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吉田茂 5

2012-06-09 10:55:00 | 日記
系譜

吉田家

             岸秀助     ┏佐藤市郎             ┣━━━━━━╋岸信介            ┏茂世     ┗佐藤栄作            ┃            佐藤信彦━━━┻さわ━━━━━━吉田寛                      ┃     竹内綱━━━┓          ┃           ┃          ┃     吉田健三==┸吉田茂      ┏桜子             ┣━━━━━━━╋吉田健一     牧野伸顕━━━━雪子(1)   ┣吉田正男             ┃       ┣江子             喜代(2)   ┗和子   ┏麻生太郎                      ┣━━━━╋麻生泰                   麻生太賀吉   ┣雪子                           ┣旦子                            ┗信子        
                    ┣━━━━━┳彬子女王                         
 寛仁親王    ┗瑶子女王


脚注

[ヘルプ]^ ジョン・ダワー著・大窪愿二訳『吉田茂とその時代(上)』6頁には「吉田は一八七八(明治一一)年九月二二日横須賀に生れたといわれる。」とある

^ a b c ジョン・ダワー著・大窪愿二訳『吉田茂とその時代(上)』6頁

^ a b ジョン・ダワー著・大窪愿二訳『吉田茂とその時代(上)』5頁

^ ジョン・ダワー著・大窪愿二訳『吉田茂とその時代(上)』9頁

^ ジョン・ダワー著・大窪愿二訳『吉田茂とその時代(上)』11頁

^『100人の20世紀(下)』(57)吉田茂[有岡二郎執筆]2001年、朝日文庫、p.73-74

^ ただし、大村立三はその著書『日本の外交家 300人の人脈』の中で、戦前において対英米関係とアジア進出の両立を唱える外交官をその政策から前者重視を「英米派」、後者重視を「アジア派」と呼んで区別し、前者として幣原喜重郎・重光葵・佐藤尚武・芦田均を挙げ、後者として吉田と有田八郎・谷正之を挙げており、奉天総領事・外務事務次官として東方会議をはじめとする「田中外交」を支えた吉田は幣原や重光と比較した場合には、アジア進出に対してはより積極的であったとする見解をとっている。

^ a b『100人の20世紀(下)』(57)吉田茂[有岡二郎執筆]2001年、朝日文庫、p.75

^自著『回想十年』によれば、牧野伸顕の義妹の嫁ぎ先宮崎県の旧高鍋藩主家秋月氏の縁で高鍋出身の海軍大将小沢治三郎を頼るようアドバイスを受け、そのツテで軍令部次長の小沢に「イギリスを通して講和を進めるために荷物扱いでもいいから潜水艦か航空機で自分を運んで欲しい」と懇願したが、小沢は十中八九沈められる旨と憲兵隊に目を付けられている点を指摘し丁重に断った。憲兵隊に拘束されたのはその翌日だった、と著している。

^春名幹男『秘密のファイル CIAの対日工作』

^『別冊歴史読本特別増刊 ご臨終』(新人物往来社、1996年2月号)

^『アサヒグラフ』臨時増刊 11月5日号、「緊急特集吉田茂の生涯」89頁

^吉田の国葬は佐藤栄作総理の強い要望で閣議決定を経て実現したが、大正15年に制定された「国葬令」は新憲法の施行によって失効していた(20条の「国による宗教的行為の禁止」と7条の「天皇の国事行為」に抵触するため)ため、国葬自体が違憲ということになり、野党や革新系の言論界からこれを批判する声もあった。しかし戦後の大宰相の記憶は多くの人々にとっては褪せることがなく、世論調査でも大多数がこれを容認するものだった。

^『産経新聞』2008年10月20日付朝刊、14版、3面

^ 特にフジテレビでは、追悼番組を放送するために、スポットCMを全て削除し、全ての通常番組を変更した。

^ 松平は元会津藩主で京都守護職の松平容保の四男で、長女の節子は秩父宮の妃になっていた。

^これが最後の「組閣の大命」である。

^春名幹男『秘密のファイル CIAの対日工作』

^『麻生太郎の原点 祖父・吉田茂の流儀』 73頁

^『麻生太郎の原点 祖父・吉田茂の流儀』 73-74頁

^ 戸川猪佐武『小説吉田茂』「あとがき」

^『アサヒグラフ 臨時増刊 11月5日号 緊急特集吉田茂の生涯』81頁(1967年)

^通常洗礼は本人が望まなければできないが、遺書や遺言などで生前明確な意思表示をしていることを司祭が確認できれば、例外的に死後洗礼を行うことができる(東京大司教館)

^『アサヒグラフ』 臨時増刊 11月5日号、「緊急特集吉田茂の生涯」73頁

^ 戸籍上の名は“コト”である

^吉田寛は将来が嘱望された若手外交官だったが、桜子と結婚して数年後に死去してしまう。その葬儀に来た親戚の佐藤榮作と吉田茂は初めて会うが、その時の佐藤の風貌が亡き女婿と瓜二つだったので、以後吉田は佐藤を我が子のように可愛がるようになったという。

^和子と太賀吉を結びつけたのは側近の白洲次郎であり、ふたりの仲人もつとめている。

参考文献

吉田茂 『回想十年.(全4巻)』 東京白川書院(新版) 

吉田茂 『大磯随想』、『世界と日本』、『日本を決定した百年』  

ダグラス・マッカーサー/津島一夫訳 『マッカーサー大戦回顧録 (上下)』  

西村熊雄 『サンフランシスコ平和条約・日米安保条約』 

池田勇人 『財政均衡、付・占領下三年の思い出』

岡崎勝男 『戦後二十年の遍歴』

今日出海 『吉田茂』 初版講談社――以上は<中公文庫>で再刊。

衆議院憲政記念館編 『特別展吉田茂とその時代 ― サンフランシスコ講和条約発効50年』 2002年 

吉田茂記念財団編 『清水崑画 吉田茂諷刺漫画集』 原書房、1989年→中央公論新社、2005年

原彬久 『吉田茂 尊皇の政治家』 岩波新書、2005年 

麻生和子 『父 吉田茂』 光文社知恵の森文庫、2007年 

麻生太郎 『麻生太郎の原点 祖父・吉田茂の流儀』 徳間文庫、2007年

白洲次郎 『プリンシプルのない日本』 ワイアンドエフ→新潮文庫

戸川猪佐武 『小説吉田学校』 <人物文庫全8巻>学陽書房(新版)

ジョン・ダワー/大窪愿二訳 『吉田茂とその時代 (上下)』 TBSブリタニカ、1981年

『アサヒグラフ 臨時増刊 11月5日号 緊急特集吉田茂の生涯』 1967年

佐藤寛子 『佐藤寛子の宰相夫人秘録』 朝日新聞社 1974年

鈴木幸夫 『閨閥 結婚で固められる日本の支配者集団』 光文社、1965年 54-62頁

早川隆 『日本の上流社会と閨閥』 角川書店 1983年 200-203頁

広瀬隆 『私物国家 日本の黒幕の系図』 光文社、2000年 75、173、262、263、333頁

神一行 『閨閥 特権階級の盛衰の系譜』 角川文庫 2002年 30-44頁

近年刊行の伝記・研究

高坂正尭 『宰相吉田茂』 中公クラシックス、2006年

井上寿一 『吉田茂と昭和史』 講談社現代新書、2009年

北康利 『吉田茂 ポピュリズムに背を向けて』 講談社、2009年

北康利 『吉田茂の見た夢 独立心なくして国家なし』 扶桑社、2010年6月

工藤美代子 『赫奕たる反骨 吉田茂』 日本経済新聞出版社、2010年2月

保阪正康 『吉田茂という逆説』 中央公論新社、2000年→中公文庫、2003年

袖井林二郎編訳 『吉田茂=マッカーサー往復書簡集 1945-1951』 法政大学出版局、2000年

小倉和夫 『吉田茂の自問 敗戦、そして報告書「日本外交の過誤」』 藤原書店、2003年

『歴史としての吉田時代 いま、吉田茂に学ぶもの』 吉田茂国際基金編、中央公論新社(発売)、2009年

『吉田茂 写真集』 撮影:吉岡専造、吉田茂国際基金編、中央公論新社(発売)、2004年

『人間 吉田茂』 吉田茂記念事業財団編、中央公論社、1991年

『吉田茂書翰』 吉田茂記念事業財団編、中央公論社、1994年

『吉田茂書翰 追補』 吉田茂国際基金編、中央公論新社、2011年3月

関連項目

本文中・表中にリンクのあるものを除く

吉田学校

吉田13人衆

吉田ドクトリン

保守本流

保守合同

反共主義

ワンマン道路

只見特定地域総合開発計画

鳴尾事件

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