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16年目突入。ビッグイベントに心躍らせながら、草の根のスポーツの面白さにも目覚めている今日この頃です。

PL学園 最後の夏を終える。 『高校野球最強チーム』は歴史の彼方へ。

2016年07月20日 | 高校野球

大阪の雄、
というよりも、
”日本高校野球の顔”ともいうべきPL学園が、
大阪大会2回戦で敗退。

学校の方針により、
来年度からは休部扱いとなり、
60年にわたる伝統の野球部は、
記憶の彼方に去ることになりました。


『PL休部』
という衝撃的なニュースが出たのは、
2年ほど前のこと。

その前から、
度重なる不祥事で大会への参加を自粛していたりしていたので、
ネガティブな報道が続きましたが、
『あのPLが・・・・』
ということで高校野球ファンのみならず、
世間に衝撃を与えました。

それからはまさに茨の道。

素人監督がベンチに入り、
選手だけで試合を進行させるスタイルで、
この2年と少し、戦いを続けてきました。

しかし昨年度より新入部員の募集を行わず、
今年度は3年生部員のみの12人で、
最後の夏を迎えました。

その間かしましくいろいろな報道が駆け巡りましたが、
結局は学校側、いや、教団側が野球部の存続を良しとせず、
そのまま今期の活動を終えると、
静かにユニフォームを置く・・・・・という結論に至ったということです。


PL学園


いまさら言うまでもなく、
昭和40年代からの高校野球を、
名実ともに引っ張ってきた存在でした。

全国にスカウト網を張り巡らし、
教団が一体となって野球部を支援。

スキのない野球と、
追い詰められてから力を発揮する精神力。
そして甲子園での人文字を使った華やかな応援。

どこを切っても、
”高校野球”というものの中心に存在した、
PL学園という名前。

ワタシなどは、
ちょうどPLが強くなってきたころから高校野球を見始めましたので、
今回ばかりはなんだか無性に無力感を感じざるを得ませんね。

昭和45年夏。
決勝は東海大相模vsPL学園

この年は、
大きな高校野球の転換の年だったかもしれません。

この年の前年、
甲子園の決勝はあの松山商vs三沢の決勝戦が行われました。

もうすでに大衆が一番熱狂するイベントとして、
『スポーツ文化』の中心を担っていた高校野球。

全国の強豪校といえば、
中京商、広島商、松山商など、
守りを中心とした『甲子園戦術』を駆使する『鍛えられたチーム』が覇権争いの中心にいました。

そして、
公立、私立を問わず『地域一番校』が圧倒的に強い時代でもありました。
ざっと上げても、
中京商(現中京大中京)、広島商、四国4商(松山商、高松商、高知商、徳島商)、浪商、静岡、早実、下関商、作新学院・・・・・・


しかし、
高度成長も曲がり角を迎えた昭和40年近辺から、
人口の増加に伴い次々に新設された私立校が、
新たなチーム作りを模索し始めました。

『高校野球でまず学校の名前を売り、イメージづくりをする』
そんなことから今に至る、
『全国から選手を集めた、新たなチーム作り』
を模索するような学校がちらほらで始めたというわけです。

そしてその傾向はその後の高校野球人気と相まって、
どんどんどんどん広がりを見せて、
平成に入るころにはもう、
『広域からスカウトした選手を中心に作るチームでないと、甲子園には行けない』
という時代になっていったのです。

その傾向は今はもっと顕著で、
かつて『公立王国』といわれた地域の公立名門校が、
どんどん後れを取って甲子園から遠ざかっていくという時代の流れを作っていったのです。


その端緒ともなったこの昭和45年。

決勝は大都会の新興チーム、
東海大相模とPL学園によって争われました。

東海大学の付属の総本山として、
松前総長自らが力を尽くして全国のスカウト網から集められた選手に、
既に全国制覇の経験もあった名将・原貢監督を据えて圧倒的なチームを作り上げた東海大相模。

一方新興宗教の学校として立ち上がったPLも、
教団あげての選手獲得に邁進。
強豪そろう大阪で、すでに立ち上げから6年で甲子園出場を果たし、
10年目にして甲子園の決勝進出を果たしました。


そんな『新しい高校野球のチーム像』を感じさせてくれる両校は、
その後も長く高校野球界のスターチームとして、
君臨し続けるというわけです。


そんなPLは昭和50年代に入るとすっかり強豪としての地位を確立。
そして昭和53年、
悲願の全国制覇を成し遂げました。

西田、木戸ら後にプロ野球に進むスター軍団は、
準決勝で中京を最終回、0-4から”奇跡の大逆転”で破ると、
決勝でも高知商に対して”連日の奇跡の大逆転”で0-2から最終回3点を奪って逆転サヨナラ勝ち。

≪逆転のPL≫

の名前を全国にとどろかせました。

すべての選手が、
バッターボックスに入る前などに胸に手を当てて祈りをささげる様子や、
甲子園優勝後の鶴岡監督のインタビュー第一声が『教祖様のおかげです』と言ったことなどにその奇跡的な試合っぷりがミックスされて、
非常に宗教色の強い優勝だったなあという記憶があります。

しかしその初優勝後、
PLはガラッとそのカラーを変えた・・・・・
というか、
『天下無敵』
のチームとなりました。

昭和55年秋に中村監督が監督に就任すると、
その直後の56年選抜に吉村(巨人)らを擁して優勝。

57年選抜にも優勝して連覇を果たすと、
58年にはあの桑田、清原を擁して夏の選手権2度目の優勝。

59年、60年は『PLにあらずば高校野球にあらず』というぐらいの無敵の強さを誇りました。

今、大阪桐蔭が強さを誇っていますが、
その当時のPLは比較にならないほどの強さだったというのが、
ワタシの見立てです。

何しろ”甲子園20勝投手”の桑田と”甲子園13発男”清原のKKコンビを擁していたことばかりが取りざたされますが、
彼らの3年時などは、
この2人がいなかったとしても十分に甲子園優勝が狙えるだけのチームだったところに、
PLの本当の凄さがあると思っています。

黒木、旗手、松山、今久留主、田口など、
高校レベルとしては”超絶”の形容の付く選手が、
ごろごろチームにはいましたからね。

そして采配を振るう中村監督が、
どんな展開になったとしても全く微動だにせず、
どっしりとしていたのも印象に残りました。

あの頃のPLのベンチからは、
本当にビンビンにオーラが出ていましたね。
はっきり言って、
まったく対戦チームが勝てる気がしませんでした。

(まあ、それだけにこの3年間でPLに勝ったチーム、岩倉、取手二、伊野商はいつまでも語られるんでしょうね。この3チーム、まさにその年だけにまばゆいばかりに一瞬輝いたチームで、今や甲子園には完全に縁遠くなっているチームですが、それだからこそ、あのPLに勝てたのではないかな?なんて今になっては思いますけどね)

そして1年休んで、
今度は立浪、片岡、野村、橋本、深瀬らの、
スターではないがサムライのそろった全くスキのないチームで、
KKでも出来なかった春夏連覇を達成します。

この年のチームは、
玄人好みする素晴らしい野球力を持ったチームでした。

3人そろえた投手陣の継投、
どこからでも波状攻撃のできる打撃陣、
そして『甲子園史上最高のショート』立浪の超絶を超える守備。

この昭和58年から62年まで、
この5年間が間違いなく、
PL学園の『チームのピーク』でした。

ワタシも冗談ではなくて、
『PLには野球の神様がついている』
と思っていました。

中村監督が監督になって采配を振るった昭和56年~昭和62年の甲子園での戦績は、
なんと44勝4敗。 
勝率は.917ですよ。

こんなチームは、
まずないですね。

そんな、
『甲子園で10試合やって1回負けるか負けないか』
のPLも、
やっぱり時代にほんろうされていきます。

時代は平成にかわり、
やはり昭和の時にやっていたのと同じことはなかなか許されない時代になると、
PLは徐々にその力を落としていきます。

確かに90年代は、
よく甲子園にも出場してきましたが、
上記の『あの頃のPL』を知る者には、
その戦い方がなんだか『力を落としたなあ』と感じざるを得ませんでした。

ワタシは時代のとらえ方として、
90年代の高校野球は『不遇の時代』だと思っています。

80年代と比較して、
相対的に人気、実力ともにちょっと沈んでしまった時代なのではないかと位置付けています。
特に98年までは。

そんな中でPLが甲子園でかつてのような実績が残せなかったのは、
やはり相対的にも、そして絶対的にも、
チーム力が落ちていったということなんだと思います。

個々の年には、
福留のいた95年や横浜と激闘を繰り広げた98年など、
いいチームもありましたが、
それはある意味燃え尽きる前の炎の一瞬の輝きだったという風にに見えて仕方がありません。

そして98年選抜までで中村監督が監督を退任すると、
そのあとは結局かつての栄光を取り戻すことはなかったですね。

どんな競技のどんなチームにも必ず訪れる、
『盛者必衰の理』
を思わずにはいられません。

PLがその勢いを失うきっかけとして語られているのは、
朝井・今江という超高校級の選手を擁して久しぶりに全国制覇を狙えると意気込んでいた2001年のチームが不祥事で大会を辞退したことといわれていますが、
ワタシはその前の『中村監督の辞任』これに尽きるのではないかなと思えてなりません。

01年のチームについては、
『今までのPLのやり方では、今の時代にはマッチしない』
ということを突き付けられた出来事だったのではないかと思っています。

そのあたりをきっかけに、
大阪の有力な選手たちが大阪桐蔭や履正社を選択する、
また地方のチームを選択するということが多くなったといわれています。

しかしそれもこれも、
突き詰めれば『学校、PLの場合は教団。この上層部の野球に対する熱が弱くなってせいではないか』
ということなんじゃないでしょうか。


一緒にすることは全くできないのですが、
ワタシはこのPLの野球部の栄枯盛衰を見ていると、
現在の西武ライオンズの球団の変遷と『とても被るところがあるなあ』なんて見えてしまうんです。

一番のトップの人に”熱”がなくなると、
やっぱりそれに付随して、
チームの力そのものが失われていくものだ・・・・・・・。
そんな感じです。


00年代になると、
今度は『大阪桐蔭の天下』が始まります。
そして新興勢力として履正社の台頭もあり、
現在は完全に大阪は『2強の時代』に入っているようです。

PL学園は、
前田健太のいた06年などに一瞬の輝きは見せるものの、
やっぱり『あのころとは何か、根本的に違うなあ』ということを感じさせて、
2010年代に突入。

『久しく甲子園でPLのユニフォームを見ていないなあ』
と思っていたら、
今回のこのニュースとなってしまったというわけです。


結局今回の休部に至った最大の要因は、
巷間語られている通り『学校(教団)の野球に対する熱の喪失』以外にはないと思います。
『PL野球部の、歴史的な使命は終了した』
との見解なんでしょう。

しかしそうであるがゆえに、
今後何かのきっかけでまた≪復活≫ということも、
十分にあると思っていますので、
その時まで静かに待ちたいと思います。

数多のプロ野球の名選手を輩出しているPL野球部。
『本気で立て直すから、頼む』
と言われれば、
はせ参じる元プロ野球選手たち、
たくさんいることでしょう。

そういう意味では、
その決断をした暁には、
『華麗なる復活』
を短期間で遂げる可能性、大いにあると思っています。

その時は、
今夏12人で苦しい戦いをした選手たちも、
『あの苦しさあったればこそ、今がある』
と語られるようになると思いますから、
それまで辛抱してほしいと思います。


♪ ああ PL PL 永遠の学園 永遠の学園


高校野球ファンの耳にこびりついて離れないあのメロディー
いつの日か復活ののろしを上げ、
あの強い大阪桐蔭や履正社に、
ガチンコの戦いを挑んでいってほしいと、
イチ高校野球ファンとしては、
強く思います。

目覚めよ!学校関係者!


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