goo blog サービス終了のお知らせ 

どこへ行っても補欠会員

いつでもどこでも補欠人生を歩む自称「補欠会員」の嘆きの日記です。

革命は始まった

2011年01月27日 | Weblog
管内閣、これほどわかりやすい内閣はない。

歴代自民党内閣は、アメリカと検察・官僚・マスコミには逆らわないのが鉄則となんとなく感じていたが、あくまで感じていただけ。いわば私が自分勝手に想像していただけだった。ところがその鉄則を下々にあからさまに示してくれたのが管内閣。「私はアメリカ様やマスコミ様の言うとおりにしますからどうぞ応援してください」という本音を下々に見せてしまった。素晴らしい内閣ですね(爆笑)。

今回、アメリカも検察も官僚機構もマスコミも管直人も大チョンボをした。従来通りのやり方(意に沿わない内閣は潰す)が通用すると思って実行したが、それがバレバレになってしまったのが大誤算だ。小澤が一人で頑張って徐々に応援者がふえている。それが計算違いだった。

江戸時代は「徒党はご法度」で情報管理を行ない、明治以降今日まではマスコミを「法度内」に閉じ込めて(味方にして)情報管理に成功してきたが、時代が変わった。アウトサイダーの「噂の真相」は廃刊にできても、いまやtwitterやブログやネット配信弱小メディアを抑え込むことができなくなっている。情報ダダ漏れの時代に入っている。

朝日・毎日・読売・共同や系列テレビ局などはまだ必死に抵抗を続けているが、週刊誌やタブロイド紙の一部は明らかにマスメディアとは一線を画す方向にシフトしている。泥船から非難するネズミのように。

この大きなうねりは止まらない。旧勢力が一時的に勝利を収めたとしてもあくまで「一時的」でしかない。水は高いところから低い所に流れる。お天道様は東から上がって西へ沈む。「革命」は始まった、と私は確信している。

与太記事の極み、毎日新聞山田孝男の「風知草:政倫審は司法妨害か」

2010年12月20日 | Weblog
 毎日新聞の山田孝男が性懲りもなく与太記事を書いている。支離滅裂・具体性ゼロの「罵詈雑言オンパレード記事」だ。こんなに情緒的で煽情的な論調は昔の毎日にはなかった。まるで朝日のようだ。毎日も堕ちたものだ。

 与太記事を青色で紹介、私がそれにコメントを付けて掲載した。
 12月20日毎日新聞より
 http://mainichi.jp/select/seiji/fuchisou/

風知草:政倫審は司法妨害か=山田孝男

 また小沢一郎だ。今度は政治倫理審査会である。面会だ、説得だ、明日だ、来週だとニュースはうるさいが、政局の本質はサバイバルを探る「一兵卒」の反転攻勢だ。スジを通すと見せて実は曲げる、小沢の、小沢による、小沢のための茶番劇が蒸し返されている。


 「スジを通すと見せて実は曲げる」とは具体的には何のことだ。「小沢による小沢のための茶番劇」とは具体的には何のことだ。曲がりなりにも新聞記者ならば、これこれこういう事実が「曲げ」だとか「茶番」だとか書くべきではないか。
 
 民主党幹事長が政倫審出席を促し、一兵卒が拒んだ。一兵卒がおかしいのか、追いつめた側が悪いのかと真顔で自問するテレビキャスターの心細い解説を聞き、本当にしっかりしてもらいたいと思った。

 しっかりするのはお前の方だ。Aが正しいのかBが正しいのか真顔で自問するのが真っ当な人間であり、最初からAが悪いと決めつけているのでは阿呆なネトウヨと同じだ。いや失礼しました。阿呆なネトウヨは純粋だが、山田は最初から悪意で扇動的な記事を書いているのだから始末が悪い。

 政倫審なんか必要ないという小沢擁護論には二つの流れがある。「司法妨害」論と「やっても無意味」論だ。司法妨害とは、小沢はまもなく強制起訴される身であり、国会の審査は裁判の妨げになるという理屈で、小沢自身がこの点を強調している。だが、強制起訴の対象は土地取引をめぐる政治資金規正法違反(虚偽記載)事件で、小沢にまつわる疑惑のごく一部でしかない。国会は個別事件の事実解明で司法に対抗しようとしているわけではない。
 「やっても無意味」論は、小沢は既に何度も記者会見で説明しており、もはや問うべきことはなく、答弁の繰り返しが避けられないので空騒ぎに終わるという主張である。たしかに実のある答弁は期待できないだろう。しかし、だから小沢を呼ぶべきでないという理屈は通らない。
 

 国会の審査が裁判の妨げになるとは小澤は言っていないはずだ。ありもしない捏造記事を書くべきではない。小澤が言っているのは「裁判になる以上、余分なことは国会では言えない」という意味だ。だから「やっても無意味」はそのとおり。だから小沢を呼ぶべきでないという理屈はそのまま通る。それに「小沢にまつわる疑惑」とは一体何なんだ。具体的に言ってみろ。何も具体的に言えないくせに印象操作のための記事を書くな。 

 なるほど小沢は何度も記者会見に応じてきたが、カネの出所と使途について誠実に説明したことはない。素人には読み解けない複雑な報告書を示して「すべて公開」とうそぶき、「法律に違反していない」と突っ張ってきたのである。

 「素人には読み解けない複雑な報告書」とは一体何だ。俺も素人だが決算書ぐらいは読める。確かに決算書が読めない人は大多数だが、いやしくも新聞記者の端くれだったら商売なんだから決算書ぐらいは読めるはずだ。「すべて公開とうそぶき」とはどういうことだ。公開するのが悪いのか?

 小沢に問うべきことはたくさんある。どこで億単位のカネを調達したのか。なぜ調達できるのか。解散した政党にのこった巨額の国費を自分のサイフに移したのは事実か。

 「解散した政党に残った国費を自分のサイフに移した」という事実はない。ありもしない捏造記事を書いて国民を誘導するのは犯罪行為だ。山田孝男は犯罪者(確信犯)だ。こんな犯罪者の書く記事を掲載する毎日新聞も犯罪者の片割れと言っても過言ではない。

 政治改革効果で金満政治家が激減した中、小沢だけが破格の資金力で選挙を牛耳り、子飼いを増やして首相の座をうかがっている。誰でもやっていることではない。その時代錯誤が問題か、時代錯誤に疑問を持つ方がおかしいのかといえば、答えは自明ではないか。

 選挙にはカネがかかる。基盤もカネもない新人を育てるために資金援助をする行為は、褒められこそあれ非難される筋合いのものではない。誰でもできる話ではないが小澤はやっている。その行為を問題にする感覚の方が時代錯誤であるのは自明ではないか。

 小沢の大志は政界再編なり国際貢献なりであると長く信じられてきた。が、振り返れば、それらは、ウソとは言わぬまでもタテマエに過ぎず、真の目標は自分のサバイバルであり、そのために選挙必勝と多数派工作の無限運動を繰り返しているだけではないのかという疑念が浮かび上がっている。

 いちいち反論するのもばかばかしい下司の論評だ。酒を飲んでも疑惑、鮨を食っても疑惑、女性と会話しても疑惑だなぁ(笑)。そもそも選挙に必勝を期するのが何で悪い?どこが疑惑なんだ? 

小沢は首相選びである民主党代表選に挑み、国会議員票で6票差まで肉薄した。その力のすべてとは言わないが、ある程度は潤沢な資金に依拠している。政倫審にせよ、証人喚問にせよ、国会が小沢に説明を求めることは司法妨害でも偽善でも狂気でもない、議会制民主主義の当たり前の作用だろう。

 山田孝男、議会制民主主義も憲法の理念もまったく理解していない。国会がやるべきことは魔女狩りではない。

 民主党は白と黒が共存するシマウマ政党だと言ったのは片山善博総務相だった。片山によれば、白とは権力を正そうとする勢力であり、黒とは権力をむさぼる勢力である。

 片山がどういう意味で言ったのか知らないが、権力を正そうとする勢力(白)とは、国民が主権者である世の中にしようとする勢力(小澤など)で、権力をむさぼる勢力(黒)とは、既得権に固執する勢力(代表はマスコミ)である。

 権力をむさぼる政治家たちの情熱は「選挙至上主義」に表れる。次の選挙に勝つためには何でもする。地位を守るためには国家権力さえ利用する。民主党はそういう人々を包含する政党であり続けるのか。大きな岐路にさしかかった。

 とんでもない誤謬だ。選挙結果こそが民意を表すもので、新聞社などが誘導する世論調査が民意ではない。地位(既得権)を守るために国家権力を利用しているのは官僚機構やマスコミであり、それに追従しているのが管内閣であり、民意(選挙)でもって権力構造をひっくり返そうとしているのが小澤だ。そうはさせじという勢力(マスコミ・官僚)と壮絶なバトルを繰り広げている。主権者国民の一人として私は小澤に肩入れをする。


アメリカが食品安全近代化法を可決

2010年12月11日 | Weblog
9日10日と飲み会が続いてブログを更新できなかった。今日は百姓(家庭菜園)。

家庭菜園程度だが百姓をやっている。自家消費のコメと野菜だ。そこで今日の話題。「米議会が食品安全近代化法を可決」。新聞に載っていなのでネット検索から拾った。
http://shadow-city.blogzine.jp/net/2010/12/post_9ec1.html

さてなぜこれが「話題」なのか、なぜ新聞に載っていないのかを考えてみる。法案の骨子は、国民が口にする食品の安全のために「種子を国家管理する」というものだ。大いに結構じゃないか、と大半の人が思うだろう。私も「賛成!」と言いたくなる。国民生活を守るための当たり前のささやかな法律だから新聞が書かないのか?

しかしこの法案を通したのは議会だが、法案の骨子を作ったのがFDA(食品医薬品局)で、FDAの役員が穀物メジャーや種苗農薬化学医薬品業界関係者(その御用学者)で占められているとするならば「ちょっとまった!」と言いたくなる。大手化学会社や種苗会社が儲けるための法律じゃ困る。

拾ったネット情報では「アメリカで野菜栽培禁止令発令!」と刺激的なタイトルが付いている。野菜栽培を禁止しているわけではないが、例えば零細農家が自家消費のほか余剰農産物を地元の農産物直売所で販売することを禁止している。実際には禁止にはならないだろうが、法に沿った農産物であるか否か(政府が認めた基準をみたしているか否か)が厳しく管理されることになる(管理義務を負うのは直売所法人や法人市場)。個人が道路脇で直売するのは禁止になるだろう。

極めつけは政府認定以外の種子の保存を禁止しているところだ。大手種苗会社が販売する一年交配以外の種子の保存まで禁止となれば、例えば自家で栽培して収穫し、種を取り、それを翌年播種して育て、また収穫するという伝統的な零細農家が法律違反で軒並み逮捕されることになる。「家庭菜園禁止法」という大袈裟なタイトルもうなづける。

我が家に当てはめた場合はどうか。目下は自家消費が殆どで余剰生産物は子供や近所に配る程度だ。種や苗は買ってくる(当然政府お墨付きだろう)。どうやら御用にはならないで済みそうだが安閑としてはいられない。たまには種を取ることもあるし、自然発芽したものを栽培することもある。風に吹かれて自然交配自然発芽する場合もある。一口トマトやカボチャなどは結構自然に生えてくる。御用になっちゃうのかよ(笑)。

問題は農業が持つ本来の姿(連綿と種を継承していく農法)を否定して、大資本がすべてを支配下に収める農業になっていいのか否か、伝統や文化は破壊されてしまうのではないかという点です。アメリカの後をまっしぐらに進んでいる我が国だから、こうした悪法が輸入される危険性が高い。

我々には自由に作物を作り、それを食べ、生きていく権利がある。政府認定の餌以外は食べてはいけないとなれば家畜同然だ。

恐れ入った、読売の社説

2010年12月07日 | Weblog
ゴミ売りと揶揄される読売新聞が、今日の社説で管直人を脅迫している。内閣支持率が下がるのは俺様の言うことを聞かないからだとばかり、あれこれと注文を付け、言う通りにしなさいと述べている。まさにゴミ売り。
http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20101206-OYT1T01191.htm
 ゴミの言い分(社説)は青色、その文意をわかりやすく私が(1)~(5)に分けて見出しを付けた。以下ご覧ください。

 (1)お前人気がないぞ
 菅内閣の支持率が、見る間に低下し、「危険水域」に入った。外交、内政の課題をきちんと処理できないことに対する国民のいらだちの表れではないか。読売新聞の世論調査で内閣支持率が25%に下落した。4人に1人の支持しかないことになる。不支持率は65%と跳ね上がった。不支持の理由の第一が「首相に指導力がない」で36%だった。発足後半年を迎える「有言実行内閣」に大きな疑問符がついた形だ。

 (2)TPPへ参加しろ
 経済政策への不満も根強い。円高・デフレ対策を盛り込んだ4兆8000億円超の補正予算は成立したものの、「今の経済情勢に適切に対応していない」と答えた人が83%にも上った。景気低迷への不満だけではあるまい。財政の危機的状況や社会保障政策の問題を放置していることへの批判だ。抜本的な手を早く打つ必要があるという国民の意思が示されたとも言えよう。政治問題化しつつある環太平洋経済連携協定(TPP)への参加については、与党内で賛否が分かれている。だが、国民の6割はTPP参加に賛成だ。こうした声を背に首相が民主党を一本化できれば、支持率低下に歯止めがかかるのではないか。

 (3)小澤を切れ
 小沢一郎元代表の「政治とカネ」の問題が進展しなかったことも指導力不足が原因と見られている。民主党が適切に対応していないという人は、実に86%だった。菅内閣発足後の世論調査の推移をみると、首相が「脱小沢」路線を鮮明にした時、支持率は上向く傾向がある。小沢氏の問題を早急に前進させることが、支持率回復のカギとなろう。

 (4)アメリカの言う事を聞け
 米軍普天間飛行場の移設問題が、菅内閣で解決に向かうと思わないという人は85%にも達した。ここまで問題をこじらせた鳩山、菅両首相の責任は極めて重い。中国、ロシアとの外交を立て直すためにも、日米同盟の強化が急務である。それなのに、普天間問題の日米合意に反対する社民党に協力を求めるのは筋違いだ。 

(5)俺様の言うとおりにするのがお前が生き延びる唯一の道だ
 衆院選が行われた場合の比例選での投票先については、自民党と答えた人が、民主党より多かった。逆転したのは、鳩山政権の末期以来だ。状況が似てきている。菅首相は、これから予算編成、税制改革など指導力が問われる難問に直面する。どう打開するのか。一つ一つ地道に課題を解決していくことが、国民の信頼を取り戻す唯一の道だ。そう再認識して、政権運営に当たるべきである。

 いやはや実にわかりやすい社説だ。とにかく今までどおり(自民党と同じよう)にしなさい。小澤が言うような革命的な変更は絶対に許さない。だから(3)小澤を切れ!と脅迫している。この(3)が今日の社説で一番言いたかったことだ。ゴミ売り新聞の面目躍如ですね(笑)。

今日もまた毎日新聞批判、風知草の山田孝男

2010年12月06日 | Weblog
 朝日、読売より多少ましな毎日新聞だが、岩見、岸井、山田などの幹部クラスはいただけない。昔の栄光にどっぷり浸かって現実が見えていないのだろう。弱小毎日の生きる道は、たとえ発行部数100万部に落ちようとも、良質なハイクオリティペーパーとしてコアな読者層を引き付けていくしかないはずだが・・・

 ところが彼らは民主党(というより小澤)が進めようとしている再販制度廃止、クロスオーナーシップ禁止などの正常化(民主主義を担保するためのマスコミの在り方)を断固として阻止しようと、朝日読売などの腐れマスと談合し、小澤バッシングの横並び談合報道に狂奔している。その論調はヒステリックでとても正気とは思えない。狂気の沙汰だ。

 今日の毎日2面、山田孝男の狂乱記事「風知草」を紹介する。
 http://mainichi.jp/select/seiji/fuchisou/news/20101206ddm002070083000c.html

 【転載開始】
 風知草:「政治とカネ」は空疎か=山田孝男
 
 伝説によれば、サンタクロースの起源とされる聖ニコラスは、貧しい隣家に金塊を投げ入れて娘の身売りを防いだ。先週公表された09年政治資金収支報告書によれば、民主党の小沢一郎元代表は衆院選の候補者に500万円ずつ配り、自公政権の延命を防いだ。ニコラスは聖人に列せられたが、小沢は陰険な金権政治家と見なされている。不当だろうか。私はそうは思わない。

 いま、師走の永田町では内閣改造やら大連立やらが取りざたされている。菅直人首相の失策続きで、小沢待望論の焼けぼっくいにも火がついた。小沢については当コラムで何度も書いてきたが、金脈を問うこと自体が誤りであるかのような最近の、一部の狂った論調に反論しておかなければならない。

 ふた月ほど前、名門月刊誌の編集後記の中に、こんな一節を見つけて驚いた。「……推定無罪で報じるべきメディアは、検察が立件もできなかった疑惑について、『政治とカネ』という空疎なスローガンを繰り返して、小沢氏を攻撃し続けた。--」

 メディア批判はあって当然だが、メディアは検察が立件できなかった疑惑に立ち入るべきでないという惰弱な自制に甘んじるわけにはいかない。「政治とカネ」は空疎なスローガンでしかないという虚無的な断定も受け入れがたい。

 リクルート事件を暴いた朝日新聞の調査報道は、検察が立件を見送ったにもかかわらず、記者たちが疑惑を丹念に調べ直したところから生まれた。「政治とカネ」をめぐる国会内の化かし合いはともかく、小沢の金脈を問うことは空疎でも無意味でも偽善でもない。

 政治資金収支報告書によれば、小沢は昨年だけで9億円集めて4億円配った。選挙資金の配分は政党の戦術、幹事長の裁量だが、巨額にのぼる収入の不明朗さが際立っている。今回の公表で注目されたポイントは、9億円の中に旧「新生党」解党時(94年)の政党資金の一部、3億7000万円が含まれていたことだ。同党には4億8000万円の税金(立法事務費)が支給されていた。法律上、返還の義務はないが、道義上、小沢の政党私物化は許されるかという問題だ。

 当節、そのくらい厚かましくなければ中国、ロシアと渡り合えぬという声もある。明朗清潔で凡庸な政治家より、陰険な金権政治家の方がマシだという期待もある。それが小沢待望論の背景になっている。人生で3度、小沢と組んだ海部俊樹元首相(79)は、近刊の自伝で、小沢の本領は「人の陣地を手に入れて、誘惑してその気にさせて、壊す」ところにあり、「あの性癖は死ぬまで治らない」し「病としか言いようがない」と回顧している(「政治とカネ」新潮新書)。小沢待望論者は海部の言う病的な循環を国策への情熱と錯覚していると思うが、言ったところで聞き入れられまい。

 剛腕待望はいいが、公平・公正・正義に期待する常識から離れて政治は成り立たない。小沢が、郵便不正事件の元厚生労働省局長や、足利幼女殺害事件の元服役囚と同列の受難者であるという非常識な宣伝にくみするわけにはいかない。

 参院選前は謹慎した小沢が選挙後は代表選を仕掛け、就任間もない首相の追い落としを図り、政局混迷に拍車をかけた。常識を見失う愚を繰り返すべきではない。
【転載終了】

 馬鹿につける薬はないというがまさにそのとおり。山田孝男は論理的思考ゼロのネトウヨと殆ど同類だ。「政治とカネは空疎なスローガンではない」と言うならば、空疎なスローガンではない具体的な事実を一つでも挙げてみろと言いたい。挙げられないだろう。ただただ「疑惑がある」「説明責任を果たせ」と非理論的な扇動を行っているだけだ。

 ひどいものだ。こんな馬鹿の駄文を載せるようでは弱小毎日の将来はない。早晩消えてなくなるだろう。

毎日新聞論説委員福本容子、ウィキリークスを語る

2010年12月05日 | Weblog
 今日の毎日新聞社説:論調観測を読んだ。上段の社説は読まない。いつもの与太話だから読む価値なし(笑)。下段の論調観測は福本容子の署名記事だ。福本容子の名前に釣られて読んだ。結論を先に言うとまあまあかな。

 彼女は経済部が長かったのじゃないかな?経済記事を書く女性記者は珍しいので名前を覚えた。彼女の論調(経済社会観)は良くいえば常識的、悪く言えばつまらない(笑)。しかし女性ならではの感性を時々見せる。社会部で活躍して欲しい記者だ。なにはともあれ話題のウィキリークスについて福本容子が語った。読んでみよう。
http://mainichi.jp/select/opinion/editorial/archive/news/20101205ddm004070013000c.html

【転載開始】
社説:論調観測…ウィキリークス 何が公益で何が危険か
 内部告発サイト「ウィキリークス」が米政府の外交公電を大量に入手し公開を進めている。外交と機密情報、内部告発の是非、インターネット時代のメディアの責任など難しいテーマを含んでおり、世界中で論議が盛んだ。自らの活動と密接に関係する問題であるだけに、新聞も悩みながら論じているようだ。

 ウィキリークスから公電情報を入手し報道したメディアの一つ、英ガーディアン紙は、「情報の大半は米政府の公式見解と大して違わない」と機密性の低さを指摘したうえで「(情報暴露に)概して大人の対応をしている」と米政府を評価。同紙から公電情報を譲り受け報じたとされる米ニューヨーク・タイムズ紙は、「(今回の暴露)情報は米国内外の人々が知るに値する政策を明らかにしており貴重」と露骨なまでの肯定ぶりだ。

 一方、ウィキリークスから情報提供の打診を受けながら条件が折り合わず入手しなかった米ウォールストリート・ジャーナル紙は、ウィキリークスの創設者、アサンジ氏を「自由社会のためになっていない」と非難しつつも、「あいまいな法的根拠で起訴すれば、ジャーナリストの起訴に道を開きかねず心配」と警戒。機密維持が困難なインターネット時代だからこそ、政府は機密の量自体を少なくし、アクセスできる人物も限定すべきだと論じている。

 これとは方向を異にするのが、「新しい時代に合わせて、政府や企業が機密情報の管理を強化するのは当然」と主張した読売だ。「ネット時代だからこそ、メディアも含め情報を公開する側は、これまで以上に自らに厳しく、抑制的でなければならない」とした。政府に情報開示を迫り、政府が隠したがる情報を掘り出して報じる役割の報道機関が自ら「抑制」を唱えるとはどういうことなのか。

 毎日は、外交関連の会話が部分的に暴露されることによる外交上の打撃や政府関係者の身の危険を指摘しつつ、ウィキリークスが10月に公開したイラク戦争関係の機密情報について「米政府が自ら公表してしかるべきだった」と、暴露の意義も認めている。一方、朝日は4日現在、国内全国紙で唯一、この問題を社説に取り上げていない。

 結局、非開示情報の公表が公益か否かは、私たちが良識に従い一件一件判断するしかない。一律に規制を強化したり、組織の不正を暴こうとする人を短絡的に締め出そうとすれば、自由や民主主義を阻害し、私たちの首を絞める結果になるだろう。【論説委員・福本容子】
【転載終了】

 福本容子は、ガーディアン、ニューヨーク・タイムズ、ウォールストリート・ジャーナル、読売、毎日の論調と、朝日の論調なし、読売が唯一規制強化で際立っていることを紹介している。そして「非開示情報の公表が公益か否かは、私たちが良識に従い一件一件判断するしかない。一律に規制を強化したり、組織の不正を暴こうとする人を短絡的に締め出そうとすれば、自由や民主主義を阻害し、私たちの首を絞める結果になるだろう。」と「常識的」な結論で締めくくっている。いいんじゃないですか。

もうろくした岩見隆夫

2010年12月04日 | Weblog
 今日の毎日新聞、岩見隆夫の「珍聞近見」を見た。
 http://mainichi.jp/select/seiji/iwami/index.html
 
 この男、昔から政界インサイダー情報専門の記者で、実力者からリークされた秘話(オフレコ)を、当人の許可を得て書いたり、時効になった昔話を得意げに書いていた。中身のない話が多いが、それでもたまには「ふ~ん、あいつ(あの政治家)はあの時そんなことを言っていたのか」と参考になることがあるので見ている。

 毒にも薬にもならない与太話が多かったが、最近の岩見隆夫には明らかに「毒」がある。恣意的なコラムを書いている。方向は明らかに旧体制維持、反小澤だ。以下、岩見の駄文を転載する。

【転載開始】
近聞遠見:「柳田現象」がひろがる=岩見隆夫

 昨今の政界、タガがはずれたみたいだ。節度なく勝手なことを言い、とがめられるとすぐ謝る。問責だ、懲罰だ、と政治の本筋でないことに忙しい。<柳田現象>とでも言うしかない。柳田稔前法相の軽口はその後も続いているという。

 命取りになった最初の軽口、例の、「法務大臣とはいいですね。二つ覚えておけばいいですから……」で始まる国会軽視発言が表ざたになったのは、11月16日の衆院法務委員会、質問者は自民党の河井克行元副法相だ。舞台は2日前の大臣就任祝賀会(広島市のホテル)、参加の一人から、河井は発言記録を入手していた。

 当日、会場には新聞、テレビも数社入っていたが、なぜかどこも報道していない。これも釈然としないが、地元では、軽口常習者で柳田は通っているそうだから、「またか」 で聞き流したらしい。・・中略・・

 軽口の第2幕は、法相辞任が11月22日で、休日を挟んだ24日のことだ。柳田は衆院議員会館のエレベーターのなかにいる。周りを民主党の新人議員に囲まれながら、柳田がつぶやいた。「知名度と顔が売れちゃって、街を歩いていてもみんなにばれてしまうんだなあ」。楽しげである。新人がすかさず口を挟む。「いまなら、菅さんのあとの総理になれますよ」「いやあ、そうだねえ、名が売れてるからなあ」。

 軽口が止まらない。たまたま乗り合わせた自民党の中堅議員は耳を疑う。「あれだけ国会を騒がせたのだから、反省して謹慎しているのかと思ったのに」とあきれ顔だった。とにかく、言葉がゆるみっ放しだ。
【転載終了】

 岩見は柳田発言を国会軽視発言と決めつけているが、どこが国会軽視になるのか?『個別の事案についてはお答えを差し控えます』『法と証拠に基づいて適切にやっております』という「木で鼻をくくったような答弁」が国会軽視になるならば、歴代法相はみな国会軽視であり、国会はこうした法相答弁を大問題として取り上げなければならない。しかしそんなことは一度もないし、柳田法相の答弁も国会では問題にはならなかった。

 『個別の事案についてはお答えを差し控えます』『法と証拠に基づいて適切にやっております』この2つの答弁で対応できるという院内の常識を、公衆の前で公然と語ったのがけしからん(国会軽視だ)と騒ぐのではまるで漫画だ。いや漫画以下ですから漫画に失礼ですね。

 エレベーター内の話、これもインサイダー情報で岩見独特の書き方だ。たまたま乗り合わせた自民党の中堅議員からリークされたのだろう。「あれだけ国会を騒がせたのだから、反省して謹慎しているのかと思ったのに」と書いているが、他人の話を載せているだけで、自分が責任を持って取材した形式にはなっていない。「あきれ顔だった」「言葉がゆるみっ放しだ」と自分の感想をつなげて、全体的に恣意的なコラムに仕上げている。

 もうろくした岩見隆雄、新聞記者とは言えないでしょう。あ、失礼しました。元新聞記者で今はなんの責任もない駄文書きでしたね。

超・久しぶりの投稿

2010年12月03日 | Weblog
地元の公職が回ってきた関係でブログ更新をさぼって以来、2年が経ってしまった。
超・久しぶりの更新です。そろそろ再開しようかと思っていますが何を書いていいやら。

ブログを始めたきっかけは小泉構造改革の批判だったから、小泉が退陣してからは更新意欲がなくなってしまった。当時の世相は「構造改革万歳」一色でしたから、へそ曲がりの私にとってはネタには困らなかった(笑)。

今書くとすればやはり「小澤」でしょう。小澤バッシング一色の世相に異議を申し立てる。これこそ一貫して補欠人生を歩む私にふさわしいテーマではないかと思います。

ポチポチと書いていきましょう。

中谷巌コラム・・2

2009年01月24日 | Weblog
2009.01.20中谷巌コラムから

 もう一つは、明治以来の中央集権体制を解体し、「廃藩置県」に匹敵するくらいの大きな制度改革を断行することである。中央官庁に集結した優秀な官僚が今度は疲弊した地方を再生させるために地元に戻り、彼らに自分の故郷が文化の香り豊かな元気いっぱいの地域にする術を死にもの狂いで考えてもらう。これくらいの大改革が必要だと思う。

↑この文脈から、中谷氏の地方分権に対する思い入れは伝わってくる。ただ、現行都道府県を合併するだけの道州制なのか、或いは道州を「国」とする分権なのか、廃県置藩(国と基礎自治体の2層構造)なのか、中身はよくわからない。学者だから当然しかるべく研究はしていると思う。遠からず中谷流地方分権論を展開してくれるものと期待している。

「廃藩置県に匹敵するくらいの大きな制度改革」と言っているから、どうなんでしょうかね、廃県置藩なのかな。

2006年8月22日の日記「小沢一郎の地方分権論」に書いたが、廃県置藩(国と基礎自治体の2層構造)は面白い。末端に生きる庶民に自立(即ち分権)を促す制度だが、中央集権的色彩もある。道州制とどっちがいいのか、地方制度調査会に任せるだけではなく、専門家(経済学者・社会学者)が外野席から積極的に発言して欲しい。

経済学者に求められるものは社会的視点

2009年01月23日 | Weblog
 昨日の日記で中谷巌氏のコラムをそのまま転載した。正直な話、中谷氏が転向するとは思わなかった。バリバリの構造改革派でしたからね。

 この日記は3年前から構造改革と小泉・竹中の悪口をさんざ言ってきた。もう言うことはすっかり無くなったし、昨年から新聞論調が反構造改革に微妙にシフトしてきたから日記で悪口を言う楽しみが薄れてきた。それでついついサボり癖がつき、日記を書かなくなってしまった。私はへそ曲がりですからねぇ、世相に逆らうのが好きなんです(笑)。

 私は経済学などに何の縁もない素人だが、社会的視点から構造改革路線に疑問を感じ、新自由主義批判を続けてきた。素人だからうまい言い方はできないが、素人なりに書いてきたつもりだ。視点は、現在の社会構造と政策によって予想される将来の社会構造。今後はどういう社会が望ましいのか、という視点だ。私の主張はアメリカ型社会×、北欧型社会○だ。

 政治の原点は民百姓を幸せにすること。経済学も「経世済民」だから民百姓の生活を良くすることが主眼でなければならない。経済学者は、竹中みたいに屁理屈をこね回すのではなく、社会的視点を持って頂きたい。