毎日の行動、ひとつひとつ、しっかり積み重ねていきます。