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貴子のブログ

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「古事記」あらすじ(上巻)

2020-10-20 17:55:22 | 日記

『古事記上巻』

【序文】
『古事記』の序文によると、まずはじめは天武天皇(在位六七三~六八六年)の発案によって、正しい歴史と系譜を確立して後世に伝えるために史書の作成を企画した。天皇は、これは国家運営のための根本に関わる事業であると言っている。当時、稗田(ひえだ)の阿礼という二十八歳の大変聡明な人物がいた。天武天皇はこの稗田阿礼に命じて天皇家の物語と系譜を諳(そらんじ)させるが、在世中に目標とする歴史書は完成しなかった。その後、持統天皇(じとうてんのう 在位六九〇~六九七年)文武天皇(もんむてんのう 在位六九七~七〇七年)の御世を経て、元明天皇(ゲンメイテンノウ 在位七〇七~七一五年)が前代の事業を引き継ぎ、和銅四年(七十一年)九月に、稗田阿礼(ヒエダノアレ)の諳んじる物語を太安万侶(オオノヤスマロ)に筆録させ、翌年の一月に『古事記』が完成した。


【天地のはじまり】
天地のはじまりの時、高天原という場所に、神々が出現した。はじめに出現したのは天之御中主(アメノミナカヌシ)の神、次に高御産巣日神(タカミムスヒノカミ)その次に神産巣日神(カミムスヒノカミ)だったその後、地上世界がまだ未成熟で、水面に浮いた脂と同じく、クラゲのように漂う状態であった時に、葦の若芽のように萌えあがるものによって出現した神は、宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコジノカミ)ついで天之常立神(アメノトコタチノカミ)であった。 ここまでの五柱(ごはしら)の神は、「他と区別された、特別な天神(アマツカミ)」である。
次に国之常立神(クニノトコタチノカミ)と豊雲野神(トヨクモノノカミ)が出現した。ここまでに出現した七柱の神はみなペアとなる神を持たずにそれぞれ単独で出現した神で、その身を隠しなさった。これ以後に出現する神はそれぞれ男女ペアで出現することになる。まず宇比地邇神(ウイジニノカミ)・妹須比智邇神(スイジニノカミ)、次に角杙神(ツノグイノカミ)妹活杙神(イクグイノカミ)次に意富斗能地神(オオトノジノカミ)妹大斗乃弁神(オオトノベノカミ)次に於母陀流神(オモダルノカミ)妹阿夜訶志古泥神(アヤカシコネノカミ)次に伊耶那岐神(イザナキノカミ)妹伊耶那美神(イザナミノカミ)が出現した。


【神の結婚】
天つ神から国土の修理固成(しゅうりこせい)を命じられ、天沼矛(アメノヌボコ)を授かった伊耶那岐(イザナキ)と伊耶那美(イザナミ)は、天の浮き橋に立って沼矛を下界に指し下ろして掻き回した。そして引き上げた矛の先から滴り落ちた塩が重なって島ができあがった。それがオノゴロ島である。
イザナキとイザナミはオノゴロ島に降って二神で男女の交わりをして国々を生もうとする。天(あめの)御柱(みはしら)を左右から廻って声を掛け合い、結婚して子をなしたが、最初に生まれた水蛭子(ひるこ)は、葦船(あしふね)に入れて流してしまった。次に生まれた淡島(あわしま)も、子の数には入れなかった。
二神は、女神の方から先に声を掛けたのが良くなかったのだと思って天つ神にそのことを確認した上で、婚姻のやり直しをし、改めて国生みを開始。淡路島・四国・隠岐島・九州・壱岐島・対馬・佐渡島・本州を生み、それから六つの小島を生み、その後に今度はさまざまな神々を生んだ。神々を生み続けていくうちにやがて火の神を生んだイザナミは、病になってしまう。


【黄泉国】
火の神を生んだことで身を焼かれ、異界に行ってしまったイザナミを連れ戻すため、イザナキは黄泉国(よもつくに)へと出向く。イザナキは、出迎えに来たイザナミに共に戻るように説得するが、イザナミは黄泉戸喫(よもつへぐい)をしてしまったのでもう帰れないと言う。けれど、とりあえず黄泉神と相談してくるから、その間決して中を覗いてはならないという禁忌を科してイザナキを待たせるが、なかなか戻ってこない。待ちきれなくなったイザナキは、右の髻(もとどり)にさしていた櫛に火を付けて中を覗いてしまう。すると、そこには蛆(うじ)がたかり、躰(からだ)の八箇所に恐ろしい雷神を生じているイザナミの姿があった。驚き恐れたイザナキはその場から逃げ出すが、イザナミは見られたことに怒り、予母都志許売(ヨモツシコメヤ)雷神を追っ手に遣わす。身につけていた髪飾りや櫛を投げつけながら逃走していたイザナキだったが、黄泉比良坂(よもつひらさか)の坂本まで来たときにとうとう雷神に追いつかれてしまう。そこでイザナキは、そこに生えていた桃の実を使って雷神どもを追い返す。すると今度はイザナミ自身が追いつき、イザナキが塞いだ大きな岩を間に挟んで、お互いに言葉を掛け合う。イザナミが「一日に千人を縊(くびり)殺す」と言ったのに対し、イザナキは「一日に千五百の産屋(うぶや)を建てる」と言った。これが人口増加の起源というわけである。

【須佐之男命】
黄泉国(よもつくに)から逃げ帰ったイザナキは、黄泉国のけがれを祓おうとして日向(ひむか)の阿波岐原(あわきはら)というところで禊(みそぎ)をする。そこで自身が身につけていたものや体に付着していたものを払ったところ、そこからまたさまざまな神が出現するのだが、最後に左の目を洗ったところ天照大御神(アマテラスオオミカミ)が、右の目を洗ったところ月読命(ツクヨミノミコト)が、鼻を洗ったところ須佐之男命(スサノオノミコト)が出現した。
 三柱の貴い神を出現させてイザナキは大喜びして、アマテラスに高天原(たかまのはら)を、ツクヨミに夜の食国を、そしてスサノオには海原を統治するように命じた。  ところがスサノオは、自分は亡き母のいる根の堅州国(かたすくに)に行きたいと言って泣いてばかりいて、そのおかげで父のイザナキの怒りを買って追放されてしまう。その後は高天原(たかまのはら)に行って姉の邪魔をし、大暴れをして姉の石屋籠(いわやこもり)の原因となる行為をする。高天原の神々の働きによってアマテラスは再び出現するが、その原因を作ったスサノオは追放される。
 その直後、スサノオは大気津比売神(オオゲツヒメノカミ)という女神を殺害するが、出雲に降った後には八俣大蛇(ヤマタノオロチ)を退治し、大蛇に食われる運命にあった女神を救うことになる。

【天の石屋の神話】
スサノオが高天原にやってきたとき、アマテラスは「弟はこの国を奪いに来たに違いない」と疑いの心を抱いた。自らの潔白を証明しようとしてスサノオはお互いに「うけひ(占い)」をして子神を生もうと提案する。
お互いの持ち物(スサノオの剣、アマテラスの玉)を交換し、それぞれに口に含んではき出した息の中から、スサノオは五柱の男神を、アマテラスは三柱の女神を出現させるが、アマテラスは、子神の所属はそれぞれの持ち物の元の持ち主によると宣言する。するとスサノオは、自分が女神を生んだのだから、自分の勝ちであるとの勝利宣言をし、その勢いに乗じてさまざまにあばれる。
まずアマテラスが営む田の妨害をし、その田で取れた稲を食す儀式を行う場所に糞をまき散らす。アマテラスは、はじめはその行為をとがめないで寛大な態度を示すが、スサノオはさらに暴れて、機織(はたおり)の作業をする殿に皮を剥いた馬を投げ入れた。するとそれが原因で、機織殿で機を織っていた女神が驚いて梭(ひ)(機織りで、よこ糸を巻いた管を入れて、たて糸の中をくぐらせる、小さい舟形のもの)で陰部を衝いて死んでしまった。

【八俣大蛇退治神話】
高天原を追放されたスサノオは、出雲の肥の河上、鳥髪山の地に降り立つ。川の上流から箸が流れてきたのを見て、上流に誰かいるのだろうと思って訪ね上る。すると、真ん中に少女を置いて、両側で泣いている老父と老女に出逢った。
スサノオはその者たちの名と、泣いている理由を尋ねたところ、「自分たち夫婦は足名椎(アシナヅチ)手名椎(テナヅチ)間にいるのは娘の櫛名田比売(クシナダヒメ)だ」と答え、「自分たちには八人の娘がいたが、毎年八俣大蛇(ヤマタノオロチ)が訪れて娘をひとりずつ喰われてきた。今、最後の一人が喰らわれる時期となったので、泣いているのだ」と答えた。
スサノオはそのヤマタノオロチの姿形を尋ね、退治するための秘策を練り、娘を自分の妻として奉るように要求する。老父の言ったとおり現れたヤマタノオロチをスサノオは酒で酔わせ、眠ったところを剣で斬り刻んで退治する。
その時、大蛇の尾から一本の剣が出現し、ただの剣ではないと感じたスサノオはこれを天上界のアマテラスに献上した。これが後の草薙(くさなぎ)の剣(つるぎ)である。

【大国主神の神話】
クシナダヒメと結婚したスサノオは、出雲の須賀に宮を作り、そこで結婚をし、子神を誕生させる。子神はさらに次々に次代の子神を生んでいく。やがてスサノオの六世孫として誕生したのが大国主神(オオクニヌシノカミ)であった。この神には、またの名が四つあった。大穴牟遅神(オオアナムジノカミ)・葦原色許男神(アシハラノシコオノカミ)・八千矛神(ヤチホコノカミ)・宇都志国玉神(ウツシクニタマノカミ)である。
オオクニヌシ物語が始まってからは、オオアナムジの名で表される、兄の八十やそ神がみたちと一緒に稲羽いなばの八上比売(ヤガミヒメ)に求婚に出かける。その際に稲羽の素兎(シロウサギ)を助け、シロウサギからは「あなたがヤガミヒメを得るでしょう」と予言される。その予言どおりにヤガミヒメから求婚の承諾を得たオオアナムジであったが、それがもとで兄神たちの恨みを買い、命を狙われてしまう。二度も殺されてしまったオオアナムジであったが、母神の助力によって二度とも復活する。
しかし、このままでは本当に殺されてしまうと危惧した母神は、オオアナムジにスサノオのいる根の堅州国へ行くようにと指示する。指示に従って根の堅州国に出かけたオオアナムジは、そこでスサノオの娘、須勢理毘売(スセリビメ)と出逢って結婚する。
その後、スサノオからいくつかの試練を与えられたオオアナムジは、スセリビメの助力を得てそれらの試練を乗り越え、最後にスセリビメを連れ、スサノオの琴・弓・矢を持って根の堅州国から逃げ出すことになる。逃げるオオアナムジに向けてスサノオは、「お前はわが娘を正妻とし、その弓と矢でもって兄神たちを追い払い、オオクニヌシとなり、またウツシクニタマとなって、立派な宮殿を作れ」という言葉をかける。
その後は、ヤチホコの名で高志の沼河比売(ヌナカワヒメ)を妻問いに行く話と、スセリビメの嫉妬を描いた話が四首の歌と短い説明文とで綴られる。これを「神語かむがたり」というと伝える。


【国譲りの神話】
アマテラスは、かつてスサノオとの「うけひ」で産んだ男神五柱のうちの長男である天忍穂耳命(アメノオシホミミノミコト)に、「この地上世界は倭が御子であるオシホミミが統治する国だ」と宣言をして、派遣する。オシホミミは、いったんは天浮橋(あめのうきはし)に立ち、地上の様子を窺うが、地上世界はとても騒がしいと言って、高天原に還り上り、報告をする。報告を受けたアマテラス・高御産巣日神(タカミムスヒノカミ)は、高天原の神々と相談し、「この地上世界(葦原中国)は荒ぶる国つ神どもが跋扈(ばっこ(思うままにのさばること)している国だ。誰を派遣して言向(ことむけ)(服従)させようか」とたずねた。
相談の上、まずはオシホミミの弟にあたる天菩比神(アメノホヒノカミ)を派遣するが、この神は相手に寝返ってしまって、還ってこなかった。次に天若日子(アメワカヒコ)を派遣するが、この神は自らが地上の主になろうという野心を抱いていたために、自分が天上界に放った矢を投げ返されてその矢に射られて死んでしまった。
三番目に派遣された建御雷神(タケミカズチノカミ)は、オオクニヌシとその子神の事代主神(コトシロヌシノカミ)・建御名方神(タケミナカタノカミ)を服従させ、国譲りを成功させる。オオクニヌシは、「天神御子の宮殿と同じように壮大な宮殿を、自分が鎮まるために建ててもらえるならば、出雲国に鎮まるだろう」と言って国を譲り渡した。

【天孫降臨神話(一)】
国譲りの交渉が無事に終わり、ようやくアマテラスは子神を降臨させることができるようになる。当初降臨を予定していたオシホミミにアマテラスと高木神(タカギノカミ=タカミムスヒノカミの別名)が改めて降臨を命じたところ、オシホミミは、自分に子ができたので、この子神を降臨させようと言う。その子が番能邇々芸命(ホノニニギノミコト)である。ニニギは五柱の随伴神を伴い、天あまつ久米命くめのみこと・道臣命(みちのおみのみこと)を先導役とし、筑紫つくしの日向(ひむか)の高千穂(たかちほ)の久士布流岳(くじふるだけ)に降臨する。


【天孫降臨神話(二)】
筑紫(つくし)の日向(ひむか)の高千穂(たかちほ)の久士布流岳(くじふるたけ)に降臨したニニギは、「ここは韓国(からくに)に向かい、笠沙御前(かささのみさき)にまっすぐに通っていて、朝日がまっすぐに差す国、夕日の照り映える国だ。ここはとても良いところだ」と言って、壮大な宮殿を立てなさった(これが高千穂宮である)。

【日向神話】
日向(ひむか)に降臨したニニギは、その後、笠沙の御前で一人の美女に出逢う。
名を尋ねたところ、大山津見神(オオヤマツミノカミ)の娘で木花佐久夜毘売(コノハナノサクヤビメ)であるという。ニニギは求婚するが、娘は、返事は父がするという。話を聞いた父神はたいそう喜び、姉の石長比売(イワナガヒメ)と併せて嫁がせようと言う。
しかし姉のイワナガヒメはたいそう醜かったので、ニニギは妹のサクヤビメだけを娶(め)とり、姉の方は返してしまった。父神は怒り、「姉を嫁がせたのは、天神の御子の命が永遠につづくためであった。妹を嫁がせたのは、天神の御子たちが繁栄するためであった。今、姉を送り返したことによって、歴代天皇の命は木の花のようにはかないものになるであろう」と言った。
その後、ニニギはサクヤビメと「一夜婚」を行う。するとサクヤビメは一夜で懐妊をした。ニニギはそのことを疑わしく思い、「その子は地上の神の子であろう」と言ってサクヤビメを責めた。サクヤビメは、自身の潔白を証明しようと思い、戸のない室に籠もり、火を放ってその中で出産をする。「これで無事に生まれなかったならば、この子は地上の神の子でしょう。無事に生まれたならば、そのときは間違いなく天神御子であるあなたさまの子なのです」と言い、決死の出産を行うのであった。
やがて無事に生まれたのか、火照命(ホデリノミコト・海幸彦)、火須勢理命(ホスセリノミコト)、火遠理命(ホオリノミコト・山幸彦)であった。
この後にいわゆる「海幸山幸の神話」が展開し、結果的に兄であるホデリは弟のホオリに従うところとなる。このホデリは、隼人(はやと)の祖であるという。


【鵜葺草葺不合命の誕生】
ホオリは、海神宮の娘、豊玉毘売(トヨタマビメ)を妻としていた。あるときトヨタマビメが、ホオリの子を懐妊したが、天神の子を海原で産むわけにはいかないと、海神宮からやってきた。トヨタマビメは、「私たちの国の者は、出産のときには本国の姿になって産むので、その姿を見てはならない」と言い、鵜の羽を茅葺(かやぶき)とした産屋(うぶや)に籠もって出産をしようとする。ところが産屋が完成する前に産気づいてしまい、ヒメはその産屋に籠もって出産しようとする。「見てはならない」と言われていたホオリは、見たいという気持ちを抑えることができずについ覗いてしまった。するとそこに見えたのは、八尋和邇(ヤヒロワニ)の姿となってのたうっているトヨタマビメの姿であった。ヒメは無事に子神(鵜葺草葺不合命(ウガヤフキアエズノミコト)を出産するが、見られたことを恥に思い、ホオリを恨んで海神宮の世界に戻ってしまう。

中巻につづく。


「古事記」あらすじ(中巻)

2020-10-20 17:53:44 | 日記

『古事記中巻』

【神武東征】
 鵜葺草葺不合命(ウガヤフキアエズノミコト)と玉依比売(タマヨリヒメ)との間に四柱の男子が誕生し、その内の次男の稲氷命(イナヒノミコト)「妣(亡き母)の国」として海原に入り、三男の御毛みけ沼命(ぬのみこと)が常世国とこよのくにに渡ったというところで終わる。中巻は、残った長男と四男とが、天下を治めるべき良き場所を求めて東へ行こうと相談するところから始まる。この長男が五瀬命(イツセノミコト)、そして末っ子の四男が神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコノミコト)、すなわち神武天皇(じんむてんのう)。
一行は高千穂宮を出発し、筑紫・安芸・吉備などを経て大阪湾に入り、大阪方面から大和へ入ろうとするが、在地勢力の抵抗にあい、兄イツセは矢に射られて負傷してしまう。そのとき兄は、「日の神の御子として、日に向かって戦うのは良くなかった。これからは迂回をして日を背に負って戦おう」と言った。
しかしその後、兄イツセは紀伊国において戦死してしまう。残った一行は紀伊半島を南下して熊野から大和へ入ろうとする。熊野に至った際には大きな熊が現れて、一行を気絶させる。そのとき、夢で高天原のアマテラス・高木神(タカギノカミ=タカミムスヒの別名)の命を受け、剣を授かった高倉下(タカクラジ)という者が、その剣をもたらしたところ、一行は目覚めることができた。
その後、タカギノカミが授けた八咫烏(ヤタガラス)の先導を受けたり、国つ神の服従を受けたりしながら、刃向かう者を征討し、苦労しながらもヤマトの畝傍(ウネビ)の白檮原宮(カシハラノミヤ)で即位する。


【神武天皇(初代)から綏靖天皇(第2代)へ】
神武天皇崩御の後、多芸志美々命(タギシミミノミコト)なる人物が神武皇后の伊須気余理比売(イスケヨリヒメ)を妻とし、神武天皇と皇后との間に生まれた三人の皇子を殺して自分が天皇になろうとする。子供たちに危険が迫っていることをなんとかして知らせたいと思ったイスケヨリヒメは、タギシミミに気づかれないよう、歌を歌って子供たちに伝えようとした。子供たちは歌の意味するところを理解し、タギシミミを討つ。


【崇神天皇(第10代)】
崇神天皇(スジンテンノウ)の御世、疫病が流行し、人民は尽きようとしていた。この危機をどうすれば乗り越えられるのかと苦悶する崇神天皇は、ある夜、神床(カムドコ)という、神の意志を夢で窺(うため(うかがう)の床で寝ていたときに、夢に大物主神(オオモノヌシノカミ)が現れて託宣(たくせん(そのお告げ。)を下す。
その託宣は「この疫病は私の意志である。今、意富多多泥古(オオタタネコ)を連れてきて私を祀らせたならば祟りは止み、国も安らかに平らかになるであろう」というものであった。
天皇が四方に使者を派遣してオオタタネコを探させたところ、河内かわちの美努村みのむらで発見された。それでオオタタネコに尋ねたところ、この人がオオモノヌシの子孫であることがわかったので、この人を神主としてオオモノヌシを祭り、大和の神々をことごとく祀ったところ、神の(祟たたり)は治まり、天下は平らかになり、人民が栄えたという。
天皇はその後、ヤマトの国外に将軍と兵士を派遣して、従わない者どもを従わせるようにした。派遣された将軍たちは任務を終えてヤマトに戻り、それぞれ報告を行った。その後、天皇は初めて人民に狩猟の獲物の貢納と織物の貢納を課した。それらの事績から、その御世を称えて「初国はつくにを知らす御み真木まきの天皇すめらみこと」というのである。


【垂仁天皇(第11代)】
垂仁天皇(スイニンテンノウ)の后・沙本毘売(サホビメ)は、あるとき兄・沙本毘古(サホビコ)から、「夫と兄とどちらを愛しく思うか」と問い詰められる。サホビメは兄を愛しく思うと答える。すると兄は、「それならばお前と私とで天下を治めよう」と言い、妹に小刀を渡して天皇の寝首を掻くように指示する。
そんなこととは知らずに、天皇はサホビメの膝を枕に寝ていたところ、サホビメは頸くびを刺そうと三度試みるが、天皇に対する「哀情」に堪えられず、刺すことができなかった。そして目覚めた天皇が、自分がみた不思議な夢について語り、サホビメはその夢の夢解きをする形で、自分と兄サホビコとの計略のことを洗いざらい打ち明ける。
話を聞いた天皇は軍勢を集めてサホビコを討とうとするが、そのときサホビメは兄を思う情を押さえかねて兄の籠もる稲城(稲束を積み重ねて作った城)の中に入ってしまった。そのときサホビメは妊娠していた。天皇は、サホビメが懐妊していることと、これまで愛しんできた思いに堪えかねて、兄サホビコを攻めることができずにいた。
そうこうするうちにサホビメは御子を産んだ。サホビメは、「もしもこの子を天皇の子と思ってくださるならば、迎え入れて欲しい」と願い出る。サホビメを愛する思いを棄てられずにいる天皇は、御子を受け取る際にサホビメも共に連れ出すよう、家臣に命じるが、サホビメは事前にそのことを察知していたので、家臣に捕まえられることはなかった。
その後、天皇はサホビメに御子の名前をどうするか、養育はどうするかなどをたずね、また次の后をどうすればよいのかをたずねる。そのように天皇はサホビコを攻めるのを引き延ばしてきたが、とうとうやむを得ずサホビコを滅ぼした。その妹であるサホビメも兄に従って命を落とした。


【本牟智和気御子】
サホビメの産んだ子の名を何と付ければよいか、天皇から問われたサホビメは、「稲城いなぎを焼く時に火の中から生まれたので、ホムチワケノミコと付けましょう」と言った。
さてそのホムチワケは、舟に乗せて遊ばせていたのだが、鬚ひげが心臓のあたりに届くくらい大人になっても、口を利くことができなかった。ある時、鵠(くぐい)が鳴きながら飛んでいくその鳴き声を聞いたところ、あごを動かして片言を発した。それで天皇はその鳥を捕まえるために追いかけさせた。鵠は各地を経巡った後、高志の国で捉えられ、ホムチワケのもとに連れてこられたが、それでもホムチワケはやはり口を利くことができなかった。
天皇が愁えて寝ていたところ、夢に現れた神が託宣をくだした。「私の宮を天皇の御殿のように修造して整えたならば、御子ホムチワケは話すことができるようになる」と。それで占いをして神の正体を確かめたところ、これは出雲大神の祟りであるということがわかった。

【景行天皇(第12代)と倭建命】
景行天皇(ケイコウテンノウ)にはたくさんの皇子・皇女がいたがその中に大碓命(オオウスノミコト)小碓命(ヲウスノミコト(倭建命 ヤマトタケルノミコト)という兄弟がいた。ある時、オオウスは父天皇の命令で、美濃国に住む兄比売えひめ・弟比売(オトヒメ)という美人姉妹を天皇の妃として喚上するための使者として派遣される。しかしオオウスはその二人の姉妹を自らの妻としてしまい、父天皇には別の女性を身代わりとして偽って宮中に連れてくる。そのことに気づいた天皇は身代わりの女性を召すこともなく、鬱々として過ごしていた。
その後のこと、天皇はヲウスに向かって、「お前の兄はどうして朝夕の食事の席に参上しないのか、お前からよくよくねんごろに教え諭しなさい(ねぎし教へ覚せ)」と命じる。それでも一向に食事に現れないことを不審に思った天皇は、再びヲウスに向かって、「お前は兄を教え諭したのか」と確認したところ、すでに「ねぎ」した(教え諭した)という。どのように「ねぎ」したのかというという問いに対してヲウスは、「明け方に兄が厠に入ったときに待ち受けて捕まえて、手足をもぎ取って、こもに包んで投げ捨てました」と答えた。それを聞いた天皇は、我が息子の猛々しく荒々しい心に恐れを抱いて、遠く熊曽(くまそ)の地にいる熊曽建(クマソタケル)という二人の兄弟を討ちに遣わすこととした。
ヲウスは女装をして宴席のクマソタケルに近づき、油断させた後にこの二人を殺害する。二人目のクマソタケルを討つに際して、クマソタケルは、「自分たちに益して勇猛な男が倭国にいた。そなたに我が名を献たてまつろう。これからは倭建御子(ヤマトタケルノミコト)と名乗るがよい」と言い置いて死んだ。
クマソタケル討伐の帰路、倭建命(ヤマトタケルノミコト)は出雲に立ち寄り、出雲建(イズモタケル)をだまし討ちによって倒してから倭に帰ってくる。帰ってくる早々に、今度は東方十二道の荒ぶる神と服従しない人どもを平定してくるようにと命令を受ける。ヤマトタケルは東征に出かける途中立ち寄った叔母・倭比売命(ヤマトヒメノミコト)に対し、父の自分への仕打ちを歎き、「吾あれをすでに死ねと思おもほし看めすぞ(私なんか早く死んでしまえばよいと思っていらっしゃるのだ)」と言った。なお、この際にヤマトタケルはヤマトヒメから草薙剣(クサナギノツルギ)を授かっている。


【弟橘比売命】
東征のはじめ、尾張国に立ち寄ったヤマトタケルは、美夜受比売(ミヤズヒメ)という女性と結婚の約束をして東方に進んだ。
相模国で敵の騙し討ちにあい、火攻めにあって危難に陥るが、伊勢で姨(おば)に貰った袋と草薙剣を使って逆に相手を火攻めにし、敵を焼き滅ぼす。姨がくれた袋には火打ち石が入っていたのである。
その後、走水の海(東京湾)を渡るために船に乗り込んだヤマトタケルであるが、渡りの神の妨害のせいで暴風にあって激しく波立つ海を渡ることができずにいた。そのとき、船に同乗していたヤマトタケルの妻、弟橘比売(オトタチバナヒメ)が、「私が御子の代わりに海の中に入りましょう。御子は任務をなし遂げて、天皇にご報告申し上げてください」と言って海に身を投じた。すると荒波は止み、船は進むことができるようになった。
七日後、オトタチバナヒメの櫛が海辺に流れ着いたので、御陵を作ってその櫛を収め置いたという


【倭建命の崩御】
東征を終えて尾張まで戻ってきたヤマトタケルは、尾張国造(オワリノクニノミヤツコ)の祖の美夜受比売(ミヤズヒメ)と結婚する。そうしてヤマトタケルは、ミヤズヒメのもとにクサナギノツルギを置き、伊服岐能山(イブキノヤマ)の神を素手で討ち取るのだと言って出かける。
伊服岐能山で出逢った白猪を神の使いだと判断し、神を倒した後で討ち取ろうと宣言して先へ進んだヤマトタケルであったが、実はこの白猪が神そのものであった。それに気づかなかったヤマトタケルは神に打ち惑わされ、病に足取りもおぼつかなく彷徨(ほうこう (あてもなく歩きまわること)の末に、御津前(みつのさき)という地(現三重県桑名郡)に着き、そこに立っている松の木の元でかつて置き忘れた剣を発見し、そして尾張を思う歌を詠む。それから伊勢の能煩野(のぼの)の地まで辿り着いたところで、故郷ヤマトを思う歌を詠み、最期にはミヤズヒメの元に置いてきたクサナギノツルギを歌に詠んで崩御する。
亡くなった後にはヤマトから后や御子たちがやってきてヤマトタケルの亡骸(なきがら)に取りすがるが、ヤマトタケルは八尋白千鳥(ヤヒロシロチドリ)となって飛び立ってしまう。后らは歌をうたいながら八尋白千鳥を追いかける。ここで歌われた四首の歌が、のちのち今に至るまで、天皇の大御葬(オオミハフリ)の際に歌われるのだと記される。
八尋白千鳥となったヤマトタケルは、ヤマトを飛び越えて河内に降り立ち、その後は再び飛び立って天へと翔けて行ったという。


【仲哀天皇(第14代)・神功皇后・応神天皇(第15代)】
仲哀天皇と大后(おおきさき)息長帯日売命(オキナガタラシヒメノミコト)は九州筑紫の訶志かし比宮いのみや(現福岡市)にいて、熊曽(くまそ)を討伐しようとしていた。その際に天皇は琴を弾き、建内宿禰(タケウチノスクネ)を神おろしの庭にいさせ、神意を窺おうとしたところ、オキナガタラシヒメが神がかりして神託を下した。それは「西の方に金銀やさまざまな宝物がある国がある。自分はその国を服従させようと思う」というものであった。
託宣を受けた天皇は高地に立って西方を見たが、「そんな国は見えない、偽りをなす神だ」と言って、琴を弾くのを止め、黙っていた。すると神は怒りをあらわにし、「この国はお前の治めるべき国ではない。お前は一道に向かうがよい」と告げた。この神託に恐れをいだいたタケウチノスクネは天皇に琴を弾くように促すが、天皇はいい加減な気持ちで弾いていた。やがてその琴の音が聞こえなくなったので不審に思って火をかかげて見ると、天皇はすでに崩御していた。
この一大事にタケウチノスクネは国の大祓(おおはらえ(日本の神道儀式)を行い、それから再び神託を請うた。すると、神は、「この国は大后の御腹に宿っている子が治める国だ」と告げ、これはアマテラスの御心であり、託宣を下しているのは底箇男(そこつつのお)中箇男(なかつつのお)上箇男(うわつつのお)の三柱の大神(住吉大神)であると言った。そして天神地祇、山河海の諸神を祭り、我が魂を舟に鎮座させるならば、西方の国を服従させることができるだろうと告げた。

【天之日矛・秋山の神と春山の神・応神天皇の子孫】
応神天皇条の末に、「又、昔」という書き出しで、新羅の国王の子である天之日矛(アメノヒホコ)の渡来に纏わる不思議な話が記されている。その話によると、昔、新羅国の一人の賤しい女の陰部に日光が指し、それによって女は懐妊する。やがて女は赤い玉を生み、アメノヒホコがその赤玉を手に入れる。ある時赤玉は美女に変じ、アメノヒホコはその美女を妻とするが、しばらくした後、仲違いをし、妻は自分の祖国に帰るのだといって、ヤマトの難波にやってくる。後を追ってきたアメノヒホコであったが、難波の渡りの神に妨害されて上陸できず、日本海に戻って多遅摩国(たじまのくに 今の兵庫県北部)に上陸して留まり、土地の女性を娶って子孫を産む。
その後、アメノヒホコが将来した八種の宝物が即ち神であり、その神の娘が伊豆志袁登売(イズシオトメ)という女神であることを記した後に、その女神を巡って春山の神と秋山の神という兄弟神が争う話を載せる。一通り妻争いの話が終わった後に、また応神天皇関連の記録的記事に戻るが、そこには応神天皇の御子である若野毛(わかのけ)の二俣王(ふたまたのみこ)の系譜が記される。最後に応神天皇の御陵の所在を記して、中巻は終わり、下巻につづく。

 


「古事記」あらすじ(下)

2020-10-20 17:50:56 | 日記

『古事記下巻』

【仁徳天皇(第16代)と石之日売大后】
仁徳天皇(ニントクテンノウ)の大后(おおきさき)石之日売命(イワノヒメノミコト)はとても嫉妬深かった。天皇に仕える妃たちは宮中に入ることができなかった。何か女性がらみの話が伝わったりすると、足をばたばたさせて嫉妬した。しかし天皇は多くの女性を召し上げようとした。
まずは吉備の黒日売(クロヒメ)を召し上げたが、クロヒメは大后イワノヒメの嫉妬を恐れて本国に逃げ下った。天皇は舟で下るクロヒメを思う歌を詠んだところ、それを聞いたイワノヒメは激怒し、人を遣ってクロヒメを舟から降ろさせ、徒歩で国に向かわせた。クロヒメに未練のある天皇はその後、大后に「淡路島を見に行こうと思う」というのを口実に、吉備まで出かけて一時楽しく過ごした。
次に、天皇は異母妹である八田若郎女(ヤタノワキイラツメ)を入内(じゅだい)させようとした。あるとき、イワノヒメが宴席の場に使用する柏の葉を取りに紀伊国に出かけていた留守中を狙って、天皇はヤタノワキイラツメを宮中に召し入れて、昼も夜も戯れていた。それを宮に帰る途中のイワノヒメに告げ口をする者がいた。恨み怒ったイワノヒメはそのまま宮中には戻らず、実家のあるヤマトの葛城(かずらき)を目指して舟で進み、途中の山代(やましろ)の筒木宮(つつきのみや)に留まることとなった。しばらくは別居状態が続いたが、天皇は臣下を派遣し、また自らも出向いて行くうちに次第に打ち解け、大后は宮に戻ることとなった。
さらに今度はヤタノワキイラツメの妹・女鳥王(メドリノミコ)を求め、異母弟の速総別王(ハヤブサワケノミコ)を媒(なかだち)の使者として求婚をした。しかしメドリは、「天皇は大后イワノヒメに反対されて、姉のヤタノワキイラツメを召し入れることができなかった。そんな天皇にお仕えするつもりはない。私はあなたの妻となる」と言って、媒であったハヤブサワケと結婚する。そしてハヤブサワケに、「天皇を討ってしまえ」と受け取られるような内容の歌をうたう。このことを知った天皇は軍を起こし、ハヤブサワケとメドリを殺そうとする。ハヤブサワケとメドリは手に手を取って逃げ出すが、倭(やまと)から伊賀に通じる道の途中で追っ手に捕まり、討たれてしまう。

【允恭天皇(第19代)軽太子と軽大郎女】
允恭天皇(インギョウテンノウ)崩御の後、太子軽皇子(カルノミコ)は同母妹の軽大郎女(カルノオオイラツメ)と同母兄妹婚を犯す。そのせいか否か、百官と天下の人民はカルノミコに背いて弟の穴穂御子(アナホノミコ 安康天皇(アンコウテンノウ)に帰順した。それを知ったカルノミコは大前小前宿禰(オオマエヲマエノスクネ)という臣下の家に逃げ込むが、アナホノミコの軍勢に取り囲まれたオオマエヲマエはカルノミコを捉えてアナホに差し出すこととなる。囚われの身となったカルノミコは伊予湯(道後温泉)に流されることとなり、残されたカルノオオイラツメ(途中から衣通王(ソトオリノミコ)の名に変わる)は歎きの歌を詠み、やがて伊予湯まで追いかけて行き、そして二人は共に死を選ぶことになる。


【安康天皇(第20代)弑逆】
安康天皇は、家臣の讒言を真に受けて、仁徳天皇の御子である大日下王(オオクサカノミコ)を討ち、その妻であった長田大郎女(ナガタノオオイラツメ)を自分の后とし、その子目弱王(マヨワノミコ)と共に迎え入れる。
時にマヨワは七歳であったが、安康天皇は、マヨワが成長し、実父を殺したのが義父である自分であるということを知ったならば、害意を抱くのではないかということを懸念しており、そのことを妻に語っていた。
実はこのとき、殿の床下でマヨワはこの話を聞いてしまっていた。マヨワは迷わずすぐさま行動に移す。天皇が寝ているところに侵入し、その傍らにあった大刀を手に取って、天皇の頸を討ってすぐに都夫良意富美(ツブラオオミ)なる人物の家に逃げ込んだ。


【大長谷王の暴虐】
マヨワによって兄・安康天皇が殺害されたことを知ったオオハツセ(雄略天皇)は、同母兄・境之黒日子王(サカイノクロヒコノミコ)のもとに駆けつけるが、クロヒコはぐずぐずしていて煮え切らなかったので、その場で刀を抜いて打ち殺してしまう。
次にもう一人の兄・八瓜之白日子(ヤツリノシロヒコ)のところに行くが、シロヒコもまた同じようにぐずぐずしていたので、地面に穴を掘って生きながらに埋め、殺してしまう。そうして今度は自ら軍を率いてマヨワが逃げ込んだツブラオオミの家を取り囲み、戦った。やがてマヨワとツブラオオミは矢尽き、力尽き、自ら命を絶った。
その次にオオハツセは、従兄弟にあたる市辺之忍歯王(イチノベノオシハノミコ)を狩りに誘うが、イチノベノオシハの言動に不信感を抱いたオオハツセの家臣が、オオハツセに讒言をし、それを受け入れたオオハツセはイチノベノオシハを殺害してしまう。


【葛城山の大猪~葛城の一言主神】
雄略(ゆうりゃく)天皇は即位後、河内に行幸して后となる若日下部王(ワカクサベノミコ)に妻問いをする。続いて三輪山麓の河で衣を洗っていた童女の赤猪子(アカイコ)に結婚の約束をするが八十年もの間忘れてしまっていた話や、吉野に出かけてそこで出逢った童女と結婚する話など、行幸と婚姻に関する話が繰り返される。
そして葛城(かづらき)山に登った時には、大きな猪が現れたので天皇が矢を射たところ、猪は怒って唸りながら近づいてきた。それで天皇はこの怒れる大猪を恐れて榛(はしばみ。かばのき科の落葉低木)の木の上に逃げ登り、「大君(である私)が狩をなさる手負いの猪の唸り声に私が逃げて登った、ひときわ目立つ岡の上の榛の木の枝よ」と、自分を助けてくれた榛の木を称える歌をうたった。
また、別の時に、天皇はやはり葛城山に百官の家臣と共に登ったところ、自分と全く同じ姿のものと、自分達一行と全く同じ格好をした一団に出逢った。天皇が尋ねたところ、自分と同じ姿形をしていたものは、葛城山の神、一言主大神(ヒトコトヌシノオオカミ)であることがわかり、天皇は恐縮して拝み、刀・弓・衣服を献上した。天皇一行が帰る時に大神は宮の近くまで見送ってくれた。


【顕宗(第23代)・仁賢(第24代)の物語】
父のイチノベノオシハ(履中天皇皇子)をオオハツセ(雄略天皇)に殺害され、身の危険を感じた意祁王(オケノミコ、後の仁賢天皇)袁祁王(ヲケノミコ、後の顕宗天皇)の二人の兄弟は、針間国に逃げた。道中、顔に黥(いれずみ)をした猪甘(いかい)の老人に食事を奪われるという憂き目に遭いながらも、針間国(播磨国)にたどり着き、志自牟(しじむ)という人の家にやっかいになることとなり、そこの馬甘(うまかい)牛甘(うしかい)として働くことになった。
その後即位した雄略天皇も崩御し、雄略天皇の御子・清寧天皇(セイネイテンノウ)が即位したが、この天皇には御子がいなかった。それで、清寧天皇の崩御後に、皇位を継承すべき王を求めるために、まずは履中天皇(リチュウテンノウ)の皇女であり、イチノベノオシハの妹である飯豊王(イイトヨノミコ)を宮に迎えた。その後しばらくして、山部連小楯(ヤマベノムラジオダテ)という人物が針間国に赴任するが、この人物が志自牟(シムジ)の家に召使いのようにして働いていたオケ・ヲケを発見し、たいそう驚き、感動し、宮中に使者を派遣する。叔母の飯豊王は喜んでこの二人の皇子を倭の宮に呼び寄せた。
オケとヲケは互いに皇位を譲り合い、その結果、弟のヲケがまず皇位に即くことになった。これが顕宗天皇である。即位の後、置目おきめなる老媼おみなが現れ、亡きイチノベノオシハの御骨の在処を教えてくれた。それでさっそく御陵を作って手厚く葬り、置目老媼に恩賞を与えた。また、顕宗天皇は亡き父の仇である雄略天皇の御陵を毀こわすことで怨みを晴らそうとするが、「そんなことをすれば後の人に謗(そしられる)でしょう」という兄の言葉に従って、御陵の土を少し掘ることで終わらせる。


【武烈天皇(第25代)】
小長谷若雀命(オハツセノワカサギノミコ)と(武烈ブレツ天皇)は、長谷(ハツセ)の列木宮(ナミキノミヤ)で天下を八年治めなさった。この天皇には御子がいなかった。したがって天皇崩御後、皇位を継承するものがなかった。そこで、応神天皇(オウジンテンノウ)の五世の孫である袁本杼命(ヲホドノミコト)を、近淡海国(ちかつおうみのくに(今の滋賀県)から上らせて、仁賢天皇(ニンケンテンノウ)の皇女である手白髪命(タシラカワノミコト)と結婚させて、天下を授けた。これが第二十六代の継体天皇(ケンタイテンノウ)である。その後、安閑(あんかん)宣化(せんか)欽明(キンメイ)敏達(ビタツ)用明(ヨウメイ)崇峻(スシュン)天皇の皇位継承の次第、皇妃と皇子女、宝算(年齢)と御陵などを記し、推古(スイコ)天皇代の記述をもって『古事記』は終わっています。

 


【蜘蛛の糸】 芥川龍之介

2020-10-15 15:03:15 | 日記

【蜘蛛の糸】 芥川龍之介

第一
 ある日の事でございます。御釈迦様は極楽の蓮池のふちを、独りでぶらぶら御歩きになっていらっしゃいました。池の中に咲いている蓮(はす)の花は、みんな玉のようにまっ白で、そのまん中にある金色の蕊(ずい)からは、何とも云えないよい匂が、絶間(たえま)なくあたりへ溢(あふれ)て居ります。極楽は丁度朝なのでございましょう。
 やがて御釈迦様はその池のふちに御佇(おたたずみ)になって、水の面(おもて)を蔽(おおって)いる蓮の葉の間から、ふと下の容子(ようす)を御覧になりました。この極楽の蓮池の下は、丁度地獄の底に当って居りますから、水晶のような水を透き徹して、三途(さんず)の河や針の山の景色が、丁度覗(のぞき)眼鏡を見るように、はっきりと見えるのでございます。
 するとその地獄の底に、陀多(かんだた)と云う男が一人、ほかの罪人と一しょに蠢(うごめい)ている姿が、御眼に止まりました。この陀多と云う男は、人を殺したり家に火をつけたり、いろいろ悪事を働いた大泥坊でございますが、それでもたった一つ、善い事を致した覚えがございます。と申しますのは、ある時この男が深い林の中を通りますと、小さな蜘蛛くもが一匹、路ばたを這(はって)行くのが見えました。そこで陀多は早速足を挙げて、踏み殺そうと致しましたが、「いや、いや、これも小さいながら、命のあるものに違いない。その命を無暗(むやみ)にとると云う事は、いくら何でも可哀そうだ。」と、こう急に思い返して、とうとうその蜘蛛を殺さずに助けてやったからでございます。
 御釈迦様は地獄の容子を御覧になりながら、この陀多には蜘蛛を助けた事があるのを御思い出しになりました。そうしてそれだけの善い事をした報(むくい)には、出来るなら、この男を地獄から救い出してやろうと御考えになりました。幸い、側を見ますと、翡翠(ひすい)のような色をした蓮の葉の上に、極楽の蜘蛛が一匹、美しい銀色の糸をかけて居ります。御釈迦様はその蜘蛛の糸をそっと御手に御取りになって、玉のような白蓮(しらはす)の間から、遥か下にある地獄の底へ、まっすぐにそれを御下(おろし)なさいました。

第二

 こちらは地獄の底の血の池で、ほかの罪人と一緒に、浮いたり沈んだりしていた陀多(かんだた)でございます。何しろどちらを見ても、まっ暗で、たまにそのくら暗からぼんやり浮き上っているものがあると思いますと、それは恐しい針の山の針が光るのでございますから、その心細さと云ったらございません。その上あたりは墓の中のようにしんと静まり返って、たまに聞えるものと云っては、ただ罪人がつく微(かすか)な嘆息(たんそく)ばかりでございます。これはここへ落ちて来るほどの人間は、もうさまざまな地獄の責苦せめくに疲れはてて、泣声を出す力さえなくなっているのでございましょう。ですからさすが大泥坊の陀多(かんだた)も、やはり血の池の血に咽(むせび)ながら、まるで死にかかった蛙(かわず)のように、ただもがいてばかり居りました。
 ところがある時の事でございます。何気なにげなく陀多(かんだた)が頭を挙げて、血の池の空を眺めますと、そのひっそりとした暗の中を、遠い遠い天上から、銀色の蜘蛛の糸が、まるで人目にかかるのを恐れるように、一すじ細く光りながら、するすると自分の上へ垂れて参るのではございませんか。陀多(かんだた)はこれを見ると、思わず手を拍(うっ)て喜びました。この糸に縋(すがり)ついて、どこまでものぼって行けば、きっと地獄からぬけ出せるのに相違ございません。いや、うまく行くと、極楽へはいる事さえも出来ましょう。そうすれば、もう針の山へ追い上げられる事もなくなれば、血の池に沈められる事もある筈はございません。
 こう思いましたから陀多(かんだた)は、早速その蜘蛛の糸を両手でしっかりとつかみながら、一生懸命に上へ上へとたぐりのぼり始めました。元より大泥坊の事でございますから、こう云う事には昔から、慣れ切っているのでございます。
 しかし地獄と極楽との間は、何万里となくございますから、いくら焦(あせ)って見た所で、容易に上へは出られません。ややしばらくのぼるうちに、とうとう陀多(かんだた)もくたびれて、もうたぐりも上の方へはのぼれなくなってしまいました。そこで仕方がございませんから、まずひと休み休むつもりで、糸の中途にぶら下りながら、遥かに目の下を見下しました。
 すると、一生懸命にのぼった甲斐があって、さっきまで自分がいた血の池は、今ではもう暗の底にいつの間にかかくれて居ります。それからあのぼんやり光っている恐しい針の山も、足の下になってしまいました。この分でのぼって行けば、地獄からぬけ出すのも、存外わけがないかも知れません。陀多(かんだた)は両手を蜘蛛の糸にからみながら、ここへ来てから何年にも出した事のない声で、「しめた。しめた。」と笑いました。ところがふと気がつきますと、蜘蛛の糸の下の方には、数限(かずかぎり)もない罪人たちが、自分ののぼった後をつけて、まるで蟻(あり)の行列のように、やはり上へ上へいつ心によじのぼって来るではございませんか。陀多(かんだた)はこれを見ると、驚いたのと恐しいのとで、しばらくはただ、莫迦(ばか)のように大きな口をあいたまま、眼ばかり動かして居りました。自分一人でさえ断きれそうな、この細い蜘蛛の糸が、どうしてあれだけの人数の重みに堪える事が出来ましょう。もし万一途中で断きれたと致しましたら、折角ここへまでのぼって来たこの肝腎(かんじん)な自分までも、元の地獄へ逆落(さかおとし)に落ちてしまわなければなりません。そんな事があったら、大変でございます。が、そう云う中にも、罪人たちは何百となく何千となく、まっ暗な血の池の底から、うようよと這(はい)上って、細く光っている蜘蛛の糸を、一列になりながら、せっせとのぼって参ります。今の中にどうかしなければ、糸はまん中から二つに断れて、落ちてしまうのに違いありません。
 そこで陀多(かんだた)は大きな声を出して、「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸は己(おれ)のものだぞ。お前たちは一体誰に尋(きい)て、のぼって来た。下りろ。下りろ。」と喚(わめき)ました。
 その途端でございます。今まで何ともなかった蜘蛛の糸が、急に陀多(かんだた)のぶら下っている所から、ぷつりと音を立てて断きれました。ですから陀多(かんだた)もたまりません。あっと云う間もなく風を切って、独楽(こま)のようにくるくるまわりながら、見る見るうちに暗の底へ、まっさかさまに落ちてしまいました。
 後にはただ極楽の蜘蛛の糸が、きらきらと細く光りながら、月も星もない空の中途に、短く垂れているばかりでございます。

第三

 御釈迦様は極楽の蓮池のふちに立って、この一部始終しじゅうをじっと見ていらっしゃいましたが、やがて陀多(かんだた)が血の池の底へ石のように沈んでしまいますと、悲しそうな御顔をなさりながら、またぶらぶら御歩きになり始めました。自分ばかり地獄からぬけ出そうとする、陀多の無慈悲な心が、そうしてその心相当な罰をうけて、元の地獄へ落ちてしまったのが、御釈迦様の御目から見ると、浅間しく思召されたのでございましょう。
 しかし極楽の蓮池の蓮は、少しもそんな事には頓着(とんじゃく)致しません。その玉のような白い花は、御釈迦様の御足(おみあし)のまわりに、ゆらゆら萼(うてな)を動かして、そのまん中にある金色の蕊(ずい)からは、何とも云えないよい匂が、絶間(たえま)なくあたりへ溢(あふれ)て居ります。極楽ももう午(ひる)に近くなったのでございましょう。


「芥川龍之介」の桃太郎。

2020-10-15 12:28:49 | 日記

 桃太郎は良い人?悪い人?「芥川龍之介」の桃太郎。

 むかし、むかし、大むかし、ある深い山の奥に大きい桃の木が一本あった。大きいとだけではいい足りないかも知れない。この桃の枝は雲の上にひろがり、この桃の根は大地の底の黄泉(よみの)国にさえ及んでいた。何でも天地開闢(かいびゃく)
の頃おい、伊弉諾(いざなぎの尊みことは)黄最津平阪(よもつひらさか)に八っの雷(いかずち)をしりぞけるため、桃の実みを礫(つぶて)に打ったという、その神代の桃の実はこの木の枝になっていたのである。
 この木は世界の夜明以来、一万年に一度花を開き、一万年に一度実をつけていた。花は真紅の衣蓋(きぬがさ)に黄金の流蘇(ふさ)を垂らしたようである。実は実もまた大きいのはいうを待たない。が、それよりも不思議なのはその実は核(さね)のあるところに美しい赤児を一人ずつ、おのずから孕(はらん)でいたことである。
 むかし、むかし、大むかし、この木は山谷をおおった枝に、累々と実を綴ったまま、静かに日の光りに浴していた。一万年に一度結んだ実は一千年の間は地へ落ちない。しかしある寂しい朝、運命は一羽の八咫鴉(やたがらす)になり、さっとその枝へおろして来た。と思うともう赤みのさした、小さい実を一つ啄(ついばみ)落した。実は雲霧の立ち昇る中に遥か下の谷川へ落ちた。谷川は勿論峯々の間に白い水煙をなびかせながら、人間のいる国へ流れていたのである。
 この赤児を孕(はらんだ)実は深い山の奥を離れた後のち、どういう人の手に拾われたか?それはいまさら話すまでもあるまい。谷川の末にはお婆さんが一人、日本中の子供の知っている通り、柴刈に行ったお爺さんの着物か何かを洗っていたのである。
 桃から生れた桃太郎は鬼が島の征伐を思い立った。思い立った訳はなぜかというと、彼はお爺さんやお婆さんのように、山だの川だの畑だのへ仕事に出るのがいやだったせいである。その話を聞いた老人夫婦は内心この腕白ものに愛想をつかしていた時だったから、一刻も早く追い出したさに旗とか太刀とか陣羽織とか、出陣の支度に入用のものは云うなり次第に持たせることにした。のみならず途中の兵糧には、これも桃太郎の註文ちゅうもん通り、キビ団子さえこしらえてやったのである。
 桃太郎は意気揚々ようようと鬼が島征伐の途に上のぼった。すると大きい野良犬が一匹、飢えた眼を光らせながら、こう桃太郎へ声をかけた。
「桃太郎さん。桃太郎さん。お腰に下げたのは何でございます?」
「これは日本一の黍(キビ)団子だ。」
 桃太郎は得意そうに返事をした。勿論実際は日本一かどうか、そんなことは彼にも怪しかったのである。けれども犬はキビ団子と聞くと、たちまち彼の側へ歩み寄った。
「一つ下さい。お伴ともしましょう。」
 桃太郎は咄嗟に算盤を取った。
「一つはやられぬ。半分やろう。」
 犬はしばらく強情に、「一つ下さい」を繰り返した。しかし桃太郎は何といっても「半分やろう」を撤回しない。こうなればあらゆる商売のように、所詮持たぬものは持ったものの意志に服従するばかりである。犬もとうとう嘆息しながら、キビ団子を半分貰う代りに、桃太郎のお伴をすることになった。
 桃太郎はその後犬のほかにも、やはりキビ団子の半分を餌食に、猿や雉(キジ)を家来いにした。しかし彼等は残念ながら、あまり仲の好いい間がらではない。丈夫な牙を持った犬は意気地のない猿をばかにする。キビ団子の勘定に素早い猿はもっともらしいキジを莫迦(バカ)にする。地震学などにも通じたキジは頭の鈍い犬を莫迦(バカ)にする。こういういがみ合いを続けていたから、桃太郎は彼等を家来にした後も、一通り骨の折れることではなかった。
 その上猿は腹が張ると、たちまち不服を唱(となえ)出した。どうもキビ団子の半分くらいでは、鬼が島征伐の伴をするのも考え物だといい出したのである。すると犬は吠たけりながら、いきなり猿を噛かみ殺そうとした。もしキジがとめなかったとすれば、猿は蟹の仇打を待たず、この時もう死んでいたかも知れない。しかしキジは犬をなだめながら猿に主従の道徳を教え、桃太郎の命に従えと云った。それでも猿は路ばたの木の上に犬の襲撃を避けた後だったから、容易にキジの言葉を聞き入れなかった。その猿をとうとう得心させたのは確かに桃太郎の手腕である。桃太郎は猿を見上げたまま、日の丸の扇を使いわざと冷かにいい放した。
「よしよし、では伴(とも)をするな。その代り鬼が島を征伐しても宝物は一つも分けてやらないぞ。」
 欲の深い猿はまるい眼めをした。
「宝物? へええ、鬼が島には宝物があるのですか?」
「あるどころではない。何でも好きなものの振り出せる打出の小槌という宝物さえある。」
「ではその打出の小槌から、幾つもまた打出の小槌を振り出せば、一度に何でも手にはいる訳ですね。それは耳よりな話です。どうかわたしもつれて行って下さい。」
 桃太郎はもう一度彼等を伴に、鬼が島征伐の途(みち)を急いだ。


 鬼が島は絶海の孤島だった。が、世間の思っているように岩山ばかりだった訳ではない。実は椰子のそびえたり、極楽鳥のさえずったりする、美しい天然の楽土だった。こういう楽土に生をうけた鬼は勿論平和を愛していた。いや、鬼というものは元来我々人間よりも享楽(きょうらく)的に出来上った種族らしい。瘤(こぶ)取りの話に出て来る鬼は一晩中踊りを踊っている。一寸法師の話に出てくる鬼も一身の危険を顧みず、物詣(ものもうで)の姫君に見とれていたらしい。なるほど大江山の酒顛童子(しゅてんどうじ)や羅生門の茨木童子(いばらぎどうじ)は稀代(きだい)の悪人のように思われている。しかし茨木童子などは我々の銀座を愛するように朱雀大路を愛する余り、時々そっと羅生門へ姿をあらわしたのではないであろうか? 酒顛童子も大江山の岩屋に酒ばかり飲んでいたのは確かである。その女人(にょにん)を奪って行ったというのは真偽はしばらく問わないにもしろ、女人自身のいう所に過ぎない。女人自身のいう所をことごとく真実と認めるのは、わたしはこの二十年来、こういう疑問を抱いている。あの頼光(らいこう)や四天王はいずれも多少気違いじみた女性崇拝家(すうはいか)ではなかったであろうか?
 鬼は熱帯的風景のうちに琴を弾ひいたり踊りを踊ったり、古代の詩人の詩を歌ったり、すこぶる安穏(あんのん)に暮らしていた。そのまた鬼の妻や娘も機(はた)を織ったり、酒を醸(かも)したり、蘭の花束をこしらえたり、我々人間の妻や娘と少しも変らずに暮らしていた。もう髪の白い、牙の脱けた鬼の母はいつも孫の守もりをしながら、我々人間の恐ろしさを話して聞かせなどしていたものである。
「お前たちも悪戯をすると、人間の島へやってしまうよ。人間の島へやられた鬼はあの昔の酒顛童子のように、きっと殺されてしまうのだからね。え、人間というものかい? 人間というものは角の生えない、生白い顔や手足をした、何ともいわれず気味の悪いものだよ。おまけにまた人間の女と来た日には、その生白い顔や手足へ一面に鉛なまりの粉こをなすっているのだよ。それだけならばまだ好のだがね。男でも女でも同じように、嘘はいうし、欲は深いし、ヤキモチは焼くし、うぬぼれは強いし、仲間同志殺し合うし、火はつけるし、泥棒はするし、手のつけようのない獣なのだよ」


 桃太郎はこういう罪のない鬼に建国以来の恐ろしさを与えた。鬼は金棒を忘れたまま、「人間が来たぞ」と叫びながら、亭々とそびえた椰子の間を右往左往に逃げまどった。
「進め! 進め! 鬼という鬼は見つけ次第、一匹も残らず殺してしまえ!」
 桃太郎は桃の旗を片手に、日の丸の扇を打ち振り、犬猿雉の三匹に号令した。犬猿雉の三匹は仲の好い家来ではなかったかも知れない。が、飢た動物ほど、忠勇無双の兵卒の資格を具えているものはないはずである。彼等は皆あらしのように、逃げまわる鬼を追いまわした。犬はただ一噛に鬼の若者を噛み殺した。キジも鋭いくちばしで鬼の子供を突き殺した。猿は我々人間と親類同志の間がらだけに、鬼の娘を絞殺前に、必ず凌辱(りょうじょく)をほしいままにした。……
 あらゆる罪悪の行われた後、とうとう鬼の酋長は、命をとりとめた数人の鬼と、桃太郎の前に降参した。桃太郎の得意は思うべしである。鬼が島はもう昨日のように、極楽鳥のさえずる楽土ではない。椰子の林は至るところに鬼の死骸をまき散らしている。桃太郎はやはり旗を片手に、三匹の家来を従えたまま、平蜘蛛のようになった鬼の酋長へおごそかにこういい渡した。
「では格別の憐愍(あわれみの気持)により、貴様たちの命はゆるしてやる。その代りに鬼が島の宝物は一つも残らず献上するのだぞ。」
「はい、献上致します。」
「なおそのほかに貴様の子供を人質のためにさし出すのだぞ。」
「それも承知致しました。」
 鬼の酋長はもう一度額を土へすりつけた後、恐る恐る桃太郎へ質問した。
「わたくしどもはあなた様に何か無礼でも致したため、御征伐(ごせいばつ)を受けたことと存じて居ります。しかし実はわたくしを始め、鬼が島の鬼はあなた様にどういう無礼を致したのやら、とんと合点が参りませぬ。ついてはその無礼の次第をお明あかし下さる訳には参りますまいか?」
 桃太郎は悠然とうなずいた。
「日本一の桃太郎は犬猿雉の三匹の忠義者を召し抱えた故、鬼が島へ征伐に来たのだ。」
「ではそのお三さんかたをお召し抱えなすったのはどういう訳でございますか?」
「それはもとより鬼が島を征伐したいと志した故、キビ団子をやって召し抱えたのだ。どうだ? これでもまだわからないといえば、貴様たちも皆殺してしまうぞ。」
 鬼の酋長は驚いたように、三尺ほど後へ飛び下さがると、いよいよまた丁寧にお時儀じぎをした。


 日本一の桃太郎は犬猿雉の三匹と、人質に取った鬼の子供に宝物の車を引かせながら、得々と故郷へ凱旋した。これだけはもう日本中の子供のとうに知っている話である。しかし桃太郎は必ずしも幸福に一生を送った訳ではない。鬼の子供は一人前になると番人のキジを噛かみ殺した上、たちまち鬼が島へ逐電した。のみならず島に生き残った鬼は時々海を渡って来ては、桃太郎の屋形へ火をつけたり、桃太郎の寝首をかこうとした。何でも猿の殺されたのは人違いだったらしいという噂である。桃太郎はこういう重ね重さねの不幸に嘆息を洩さずにはいられなかった。
「どうも鬼というものの執念の深いのには困ったものだ。」
「やっと命を助けて頂いた御主人の大恩さえ忘れるとはけしからぬ奴等でございます。」
 犬も桃太郎の渋面を見ると、口惜そうにいつも唸ったものである。
 その間も寂しい鬼が島の磯には、美しい熱帯の月明を浴びた鬼の若者が五六人、鬼が島の独立を計画するため、椰子の実に爆弾を仕こんでいた。やさしい鬼の娘たちに恋をすることさえ忘れたのか、黙々と、しかし嬉しそうに茶碗ほどの目の玉をかがやかせながら。


 人間の知らない山の奥に雲霧を破った桃の木は今日こんにちもなお昔のように、累々と無数の実をつけている。勿論桃太郎を孕(はらんで)いた実だけはとうに谷川を流れ去ってしまった。しかし未来の天才はまだそれらの実の中に何人とも知らず眠っている。あの大きい八咫鴉(やたがらす)は今度はいつこの木の梢へもう一度姿をあらわすであろう? ああ、未来の天才はまだそれらの実の中に何人とも知らず眠っている。……