愛知県歴史教育者協議会

愛知県歴史教育者協議会の研究集会、フィールドワーク等の予告と活動報告

愛知県歴教協フィールドワーク 碧海西部

2016-09-27 10:45:56 | 日記
愛知県歴教協フィールドワーク
碧海西部の歴史を訪ねる


*名古屋駅(8:43発)-【JR東海道本線特別快速・豊橋行】-刈谷駅(9:09発)-【名鉄三河線・碧南行】-高浜港駅(9:26着)などをご利用ください。
*昼食代(1,000円程度、高浜名物鶏飯のお弁当)をご用意ください。
*参加される方は、10月21日(金)までに事務局・伊藤までメール等で連絡してください。問い合わせもこちらまで。  連絡先 伊藤(2r2z9e@bma.biglobe.ne.jp)

*交通費と昼食代は別途かかります。

集合時間  9時30分  参加費 無料
集合場所  名鉄 高浜港駅集合  16時碧南駅解散予定


     午 前
三州瓦の産地・高浜を訪ねる
土管坂
かわら美術館
塩焼き窯
衣浦観音
恩任寺
大山公園 など

午 後
碧南市大浜寺町地区を訪ねる
大浜陣屋跡
九重味醂
寺町地区の寺院 など


10月1日(土)は……

2016-09-27 09:36:00 | 日記
◆ 全県委員会
内 容 : 2016年度前半期の活動報告・後半期の活動予定の審議等
日 時 : 2016年10月1日(土) 10:00~12:00
場 所 : 南山高等・中学校女子部 ペトロホール

◆ 戦争学習の会
内 容 : 「 ウサギからみる近代史―岐阜・愛知を中心に」
報告者 : 中尾浩康 さん(南山高等・中学校男子部)
日 時 : 2016年10月1日(土) 13:15~16:15
場 所 : 南山高等・中学校女子部 ペトロホール


南山高等学校・中学校・女子部 
地下鉄・鶴舞線「いりなか」駅下車徒歩3分
住所 名古屋市昭和区隼人町17番地

県会員ニュース第5号

2016-09-17 09:03:07 | 日記
■全国大会に参加して-21年ぶりの沖縄(KK)
 久しぶりの沖縄だった。前回は小学生が米兵に乱暴された事件があった年。今回はうるま市で女性が殺害された事件。何という巡りあわせだろう。しかし、ここに現在の「沖縄」が現れている。
 大会に先立ってのフィールドワークに参加した。辺野古新(マスコミがいうような代替なんてものじゃない)基地建設の現場だ。大浦湾は本当にきれいだ。引き潮の海岸ではいくつかさんごのかけらを拾った。基地ではなく、ホテルを、地下には弾薬庫ではなくワインならぬ泡盛セラーを作ったら、世界的なリゾート地になるはず、という地元市会議員さんの言葉が心に残っている。
 湾内に何隻かの船が見えた。地元の漁船だそうだ。監視をしているとのこと。何かあるわけでもない、私たちの一行が見学しているだけなのに。しかし、聞いて納得。1日船を出して「監視」していると日当が出る。もちろん「お上」から。金額はなんと5万円。3日に一度で月50万円。これには一同「えええええ~~」。こんなことをしてお金を手にしたら人間が腐る。権力はこうやって地域を分断するのだ。そこに私たちの税金を使うんだ。
 分科会は中学校公民。ここでの討論のテーマの一つが「政治的中立」。この何年か続けて議論されている。「中立性」確保のために選挙にもいかない教師がいるそうで、暗澹たる気持ちになる。名古屋でも読売新聞が報道した記事に関して教育長名で「中立性」を確保せよとの「注意」が印刷して配られていた。そのまま熨斗をつけてお返ししたいものだ。すでに「戦争」は足元に忍び寄ってきている。
 帰りの飛行機までの時間、国際通りで時間をつぶしていた。20年前とはちょっと印象が違う。聞こえてくる会話の言葉は中国語に韓国語。米兵かな?と思える人たちも見かけたが、圧倒的にアジアだ。考えてみれば、台湾はすぐ目の前、ソウルからだって名古屋からとさほど変わらない時間で来られるだろう。お土産屋で売られている品々も、沖縄の工芸品の数々がたくさん
ならんでいた。でもでもでも、あああこれだけはやめて。子ども向けのおもちゃの中に、ミニカーならぬミニオスプレイが。
私は初めてテレビ取材を受けた。「天皇の生前退位のお言葉についてどう思いますか」だって。そういえば放送時間を予告していたなあ。玉音放送かい!私の回答は放送されてないだろうな。
              (文責・KK2)
■沖縄大会に参加して(N)
日常のニュースではすっかり政治解説が減り、三面記事的なニュースが多くなりました。報道や教育への統制・圧力が強まり、もはや「戦後」ではなく「戦前」の始まりではないかとすら感じる昨今。「こんな今だからこそ、現地の声を聞かなくては」と、昨年(東北大会)に続き今年も何とか時間を捻出して参加しました(なお、拙い内容ですが、近現代分科会で報告も行いました)。
近現代分科会では、近年の教科書検定の実態に関する報告(歴史学研究の成果よりも政権の意向を重視する傾向)、「明治日本の産業革命遺跡」の世界遺産登録に関する報告(文化庁から官邸主導に変化)、呉市「大和ミュージアム」の展示内容や地域における近況(中学生への「呉市歌」の強制、小学生の追悼式への参加、小学5年生は全員「大和ミュージアム」を見学)等、どの報告も内容が濃く、勉強になると同時に驚くことが多々ありました。
また、沖縄の深刻さ・悲痛さに、胸が痛くなることもしばしばでした。辺野古・キャンプシュワブで目の当たりにした住民分断策(プレコース)、高江ヘリパッド建設で行われた住民に対するSLAPP訴訟や機動隊投入(地域に学ぶ集い)、まさに「沖縄の縮図」である伊江島の過去・現在(現地見学会)等々。しかし、沖縄住民の連日の座り込みや必死の抵抗を、本土のニュースで目にすることは殆どありません。
また近年、メディアのみならず我々社会科教師も、すっかり萎縮している(あるいは自ら盲目となることを選択している)教師が増えつつあるように感じます。「政治的中立」の大義名分の下、歴史学で最も大切な科学性や批判精神が封殺され、「権力の恐ろしさ・強大さ」をえぐる授業を展開する教師がどんどん減っている現在…。このままでは、そう遠くない将来、沖縄や福島(東北)の「現実」は、我々の身近な所でも起こりうるように思います(例えば、岐阜県瑞浪市にある「超深地層研究所」を知っていますか〔名古屋駅から瑞浪駅まではJR中央線で40分程の距離です〕)。
この沖縄大会は、改めて多くのことを学び・考えた大会になりました。一人の高江住民が述べた「日本が、沖縄から離れていく。どうか離れないでいてください」という言葉が、刃のように胸に突き刺さりました。今回、一番忘れられない言葉になりました。
(文責・N)

■沖縄大会に参加して(KK)
 8月8日(月)朝、那覇空港を飛び立ち石垣島へ。眼下に宮古島をながめながら、1時間足らずで新石垣空港着。3年前にできた真新しい空港で、2km南の旧陸軍飛行場からは特攻機が飛び立って行ったとか。
 戦争マラリアを語り継ぐ会の宮良純一郎さんと終戦時中1で鉄血勤王隊だったという潮平正道さんに案内していただいた。

地元の最初の犠牲者は女学校2年生
 八重山地区では、敵の玉に当たって死んだのは200名ほどなのに、マラリアで亡くなったのは3,600名。「(ハマダラカのいる有病地帯へ)退去せよ。」という命令で山の中に行ってマラリアにかかり、命を落としたのだ。
 潮平さんのお話、1945年4月11日、神社の境内にて入学式。その最中に空襲警報。翌日、銃を配られ、鍬と銃をかついで出発。「戦争になると島は孤立するの。軍隊と住民が食糧の奪い合いを始める。鍬で耕し、いもやかぼちゃを育てた。野草も食べた。栄養状態悪いもんだからマラリアにかかりやすく、かかったら命をおとしてしまう状態だった。」
 於茂登岳すそ野に暁部隊の野戦病院があった。小学校で診察、茅葺きの小屋が病室だった。そこで看護婦として働いていた女学校2年生が食糧もなくマラリアにかかった。「水ちょうだい。」と言い続け行方不明に。谷底の田んぼの水を飲みに行って死んでいたそうだ。碑があり、戦没者がわかる。東京・山梨各3名、神奈川2名、千葉1名である。兄がマラリアにかかり入院したと聞いて、栄養をつけようとスープを作り持って行った。途中狙い撃ちされながらも病室にたどり着いたら、皆欲しそうにするので、兄を壕に連れて行って食べさせた。今90歳で本島で元気に生きている。

石垣島事件
 落下傘で海へ降りた3名の捕虜を海軍は虐殺した。海軍陣地の松林の木に結わえ付けて兵隊に銃剣で刺殺させて、灰にして海にまいた。名前もわかっている。アーノルドローレンス28歳イリノイ州、オーレンHロレル24歳カンザス州、ロバートアグルJ20歳テキサス州。佐々木部隊6名が絞首刑になっている。
 サンニという所に小川が流れていて、慰安所を作るのに、海軍の兵隊が校舎を移築して作ったという。

旅団司令部
潮平さんが旅団司令部に連絡に行った時、入口から100段ぐらいの階段があって、運動場の下を通っていた。松林の木の上に敵機監視所があり、下にメガホンで知らせたそうな。
サイオンの松林というきれいな松林があったが切られて、桟橋を作るために完全に破壊された。

奉安殿
登野城小学校の敷地の中に今もある。天皇、皇后の写真が額縁にいれて飾られ、教育勅語が置かれていたという。小さいが頑丈なつくりの建物だ。

9条の碑
真栄公園には、世界のコインを集めて作った鐘がある。一つは国連に、一つは稚内に、そして、ここにある。昭和63年に日本にある各国大使館の大使を招待した時、チャーター便を用意して案内した所、米ソともが同じ飛行機には乗らないといわれ、チャーター便をキャンセルし、自由にきていただいたこと
もあった。会場でも左右に分れて座り、真ん中が空いていたとか。冷戦時代のことであった。
革新市長の時、イラク戦争反対の垂れ幕をたらしたことも。「9条の碑」は中国の石に石垣出身の書家が書いた字を刻んだもの。その向こうに気象台の壁が展示されていた。遠目にもくっきりと弾痕が見て取れる。戦時中、気象台は攻撃の目標だったと。

唐人墓 
 クーリー貿易船ロバートバウン号が300人の中国人を乗せてアメリカに向かっていた。台湾を過ぎた頃、疫病がはやり、海に捨てることに。暴動が起きて船長らを殺して引き返す途中、石垣へ漂着した。アメリカから依頼を受けたイギリスの軍艦が迎えに来たが、艦砲射撃にも抵抗し、市街地に逃げ込んだ。琉球王府は隔離し、2年ぐらいして中国へ送り返した。
後に道路工事の時、人骨がいっぱい出て来た。死んだ人を埋めた所らしい。台湾の人達が蒋介石の文字で墓を建てた。

慰霊之碑
 制約がたくさんあった。石の門、大臣が頭をぶつけるといけないので、15cm高くしろ。戦争マラリアという言葉を使うな。軍命により→作戦上の都合で、どなりつけて→遠くにおりなど。国家保障の時期が慰安婦の時期と重なり3億円出たので、マラリア平和記念館とマラリア碑を建てることにした。

防空壕
1945年6月1日、「6月10日までに退去せよ」という甲戦備令で山へ。山の中の立木を横にして茅葺きの家を作った。石垣小は陸軍病院になり、海軍の壕を作るのに、ダイナマイトを使う危険な仕事は全部朝鮮人がやり、婦人会・女子青年団ががれきを運び出した。ヘーギナー壕など5つの壕をつくり、通信基地とした。その上に海軍の飛行場があった。

自然と言葉
蝶の種類多い。11月から12月にかけて南へ渡り鳥が渡っていく。日本の方言の50%は奄美以南の地域にある。奈良時代以前の発音が残っている。hをpと発音する。木の葉はこのpaと発音する。

ミンサー織り
 棉(mian2)のひものこと。印度のマジャール洞窟、6世紀の壁画に絣模様が描かれている。東南アジアに伝わって縦絣になり、琉球で横糸も染め分けるようになった。縦糸と横糸を交差させて作っていく。日本から積んできた昆布をおろし、絣を乗せて帰っていく。

(文責・KK1)

■戦争展・「絵本から戦争と平和を考える2」(伊藤)
 あいち平和のための戦争展2016が、8月11日から14日まで、名古屋市公会堂で開かれました。今年の戦争展は、安保法制の施行や、7月の参院選で3分の2の議席を獲得した安倍政権が改憲への動きを強めるなかでの開催となりました。
 愛知県歴教協では、昨年に引き続き、今年も「絵本から戦争と平和を考える」をテーマとして展示および読み聞かせを行いました。
 今年は、昨年から今年にかけておきた「平和と戦争」をめぐるさまざまな出来事と絵本とを往復することによって、現実と絵本をさらに深く読み、来場された方々の「そうぞうりょく」(想像力と創造力)を鍛えてほしいとのねらいで、以下の6テーマを掲げ、絵本を紹介しました。

(1) 沖縄の人びとは何を求めているのか?-オキナワ
    『へいわってすてきだね』『つるちゃん』
(2) ヒロシマで何があったのか?-ヒロシマ
   『8月6日のこと』『おこりじぞう』
(3) 放射能は何をもたらすのか?-第五福竜丸事件
    『ここが家だ』『トビウオのぼうやはびょうきです』
(4) 戦争はどのようにしてつくられるのか?-ヘイトスピーチ・安保法制・軍事予算
   『むこう岸には』『戦争のつくりかた』
(5) 戦争にどう抗っていくのか?-国会前デモ
    『わたしのやめて』『せんそうしない』
(6) 愛知から平和を希求する
    『ひろったらっぱ』『ぞうれっしゃがやってきた』

 また、今年度は絵本の読み聞かせもしました。小さな子どもたちや中高校生だけでなく、大人たちも絵本の世界に引き込まれ、好評でした。

 この章は「田園風景」というタイトルのとおり、オールコックが農村をブラブラ歩きまわって、見聞きしたことがらを書きつけています。水田の様子、はさかけと思われるもの、千歯こきに殻竿も発見(?)しています。畑の作物や樹木も見逃していません。具体的に作物や木の名前を挙げています。さらに土にもきちんと目を向けています。黒々とした豊かな土があってこその日本の農業、という感じです。なかなかの観察眼と思われます。質素な暮らしながら黙々と田畑で働く農夫、といった印象で書いています。
 この記述からは、かなり豊かな食生活が感じられます。基本的に自給自足の暮らしでも、生垣に茶を植え、酒も造り、多少ながら果物も。渋柿を干し柿にして甘くして食べるなんて知恵も。もちろん今日と比較はできませんが。
 囚人の身にも目を向けています。まるで動物の檻のような監獄のようすを書いています。酔って暴れた外国人の船員らを収監するものです。面白いのは、数々の落書きが見られることです。チェス盤もおいてあるとか、仲間の誰かが差し入れたのでしょうか。たまたま、このときには誰も収監されていなかったようですが。
 動植物についても熱心に観察しています。特に鶴(コウノトリと書いていますが)と鷹にはかなり詳しく書いています。それらが漆器や絵画のモチーフにされていることにも言及しています。魚では鯉にも詳しく触れています。
 当時、世界の頂点にいたイギリスとしては世界のあらゆる文物を収集し、情報も集めていたので、オールコックも「日本に関する情報はすべて報告していた」と大嶋先生。そういえばシーボルトもそうしていた。
 小出先生と林さんの手によるきしめんと天ぷら、おいしかった。ごちそうさまでした。      
(文責・KK2)

■第13回の中学校部会の報告(KK2)
 8月21日、港生涯学習センターにて、中学校部会を行いました。今回は川村さんが欠席されたので、加藤が書いています。川村さんの欠席の理由はこの中学校部会で学び舎の教科書を読み合っていることの報告なのだそうです。ご苦労様でした。その様子は次回にでも報告してください(編集担当注・今月と来月の会報で川村さんからの報告を掲載します)。

 さて今回の範囲はいよいよ近代へ入ってきた。市民革命から江戸幕府の崩壊までを扱っている。そして育鵬社の教科書との違いが大変際立ってきたところでもある。
 扉のテーマは万国博覧会。フィリピンの先住民を見世物にしている資料と近代化を誇る資料とで生徒にこの時代について考えさせたいところだ。

 はじめは「アメリカの大地に生きる」というテーマで合衆国の独立を扱っているが、かなりの分量で先住民が追われていくようすを書いているところが他社には見られない特徴だろう。一方でイギリス革命についての記述はない。「絶対王政」にも特に言及はない。限られた分量と時間の中で削らなくてはならなかったのだろうと思った。また、奴隷制にも触れてあり、挿絵の説明に「奴隷は読み書きを学ぶことが禁じられていた」ことが書かれてあり、「私は黒人奴隷だった」(岩波ジュニア新書)でフレデリック・ダグラスのことを思い出した。生徒にはよく紹介した本だ。
 フランス革命にはしっかり2ページを割いている。教出ではアメリカの独立とフランス革命で2ページなので、ここに分量を使ったということなのだろう。挿し絵も他社とは違うものも使用されている。革命前を描いた側注の挿し絵はこれと対の革命後を描いたものもあるので、それも載せてほしい、という声もあった。
 ところで「フランス革命」に何時間かけて授業されるだろうか。参加者は2時間程度ということだった。どこから扱うかにもよるが、加藤は3時間かけている。トゥサン=ルベルチュールが書かれているので、ナポレオンがどういう階層の利益を代表していたかがよくわかる。このあたりも他社にはない魅力だ。「ロベスピエールについても紹介し、革命がきれいごとではないことも教えている」、とか「ギロチンを作ったギロチンはギロチンにかかって処刑されている」など、様々な勢力の血みどろの抗争の部分もあることにも触れている、といった発言もあった。

 産業革命もその光と影がよくわかる資料が取り上げられている。授業では2時間はかかるところだ。さて驚きは育鵬社版である。なんと清教徒革命から産業革命までが2ページにおさまってしまっている。世界史の中でも大変ドラマティックなところなのに、なんとうすっぺらなことか。
 新鮮だったのは次の「グリム兄弟の願い」である。統一(国民国家形成)と産業革命に出遅れたドイツの統一を取り上げているところだが、それをグリム童話から書き起こしていることに参加者はいずれも新鮮な驚きを感じていた。だれでも子どもの頃にいくつかは読んだことがあるお話で、私もそうだが、こんな深い意味があったとはまったく知らなかった。国民国家統一と言語の問題は授業の中ではあまり意識してはいなかった。そう言えば小学校の国語の教科書に「最後の授業」(ドーデー)があった。背景には普仏戦争があったわけだが、当時、小学生の私は大変感動的な物語として読んだ記憶がある。教員になって、小出隆司氏から、そうではなく、ナショナリズムを搔きたてるために書かれたものだということを教えていただいたことを思い出した。

 この単元の後半はアジアである。インド大反乱とアヘン戦争も他社は合わせて2ページだが、分けて4ページを割いている。1テーマにどれだけ時間をかけるかは、それぞれだが、他社との違いの一つとして、実際に授業をしている人たちが書いている、ということが随所で感じられることだ。ここもそうだ。
 アヘン戦争では、その流通や種類など大変詳しいK氏が、微に入り細を穿つ解説をしてくださった。社会の「裏」と「表」を行き来しつつ、流れていく麻薬が「麻薬」たる所以を考えてしまった。日中戦争もまた「アヘン戦争」の様相をもっており、中国は今日薬物には大変厳しい対応をしているのもうなずける。

 さて幕府の崩壊に進むわけだが、「ドルと小判」では貿易による経済の混乱を取り上げるところだが、日本と外国との金と銀の交換レートの違いから説明しているところが重要だと思った。今、別の学習会でオールコックの「大君の都」を読んでいるが、彼もこのレートの変更を幕府に進言している。どういういきさつでこのようなレートになったものだろうか。補助教材の資料には大抵説明が載っているが、教科書で書かれているのは初めて見た。
 ここでもこの教科書が際立っているのは、「世直し」で2ページを割いているところだろう。実に詳しく、各地の「世直し一揆」を紹介している。他社が薩長の動きに分量を割くのに対してそれも書いてはあるが、これほどの分量で「世直し一揆」を書くのはこの教科書ならではだろう。挿絵の読み解きをしながら授業をするのも面白そうである。
 最後に「五箇条の御誓文」が「五箇条の誓文」。ここに「御」がいるかと常々思っていたので、「スッキリ」である。教出にはない「五榜の掲示」も本文で記述されている。

 次回以降、さらにこの教科書の特徴がはっきりしてくるだろう。佳境である。
(文責・KK2)

◆◇◆ 中学校部会のお知らせ ◆◇◆
内 容 : 学び舎歴史教科書を読む(7)-近代・第7章 近代国家へと歩む日本
日 時 : 2016年9月18日(日) 9:15~12:15
場 所 : 港生涯学習センター 第2集会室

■2016「学ぶ会」全体会に参加して・前編(川村)
 8月21日(日)、武蔵大学で行われた「学ぶ会」全体会に参加してきました。今年は愛知からは私と安井俊夫さんだけでした。
 午前中は、2016年度の総括と2017年度に向けての方針の検討でした。学び舎の教科書は検定に合格し、全国の国立・私立で38校5,000人くらいの生徒の手に渡ることになりましたので、その責任を果たすとともに、4年後の改訂に向けての取り組みをどうしていくのかという検討です。
 内容面では「軽量化」を図ることが提起され、本の大きさや120時間のテーマ数の削減の検討をしていくこと。財政・組織面では、次回改訂に3,000~4,000万円が必要と見込まれるので、2,000万円の不足分を教科書サポーター制度(1口6,000円で、1,000口(600万円)を4年間で2,400万円)を確立することで、改訂を保障していこうというものです。しかし、現在の到達点はまだ300口ということなので、このサポーターを広めていくことが大きな課題となっています。年間で6,000円は負担が重いという声もあるとのことで、年間2,000円や4,000円のコースをつくったり、1回だけのカンパを募集したりするなど多様な方法を考えていくとのことです。愛知県歴教協会員のみなさまにも、ぜひ財政面でのサポートを可能な範囲でお願いしたいと思います。
 広報面では、各地でこの教科書を使用したさまざまな研究会・学習会が開かれているとのことでした。愛知でも、おもに新婦人の人たちを中心に学習会(今年の戦争展で学び舎版歴史教科書を展示しているグループ)があるようですが、全体会では東京近郊の九条の会の方々の活動報告がありました。
 どこもきっかけは昨夏の教科書採択時の教科書展示のようで、午後の討論では、京都の本庄さんが、学校での教科書運動と市民運動とが結びつき始めたのは歴史的なことという評価をしました。また一方、採択校へのさまざまな抗議や嫌がらせについても、いくつか報告が行われました。                               (文責・川村)

*編集担当注・紙幅の都合により、次号以降で午後の報告を掲載します。

◆◇◆ 歴教協東海ブロック集会のお知らせ ◆◇◆
テーマ : 宝暦治水と輪中
日 時 : 2016年11月26日(土)13時にJR大垣駅集合~11月27日(日)
場 所 : かんぽの宿岐阜羽島
     *詳細は、次号でお知らせしますので、日を空けておいてください。
■天白村(現名古屋市天白区)に抑留されていたイタリア人(その4)
―アジア太平洋戦争時の敵国民間人―                 (丸山)

(その1)4月号
  1.戦時下の敵国外国人と、ある疑問
2.イタリア人が見た天白村(2冊の本から)
(その2)5月号
3.イタリアがなぜ敵国となったのか
4.天白での抑留生活
(その3)7月号
  5.天白の食糧事情
6.天白レジスタンス
(その4)今月号
7.「隠された地震」と「空襲」のダブルパンチ
(1)東南海大地震(1944.12.7)
   (2)B-29が天白を襲う(1944.12.13~)
(3)三河地震(1945.1.13)
  8,大空襲と名古屋城落城とイタリア人  
  9.天白村からから挙母(現豊田市)の向こうの村へ

7.「隠された地震」と「空襲」のダブルパンチ(注)
(1)東南海大地震(1944.12.7)
 パン事件・指切り事件の待遇改善レジスタンスが一息ついた1944(昭和19)年暮れ、12月7日午後1時36分、大地震に見舞われた。東南海地震である。日本同様イタリアも地震国であったが、ダーチャー一家はこんな大きな地震は初めてだった。天白収容所の漆喰、ガラスが粉々に砕け散り、立っていることもできなかった。とにかくイタリア人たちは無事だった。しかし余震はつづく。新聞、ラジオも止められ外界と遮断されていた彼らにとって、毎日をどう過ごしたのか。この冬は特に大雪だったらしく寒さと餓え、栄養失調でクリスマスも祝うゆとりを失っていたばかりか、大晦日、お正月まで奪ってしまう災難がつづいた。

(2)B-29が天白を襲う(1944.12.13~)
 余震の中、米軍B-29の大編隊が天白にめがけて飛来してきた。地震の6日後の最中の12月13日である。航空機関係の工場であった三菱発動機大幸工場(現:ナゴヤドーム)を狙ったものだ。この年の7月、サイパンがアメリカ軍により陥落し、本格的な日本本土空襲が始まることを彼らは知らなかった。「確かに不安になったが、同時にイタリア人たちはある種の期待感をもってこの編隊を眺めていた。ついに事態が動きだし、自分たちを救い出してくれる」(フォスコの愛した日本)と最初は感動を覚えたようだ。
ところが名古屋の片田舎の天白にも爆弾と焼夷弾が降ってきた。聞き慣れない空襲警報サイレンで期待から不安に変わると同時にダーチャーたちは、防空壕へ駆け込む日々が始まった。
この後、天白村への空襲は翌1月にかけて12月18日、新年1月3日、1月9日、1月24日と4回もつづくのである。表1(天白村への空襲)は、ピースあいちのボランティアが天白村史を参考にまとめたもの。1月24日未明は八事付近の軍需工場が狙われ多数の被害が出た。三菱や愛知時計のような軍需工場もないような天白も、野並、植田、八事、島田と中心が攻撃された。

―アメのように曲がった鉄骨が天白への空へ


(3)三河地震(1945.1.13)(注1)
 夜ごとのサイレンがなる度にパスポートや薬など貴重品を抱え右往左往しながら防空壕に駆け込んでいたダーチャー一家の追い打ちをかけるように、翌1月7日再び大地震が襲った。午前3時38分23秒に、愛知県の三河湾で発生したマグニチュード6.8の直下型地震である。 直下型であったため名古屋の被害はさほどではなかったが、三河では疎開児童が多数犠牲になる悲劇が起こった。世界は知っていたが日本国民は正確な事実を知らされなかった地震であった。
東南海地震、三河地震、空襲、情報入手の困難、寒さ、雪、燃え上がる名古屋、何一つ希望を見いだせない1945(昭和20)年の幕開けとなった。

注1:1944(昭和19)年12月7日午後1時に発生した東南海地震は、海洋プレートの沈み込みに伴い発生したマグニチュード7.9の地震で、授業・勤務時間帯に重なったこともあり、学校や軍需工場等を中心に死者1,223人の被害が発生した。その37日後、1945(昭和20)年1月13日午前3時に内陸直下型の三河地震が発生し、死者は2,306人に達した。(内閣府専門調査会報告書より)


天白村(現天白区)への空襲(注2)
1944年
昭和19年
12月13日野並字境根から戸笠池、鳴海 焼夷弾で稲荷消失、山火事、人的被害なし
12月18日境根地内82発投下される。避難中のため人的被害なし
12月31日戦時下・愛知の諸記録2015 p.11
1945年
昭和20年

1月3日植田一本松大半が消失。人的被害なし
1月9日東屋敷炊事場に小型爆弾落下、家屋破壊、人的被害なし
1月24日八事石坂遊園地から五社の宮、裏山方面遊園地の池畔の軍需工場への爆撃、多大の被害が出る。一家5人犠牲
2月21日天白地区山林なし(天白村史にはない)戦時下・愛知の諸記録2015 p.134
2月25日昭和区から天白村へ戦時下・愛知の諸記録2015、p.135では天白はない。P.11には記載(天白村史にはない)
3月12日平針西南より黒石の丘陵地帯12機による焼夷弾攻撃、秀伝寺、天白小平針分校、職員住宅焼失
3月24日深夜
25日未明八事地区焼夷弾投下。八事4戸全焼
疎開中の工場全焼
5月17日島田字菅田地区
野並菅田4戸全勝、野並23戸全焼

6月26日不明大型爆弾十発投下、1名犠牲
6月28日八事4人死亡
*当日の名古屋への空襲記録ないため日時等は不明確
参考:あいち・平和のための戦争展実行委員会『戦時下・愛知の諸記録2015』
ピースあいち所蔵資料
(注2)
※石戸谷滋『フォスコの愛した日本』では地震と空襲の記述が正確性を欠いている
※天白の空襲被害については、ピースあいちの所蔵資料を引用した。
※単なる名古屋への空襲の余波ではないだろう、、小さな疎開軍需工場。小学校分校まで被害を受けた。米軍攻撃目標には軍需関連工場と名古屋市街地、周辺部も含まれていた。
※3月24日はイタリア人収容所の周囲が破壊された。
※6月28日の空襲は、公的記録と食い違う。日時等の実証的研究が待たれる。


8.大空襲と名古屋城落城と本国イタリアの一斉蜂起
 1945(昭和20)年1月にカーチス・ルメイが司令官に着任してからは、焼夷弾を用いた市街地への無差別爆撃が始まった(注3)。3月の大空襲についてはフォスコ・マライーニは詳細に記述している。特に3月12日、19日、24日の無差別爆撃で、市中心部は焼け野原となった。特に24日の空襲は天白収容所の周囲も襲った。八事のが焼け落ちた。
ダーチャはこの空襲をはっきり記憶している。収容所の2階から北方向にあたる燃え上がる炎をつめ激しく泣きながら父フォスコにいった。「ドウシテ、パパチャン、ドウシテ」。
ダーチャの記憶の刻まれた空襲の原点である。「夜中に並んで飛んでいくエンジンの音、それはまだそこに、私の耳のなかにある。それは恐怖の音だった」(『ダーチャと日本の強制収容所』)と後に記している。
5月14日、名古屋城が燃え落ちた。まさに落城であった。この19日前の4月25日、本国イタリアではミラノの一斉蜂起により最終局面を迎え、パルチザンに捕らえられたムッソリーニは4月28日処刑された。この歴史的事実を誰も知らなかった。

注3:カーチス・ルメイの就任に以前、米軍は市街地爆撃を計画していた。

9.天白村からから挙母(現豊田市)の向こうの村へ
 名古屋城が消えた5月(注4)、収容所の管轄警察が「今から挙母の向こうに行く」といった。挙母の向こうとは西加茂郡石野村石ケ瀬東広瀬、挙母(現豊田市)の中心部から奥へ入った東広瀬という集落だ。イタリア人の空襲犠牲者を出さないための集団疎開である。イタリア人15名(1944年4月29日1名解放された)が三河新四国八十一番札所 曹洞宗広済寺に移された。しかし疎開後も名古屋南部、天白方面への空襲はつづいた。

注4:名古屋城が焼け落ちた5月14日以前に、西三河の広済寺に移されたかどうかは分からない。イタリア人の移動後、オランダ人捕虜が広済寺の隣りの光沢寺に移っている。5月19日である。

◆全県委員会
内 容 : 2016年度前半期の活動報告・後半期の活動予定の審議等
 日 時 : 2016年10月1日(土) 10:00~12:00
場 所 : 南山高等・中学校女子部

◆戦争学習の会
内 容 :「ウサギからみる近代史―岐阜・愛知を中心に」
報告者:中尾浩康さん(南山高等・中学校男子部)
 日 時 : 2016年10月1日(土) 13:15~16:15
場 所 : 南山高等・中学校女子部

◆ 歴教協東海ブロック集会
テーマ : 宝暦治水と輪中
日 時 : 2016年11月26日(土)13時にJR大垣駅集合
~11月27日(日)
場 所 : かんぽの宿岐阜羽島
費 用 : 1万3,000円程度
 *詳細は、次号でお知らせしますので、日を空けておいてください。

 夏休み。1・2年生向けの夏期講座として「ブラナゴヤ」を開設。勤務校周辺の歴史を探訪する、進学とはちょっとかけ離れた「教養」講座です。わずかな生徒を連れ、講座の時間(13時から1時間半)、解説をしながらブラブラしました。見晴台考古資料館の学芸員の話を聞いたり、最終日には名古屋空襲の体験者の話を聞いたりもしました。意外と先生方からの問い合わせも何件かあったのですが、「今年初めての企画だから」と断ってしまいました。来年度は、教員・保護者も巻き込めれば。(K)