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本を捨てる

2013-03-31 06:19:00 | 日記・エッセイ・コラム

いよいよ、その日が来ました。

自分の仕事、自分の人生に欠かせない本。

そんな大切な本たちではありますが、

私にとって本の歴史は、本の置き場の問題でもありました。

そもそも、引っ越しも、本の置き場確保のためでした。

本のためにいくらスペースを作っても、すぐに本だらけの生活に戻ってしまう・・・

人生は、常に、実質とカタチの問題がつきまといます。

たとえばスポーツジム。

一番大切なことは、そこで肉体を鍛えるということ。

ジム通いはそれを実現する手段に過ぎない。

でも、いつの間にか、ジムの会員であるという”所有性・所属性”に

何か意味やら価値があるように思えてくる。

そんな本末転倒状態を手放すため、ジム通いをやめ、自宅トレーニングに切り替えました。

”所有性・所属性”という空虚な満足を手放した変わり、

”実質的時間”が倍増しました。

本も、読書の純粋な喜びとは別に、”これだけ本を持っている”という”所有性満足”があるのかもしれません。

でも、これも自分の内的充実とはまったく関係のないこと。

大切なことは、本に囲まれて生活することではなく、それらの本のエッセンスをどれだけ自分のキャリアや人生に活かしているか?ということ。

そろそろ、むなしい”所有性・所属性”の満足と決別する時期なのかもしれません。

”本に囲まれた自分”から、

”すっきりとした部屋で、思索を楽しむ自分”に変わっていこうと思います。

来年の今ごろ、本を含め、モノの少ない部屋で、シンプルに暮らす自分になっていたいです!


上司について

2013-03-30 09:30:00 | 日記・エッセイ・コラム

ふと、これまで、企業の中で出会った上司の人数を数えてみました。

11名でした。うち、アメリカ人上司は2名でした。

また、上司部下の関係が続いた期間についても考えてみました。

最短半年、最長2年でした。

上司という人間がいるのではなく、

上司という立場があるだけなのだ。

今ではそう思います。

立場とは洋服みたいなものかもしれません。

たとえば、ワンサイズ大きい服を与えられたとき、

最初はブカブカで、洋服が歩いているみたいな状態になります。

そこで、体を鍛え、バルクアップして、

自分の肉体を洋服サイズに合わせていくのか?

洋服のほうをワンサイズダウンしたものに変えるのか?

あるいは、いつまでも違和感を持ちながら、その服を着続けるのか?

いずれにせよ、

上司という立場を与えられた人たちは、

そうでない人の味わったことのない、さまざまな体験をしていくことになるのでしょうね。

たくさんの上司に育ててもらった私ですが、

もしかしたら、上司のほうも、同じように自己成長の旅の途中だったのかもしれません。


レベル混在型講演

2013-03-29 08:42:48 | 日記・エッセイ・コラム

スキルレベルの違う人とどう折り合いをつけていくのか?

今回、某企業の、全レベル合同講演を通して、多様なスキルレベルの人たちが混在する環境で学ぶ面白さを発見しました。

できる人は、できない人をどう誘導するか考えるようになります。

できない人は、できる人をどう巻き込むか考えるようになります。

全レベル対応型講演は、よい意味で、学習者に”ゆさぶり”をかけてくれます。

より高度で、よりネイティブらしい表現を追及してきた上級者は、初級者と向き合うことで、”相手に合わせて言語レベルを調整する”ことを学びます。自分の知的好奇心を満たすことだけでなく、初級レベルのパートナーの学びを支援し、チームとしてのスキルアップに関心を寄せられる人は、本当の意味での英語上級者なのだと思います。初級者側は、今まで別世界だと思っていた、上級者の思考回路を疑似体験することで、彼らと自分たちとの間に潜在能力的な差がほとんどないことを知ります。臆することなく上級者と学びを共有できる初級者なら、英語は初級であっても、コミュニケーションスキルにおいては上級者の域に達していると言えるでしょう。

実は、このセミナーは、昨年まではレベル分けで実施していたのですが、スケジュール上の都合で、急きょ、全レベル合同での実施に切り替えました。一瞬、”なんと無謀な”と思いましたが、やってみると、参加者の方々が今までよりさらに生き生きと取り組んでいるではありませんか!?会場の数百名の人たちが、己の英語レベルという枠を超えて、優越感も劣等感もなく、ニュートラルな雰囲気で共通課題と取り組んでいる姿はなんとも心強かったです。

”社会の縮図の中で英語を学べるレベル混在型研修が、今後の企業研修のトレンドになるかもしれない"そう思えた瞬間です。

そもそも、さまざまなスキルレベルの人が混在し、彼らと折り合いつけていくことが、社会を生きるということ。それに対して、同じ職層、同じ英語レベル、など、参加者の同質性を追及する授業スタイルは、社内の縮図から切り離して、英語を取り上げるということになる。

ところで、企業研修で、もっとも”同質性の高い”研修とえいば、新入社員研修。

来年度からは、お兄さんお姉さん世代、親世代の人たちと一緒に学べるような、新しいタイプの新入社員研修を模索していきたいです。

あえて、さまざまなレベルの人を巻き込もう!

新年度の私の研修テーマとなりそうです。


理論について

2013-03-10 05:16:00 | 日記・エッセイ・コラム

引き続き、声楽のお話です。

声楽レッスンでは、

先生が長年のご経験から編み出された理論を教わります。

でも、その理論、語れば、1分で終わります。

で、あとはひたすら練習です。

これ、現代人が一番必要なことかもしれません。

理論がないこと、理屈で納得しないことに対して、私などの理屈人間は絶対に心が動かされません。

しかし、理屈で納得したあとは、あとは体の世界に進みます。理屈屋の私を喜ばす薀蓄やネタは、もう先生からは提示されません。あとはシンプルなレッスンが続くのみです。

声楽のレッスンは、ときに、心すら余計なものに思えることがあります。

体に意識を100%集中すること。

うまくなろう、とか、成長したい、とか、何にも考えず、

ただ、体から声を吹き出す。喉などは作為心が集中する場所なので、そこはなるべく使わない。

歌詞の意味を味わい、感情をこめようなどと思わない。小手先の感情表現なんて邪魔。技巧的うまさを、自然体の心が凌駕しているとき、歌っている本人も聞いている側も純粋に楽しめるのかもしれません。お芝居なんかもそうですね。”うまさ”が全面に出た演技は、ちょっと苦手。それならよっぽど素人のへたくそ芝居のほうが面白いと思ってしまいます(汗)。

長年、その道を模索してきた人が生み出す指導法は、きっと、どんな分野でも、見た目は超シンプルで、何の変哲もないのかもしれません。でも、長年の実体験の裏付けがあるから、習う側は、言葉じゃないところ、つまり、直観や体で納得していられる。

言葉の世界にどっぷり住んでいると、直観や身体がすべての世界が恋しくなるのですね。


作為心との戦い

2013-03-09 09:49:10 | 日記・エッセイ・コラム

私は、お酒が入らないとカラオケが歌えません。

素面の状態ですと、”うまく歌ってやろう”というスケベ心が出てしまうのです。

この気持ち、自分では相当嫌いな感情です。

だから、お酒で自分の気持ちを超・リラックスさせて、

ただ、自分が気持ちよくなるためにだけ歌うのです。

ただひたすら、自分のためだけに歌う。これがポイント。

声楽の先生にも言われました。

”うまく歌おうとしてはいけない”と。

こういう気持ちを表す日本語が浮かびません。

とりあえず、”作為心”としておきます。

”作為心”なく、自分を楽器と割り切り、

腹筋・背筋を駆使し、体に全神経集中するとき、

きれいな高声が出ます。

うまく歌おうとすると、そういう高音が出ません。

自分でも、音色が全然違うのがよくわかります。

作為心で出す声って、薄い感じの声になります。

心をあまり使わず、体に意識を集中して出す声は、

気持ちなど込めずとも、相手にビンビン届きそうな

肉圧な声になります。

心を込めて歌おうとすると、

余計な、作為心も顔を出しはじめる。

だから、むしろ自分の体を楽器と割り切り、

腹筋と背筋の筋トレぐらいの感覚で声を出す。

どういうわけか、そういうときの声は、

自分でかなり満足、納得いきます。

そして、レッスンが終わったあとは、

スポーツをしたあとのような爽快感に包まれます。

自分の中にちらつく”作為心”を弱めたい、

本質を見えなくさせる”強烈な自我”をなんとかひっこめさせたい、

自然体で、本質からブレない生き方をしたい、

声楽はそんな方にお勧めです。