SPORTS! SPORTS! 寝てもさめても

16年目突入。ビッグイベントに心躍らせながら、草の根のスポーツの面白さにも目覚めている今日この頃です。

夏の甲子園 名勝負集その8

2020年05月12日 | 高校野球名勝負

10年ぶりに書き始めてから4回目。
アップの頻度は恐ろしいぐらい少ないのですが、
何とか昭和最後の大会まで持ってきました。

昭和63年と平成元年。
思い出の多い大会ですが、
甲子園はPL台風が去って、
池田も相対的に力を落とし、
「昭和後期」の甲子園から「平成の甲子園」へ、新たな時代に向かう端境期だったように思います。

そんな中で昭和63年には、
大会前には全く下馬評にも挙がっていなかった”昭和高校野球の顔”ともいえる老舗の広島商が優勝を飾りました。

そして平成元年には、
昭和時代に挑めども挑めども優勝まで届かなかった帝京が初優勝を飾り、
準優勝には”東北の悲願”を旗印に駆け上がった仙台育英が輝きました。

時代はバブル景気に踊らされていた頃。
そんな昔をちょっと振り返りながら、
夏の甲子園の名勝負に思いをはせてみます。



昭和63年 2回戦
愛工大名電(愛知) 3-2 高知商(高知)  

野球の恐ろしさを思い知った試合。負けるはずのない高知商・エースの岡、たった一度のピンチで沈んだ。

前からこのブログでも何度も紹介している通り、ワタシは四国の高校野球が大好き。特に昭和期の高知の高校野球は、思い入れを持ってみています。高知商は最も好きな学校の一つで、『四国四商』という言葉とともに、その名を聞くだけでワクワクしてしまう学校です。この年まで毎年のように好投手を輩出していた高知商。思いつくだけでも森(元阪急)、中西(元阪神)、津野(元日ハム)、中山(元大洋)、岡林(元ヤクルト)ら、ドラフト上位で指名され、のちにプロ野球でも輝きを見せる選手ばかり。どの投手も本格派で素晴らしい投球をしていましたが、その彼ら以上にこの年注目をさらったのがエースの岡投手(元ヤクルト)でした。彼は残念ながらプロ野球ではそのポテンシャルを発揮することが出来ませんでしたが、エースで4番(?)として甲子園では素晴らしい活躍を見せてくれました。選抜では堂々の優勝候補として甲子園のマウンドに立ち、福岡第一の前田(ロッテ-巨人)に投げ勝つと、敗れた上宮戦でも元木、種田らを相手に堂々たる投球を見せてくれました。当然夏の甲子園でも優勝候補の一角に上がり、ワタシも「今度こそ優勝」と思ってみていました。初戦の相手は愛工大名電。甲子園で実績のある学校ではあったものの、この年の名電は小粒な全員野球のチームで、「岡の高知商が負けるはずない」と思っていました。広島商が結果的に優勝したように、この年の大会は絶対の優勝候補不在の戦国大会。ワタシはその中で、最も優勝に近いのは高知商だと信じて疑っていませんでした。そして試合が始まると、岡はスイスイと気持ちよさそうに投げて回を重ねていき、後半までリードを保っていきました。「これは岡が完封だな」と画面を眺めるワタシ。しかし2-0と高知商リードの8回、試合は暗転していきます(高知商サイドから見ると)。ワタシはどこかほかの土地でこの試合を見ていたのですが、8回裏に満塁のピンチを迎えると(多分初めてのピンチらしいピンチだったんじゃないかな?!)、あろうことか満塁一掃のツーベースを食らって一気に逆転。あっという間の出来事で現実感がない中、ハッと気が付くと、この試合のはじめてのビハインドで、さらに高知商の攻撃はあと1イニングしか残っていないという最悪な状況にあっという間になってしまったのでした。そして。。。。。。「うそっ・・・・ウソだろ」と思う間もなく試合は終了。失意のまま、高知商は大願を成就するどころか1勝も出来ずに敗れ、この試合をきっかけに高知商は相対的に力を落とし始め(とワタシは思っているのですが)、明らかに高知の野球勢力図も変わって行ってしまうのです。ワンチャンスを生かした愛工大名電の野球は見事でしたが、このあたりがPLとか大阪桐蔭とか、「力があってしかも粘り強く・・・・」というチームとは一線を画す、高知商らしさなんだなあと思ったりもしますね。淡泊といえば淡泊なんですが、そこがまたいいところと言おうか何と言おうか、「未完成の魅力」でもあるんですよね。広商、松山商などの老舗と比べてワタシが高知商、そして高知の野球が好きなのも、やっぱり豪快さともろさを併せ持っているところが魅力的・・・・・・なんてところなんですよねえ。。。。。
この年の高知商には確かにがっくりさせられて、大会が終わった後には「あの試合さえ切り抜けていれば、多分高知商が優勝まで駆け上がっていたなあ」なんて思ったりしたのですがそれも後の祭り。しかし忘れられないひと試合だったことは、間違いありませんでした。

 


昭和63年 2回戦
 浜松商(静岡) 3×-2 池田(徳島) (延長14回)

池田時代終焉の足音を聞いた延長14回。昭和の高校野球を彩った浜松商の粘りも見事。

正直にいうと、ワタシはこの試合、全部は見ていません。いろいろとバタバタしていた時期だったので、延長に入るぐらいまでは見られていたと思うのですが、サヨナラのシーンは見ることが出来ませんでした。さて、この昭和最後の時期、一世を風靡した池田高校にも、変革の足音が忍び寄っていました。いうまでもなく「池田野球」のすべてをつかさどった蔦監督の引退の時期が、目前に迫っていたという事です。平成から令和にかけては、監督寿命もそれまで以上に長くなり、70歳を超えた監督も珍しくなくなりましたが、昭和の時代には還暦を超えた監督というのが見られるのは本当に稀な事でした。今ではベテラン監督といえば50代後半~60代以上を指すことが多いという感覚を持っていますが、昭和の頃は30代も後半になれば「ベテラン監督」と呼ばれたりもして、50代後半なんざあ、下手をすると「おじいちゃん監督」的な扱いを受けてもしかるべきだったりしましたね。20代、30代前半の若い監督も多かった。。。。まあ、感覚的には「結婚適齢期」と似ているかもしれませんね。今や30代、40代の結婚がごく一般的ですが、昭和の時代には女性の結婚適齢期はクリスマスケーキになぞらえられたりしたものです。。。そんな中「高校野球で最もキャラ立ちしているおじいちゃん監督」であった蔦監督、昭和57年に初優勝を飾った時に当年とって60歳でした。それから6年が経ったこの昭和最後の年、蔦監督は既に66歳だったんですねえ、考えてみれば。この6年の間、池田はまさに「この世の春」を謳歌していました。水野・江上を中心に夏春連覇を達成して3連覇を目指し、敗れ去ったのちも昭和60年選抜4強、61年はセンバツで優勝、62年も選抜4強と、4回の選抜でなんと16勝2敗という勝率9割越えのものすごい実績を残しました。しかしながら、夏の選手権には水野・江上を擁した昭和58年以降は、昭和61年から3年連続出場を飾るものの、その成績は全く振るいませんでした。選抜優勝校として臨んだ61年夏は明野打線に”小さな大投手”梶田が打ち込まれ大敗。PLをしのぐ戦力とまで言われた62年も、エース糸永を擁しながら中京に逆転サヨナラ負け。そして迎えた63年の夏。この年は選抜に出場することがかなわなかった珍しい年でしたが、エースは3年連続の「キレのある左腕」桜間でした。池田のこれまでの甲子園のエースの系譜は、「右なら大型の剛腕、左なら小さな身長からキレのある球を操る投手」というもの。【蔦監督の池田野球】と言えば豪快なパワーの打線が浮かびますが、実は「小さくともまとまった打線と左投手の小気味いいチーム」というのももう一つの特徴ではありましたね。どちらのタイプのチームになるのかは、その年その年によって違ったという所でしょうか。そんな後者のチームを3年間作り続け、池田は選抜では実績を残してきましたが、パワー全盛の夏の大会では、上位まで勝ち上がることはできませんでした。そして蔦監督の時代も、終焉を迎えるというにおいがしてきていましたね。その時代が変わった試合として思い浮ぶのが、この延長14回の死闘と3年後の夏の選手権の帝京戦です。この浜松商戦で、かつての池田からは信じられないほど「打てないなあ」という思いを抱いていましたが、帝京戦で三沢に食らった逆転の満塁ホームランで、蔦監督の時代が終わったのだという事を思い知らされました。ワタシだけでなく、この頃の高校野球ファンのだれの心の中にも深く根付いている「池田高校、蔦野球」というのが終わったんだなあなんて、感慨深く思ったのを覚えています。池田の時代は蔦監督とともに過ぎ去り、その後あのPLの時代もまた、過ぎ去っていきました。高校野球もまた、時代の移ろいとともに、たくさんの思い出のチームを、記憶のかなたに封じ込めてしまうものなんだなあと、振り返ると思ってしまうものですね。



昭和63年 3回戦
津久見(大分) 1-0 大垣商(岐阜)  

ドラ1投手同士の、なかなか見られない、極上のしびれる投げ合い。  

甲子園で見られる極上の投手戦。これもまた、本当に長く記憶に残るものです。かつて金属バットの時代がやってくる前までは、高校野球といえば「投手戦」が定番でした。松山商vs三沢の延長18回の死闘やら、その前の徳島商vs魚津の坂東-村椿の投げ合いなども、高校野球史に燦然と輝くものです。もちろん延長25回、中京商vs明石中なんてものすごい試合もありました。江川の雨の中でのサヨナラ押し出しなんていうのも記憶に残りますし、個人的には桐蔭学園vs磐城、小さな大投手・田村のピッチングなどもうっすらと記憶に残ったりしています。
時は移り金属バットの時代。どのチームも打力を鍛え上げ、上位下位ムラのないパワー打線がたくさん登場し、甲子園での「極上の投げ合い」なんていうのは、めったに見られなくなっていました。そんな中で昭和63年夏に、その後両投手ともドラ1でプロ野球に進む津久見・川崎(ヤクルト)と大垣商・篠田(ダイエー)の投げ合いは本当に見ごたえがありました。川崎は選抜でも活躍した右の本格派、一方の篠田は左の本格派ながら切れで勝負するタイプ。ワタシはこの投げ合いを、右と左、さらに剛と柔の違うタイプの好投手の投げ合いと思って見ていて、久しぶりにしびれたという思いを持ちました。試合自体は淡々と回を重ねるという感じの展開で、大きな波乱などのない試合だったように記憶していますが、ワタシはとにかくこの両投手が「極上」に見えて、ずっとワクワク感が止まりませんでした。1-0ですが、その1点がどのように入ったかなんていうことも、覚えてはいません。両投手の投球に、しびれっ放しだったという事だけが記憶の中にある試合、それもまた、いい思い出なのです。



昭和63年 準々決勝
浦和市立(埼玉) 7-3 宇部商(山口) (延長11回) 

ミラクル・浦和市立の快進撃止まらず。元祖・ミラクル宇部商は悲願に届かず。

この昭和最後の大会で光輝いた学校がひとつありました。その学校こそは、埼玉の浦和市立。埼玉に長かったワタシも(野球としての)その名を知らなかったほどの無名校で、もちろん甲子園初出場でした。かつて高校野球の世界では「公立王国」として知られた埼玉県。私立の学校が夏の甲子園を射止めたのは昭和60年の立教高校が初めてで、門戸が開かれたその後は61年、62年と2年連続で浦和学院が甲子園に出場し、公立校から私立校への移行期に当たった昭和60年代、埼玉の公立の最後の(?)輝きとして甲子園で光輝いたのがこの浦和市立でした。とはいえ県大会の段階から注目されていたわけでは一切なく、ワタシも「なぜこの学校が?」と驚いた埼玉県大会制覇でした。時に埼玉県大会はこういう全く無印の学校の甲子園進出を演出します。昭和48年の川越工、57年の熊谷、そしてこの63年の浦和市立。平成に入っても平成7年の越谷西や10年の滑川などはまさに『無印良品』を地で行く代表校で、そのいずれもが甲子園で輝きを放ったところに、埼玉県勢の「公立校の矜持」を感じることが出来ます。上にあげた各校の中で、最も輝きを放ったのは川越工と浦和市立であることは間違いありません。この両校、あまりにも似通ったチームで、浦和市立が快進撃を見せていた時、ワタシはその15年前の川越工の事を思い出していました。川越工には指田投手、そして浦和市立には星野投手という「小さな大投手」が存在し、スリークオーターから外連味のない投球を見せて強豪相手にその存在感を見せつけていました。星野投手はピンチになればなるほど白い歯を見せてナインの緊張感を解き、ナインもマウンドに集まっては「楽しそうに」話をしている姿が浮かぶ、本当の好チームでした。確か県大会のチーム打率は49代表校中最低だったように記憶しています。確か.230台だったかな?打てるとか打てないとか、そういうレベル以前の打線かなんて思っていましたが、波に乗ってしまうという事は本当に不思議なもので、甲子園では不思議とチャンスになるとナインのバットから快音が発せられ、ランナー達は次々にホームを駆け抜けていきました。本当に不思議な、ファンタジーの世界に迷い込んだようなチームでした。この浦和市立も、そして川越工も、準決勝まで進出して、敗れた相手はその年の甲子園を制する名門の広島商でした。両校ともに「埼玉県勢初の甲子園制覇」を目指しましたが、惜しくも決勝の舞台へは届かず。しかしながら、ニッポンの、そして甲子園の「敗者の美学」が彼らの存在をより際立たせてくれたのは確かですね。その浦和市立は甲子園では2回戦で同じ関東の強豪、常総学院を破ると、3回戦ではこれも関東の強豪、宇都宮学園を延長で下しました。両校ともに浦和市立にとってはまさに雲の上の存在のようなチームで、特に宇都宮学園はこの年の選抜では4強に進出した超強豪。真中、高島らプロで活躍した選手たちが躍動する強力打線でしたが、星野が臆することのない攻めの投球で宇都宮学園の打線を抑えきりました。そして浦和市立の真骨頂が発揮されたのは準々決勝の宇部商戦。この年代、「ミラクル宇部商」と呼ばれてたびたび甲子園で奇跡の勝負を演じていた宇部商、この年も選抜で9回ノーヒットノーランを食らいそうな危機から蘇り逆転2ランで劇的な勝利を飾ったり、この選手権でも浦和市立戦の前の試合である3回戦では、東海大甲府に対して土壇場9回、1年生代打の宮内の代打逆転3ランという劇的な勝利を飾りここに進出してきていました。試合は前半圧倒的に宇部商が押しましたが、耐えていた浦和市立が中盤から反撃に出て好投手木村を崩して同点。そしてサヨナラのピンチを何とか耐えきって迎えた延長11回、浦和市立のナインは解き放たれ、一気に4点を奪い勝負を決めたのでした。まさか勝てると思っていなかったワタシは大コーフン。何が何だかわからない状況で叫んでいましたっけね。それにしても、浦和市立のニコニコ笑顔を見せながら逆境に耐えて勝ちを拾っていく姿は、何度もテレビで紹介されるほどのインパクトを持って、世間に迎えられていました。あの大会の「華」だったように思います。公立校の大進撃というと、07年の佐賀北の優勝などが思い浮びますね。佐賀北には好選手が揃い、甲子園を意識して鍛え上げられたチームが波に乗ったという感じがしますが、この浦和市立には全く違ったテイストが感じられます。まさに「甲子園を意識していない公立の無名のチームが、まさに全員の力を結集して甲子園という大舞台で勝ち上がっていく姿というのは、今の高校野球ではちょっと考えづらいぐらいの「シンデレラストーリー」だったように思います。その主役が自分の地元から出てきたことは誇りでもあり、そのコーフンは、ちょっと表現できないぐらいの事でした。この夏はなかなか時間も潤沢にとることが出来ず、それまでの様に観戦に熱中できないことも多かったのですが、いつも外出先で浦和市立のことが気になってしょうがなかったことは、昨日のことのように思い出すことができます。いい夏でした。




平成元年 2回戦
上宮(大阪) 1-0 東亜学園(西東京) 

本命候補・上宮に果敢に挑んだ東亜学園。スラッガー・元木のバンザイがため息に変わった直後、試合は決まる!

年号が平成に変わって最初の年となった甲子園。春の選抜では、決勝で東邦と上宮が選抜史に残る劇的な勝負を演じ、東邦が優勝を飾りました。この両校がこの年の高校野球界を引っ張る存在でしたが、投手力と守りを中心とした「春の東邦」は春の選抜がチーム力のピークであった感じで、夏の甲子園にも進出したものの、初日に敗退し甲子園を去りました。一方選抜では手にしかけた大優勝旗がその手からするりと落ちた上宮はモチベーション高くこの夏の大会に出場し、優勝候補の筆頭に挙げられていました。その上宮のメンバーは、甲子園のヒーローとして注目度が高かった4番の元木、のちにガニ股の打ち方でプロ野球で一世を風靡(?)した種田などキラ星揃い。エース宮田も安定していて、PLに変わる大阪の「新時代の強豪」として注目度も満点でした。ちなみにこの上宮、東邦と同じくまさに『春の上宮』とも呼べるチームで、選抜では優勝、準優勝を含めて8回の出場で18勝を挙げていますが、夏の大会に限っては出場辞退がこの年の1回のみ。ちょっと信じられないぐらいなのですが、昨年夏の甲子園を制した履正社も長く夏の甲子園では活躍することができず、『春の履正社』というに近かったと思います。裏を返すと、それだけ『夏の大阪』の戦いは過酷で、代表になることの難しさは想像を絶するということなのでしょう。
さて、その平成元年夏の上宮。元木は清原をも超えるのではなんて当時は言われていたスラッガー。秋のドラ1は間違いなく、プロでも1年目から清原に近いぐらいの実績を残せるのではと評価されたりしていました。(ワタシは全くそうは思わなかったのですが) そして彼の守備位置はショート、その守備力の高さでも注目されていて、能力の高さは際立っていましたね。その登場は初日の第3試合。丸子実と対戦した上宮は、自慢の打線が大爆発。二ケタ安打の二けた得点を挙げて圧勝したのですが、この試合で元木が何と2本のホームランを叩き込んで、この大会が「元木の大会」であることを全国のファンに高らかに宣言したようでした。その元木の上宮が2回戦で対戦したのが東亜学園。2年前の夏の甲子園で川島投手を擁して4強まで進出した姿は鮮烈で、この姿を見ていた当時の1年生たちが主力のこの年の東亜学園は、その時と同じように投手力を中心としたしっかりとした守りで西東京大会を勝ち上がって3回目の甲子園へ。この80年代後半にチームとしてのピークを迎えた東亜学園は、崩しにくい好チームでした。とはいえ『絶対の優勝候補』であり「PLを継ぐ存在」であった上宮の牙城を崩すのは難しいだろうという戦前の予想の中、この試合は始まりました。東亜学園のエース高平投手は、2年先輩の川島投手にそっくりのフォームから、安定した制球力で初戦の土佐線を完封、この試合でも強打の上宮相手に一歩も引かない投球を見せました。強打の上宮打線は、なかなかこの高平をとらえることができず試合は0-0のまま終盤の8回へ。この試合上宮を救ったのは、何と言ってもエースの宮田ですね。2年生だったこのエース、強打の上宮にあって守りを一手に引き受けるというような安定した投手で、この試合は大会の中でも最高の投球だったと思います。同じようなタイプのエースが投げ合うこの投手戦、しかし打線の力に違いがある両チームだけに、試合が終盤に差し掛かるとともにじわじわと上宮が圧力をかけ始めていった印象です。8回裏の上宮の攻撃。この回1死2・3塁のチャンスをつかんだ上宮、ここでバッターは元木。エースの高平はここで勝負を選択。元木は内角の速球(?)をたたき、放たれた弾丸ライナーはレフトポール際へ。。。。。打った元木は両手を上げて万歳!!甲子園が最も盛り上がる瞬間を迎えたのですが、打球はポールの左側を通って大ファール。本当にドキドキが止まらない瞬間で、長く忘れることのできない「これぞ甲子園」という瞬間でした。その後元木はライトへ強烈なライナーを放つもののライト正面。しかし2アウトを取ってホッとしたか、次の5番にすっと入る外角の球をライトに持っていかれて先制を許してしまいました。結局この1点が値千金となり東亜学園は敗れ去ってしまうのですが、そのライト前ヒットでも2塁ランナーのホーム突入ではライトからの好返球でタッチアウトに取り、『守備の東亜の矜持』をこの甲子園という大舞台で、強豪上宮相手に存分に見せてくれました。しかしながらこの東亜学園、不祥事などが徐々にチームの力を削いでいって、その後一度も甲子園の土を踏むことはできず、今日まで至ってしまっています。大阪と比較してそんなに厳しさがあるわけでもない西東京の大会を勝ち抜けなくなっていったのは不本意でしょうが、令和になってまたあの輝きを取り戻せるのでしょうか。一方の上宮、この苦しい東亜学園との一戦をしのいで上位進出に怖いものなしとなった感じがしたものですが、大きな敵が立ちはだかっていました。いずれにしても、大会前半の対戦ではありましたが、緊張感あふれるこの一投一打は、長く語り継がれてもいい好勝負でした。


平成元年 準々決勝
 仙台育英(宮城) 10-2 上宮(大阪) 

東北の悲願をその右腕に乗せ・・・仙台育英・大越が見事上宮に選抜のリベンジ。

さてこの平成元年の大会。大会が終盤に進むにつれて、一人のヒーローの姿がクローズアップされてくるようになりました。大会の序盤は、優勝候補筆頭の上宮、そしてその主砲・元木の話題で持ちきりでしたが、その主役の座を奪って行ったのは、東北悲願の初制覇の夢を乗せ、腕もちぎれんばかりに力投を続けた仙台育英のエース・大越でした。ともに優勝候補として臨んだ選抜で、仙台育英は上宮と準々決勝で激突。この試合も大越vs元木(上宮打線)の戦いが焦点とみられていましたが、大越は上宮打線に力勝負を挑むも壮絶な討ち死に。元木には強烈な一発を浴びてしまいました。元木以上に勝ち気で闘志を前面に出すプレースタイルの大越は、よほどその負けが悔しかったのでしょう。夏を迎えて投球のグレードを一段も二段もアップさせて、この大会に臨んできました。そして打線もそれに呼応して上がってきて、剛腕エースに強力打線の仙台育英も、この夏の大会を迎えるにあたり堂々の優勝候補に名乗りを上げていました。ベテラン竹田監督も期するものがあったであろうこのチーム、甲子園ではたくさんの経験を積みながら悲願へ一歩一歩階段を昇って行った感じでした。初戦で強豪の鹿商工に勝ち迎えた2回戦では、選抜4強の京都西相手に大越の右腕がさえわたり9回までノーヒットピッチングを披露。「大会NO1」の称号を不動のものにしましたが、続く3回戦では同じ東北の弘前工に対して大苦戦。まさかの試合展開になり終盤まで1-1と同点の場面が続きました。ワタシはこの試合を見ていて、弘前工の健闘に拍手を送るも、完全に「仙台育英推し」だったために「大越、こんなところで負けるな~」と声を枯らしていました。と、8回裏。火を噴かない味方の4割打線に業を煮やしたか大越が「ならば俺が」と降りぬいた打球はレフトへ。豪快な決勝ホームランとなって、さらにさらにスポーツ紙の見出しを独占する決勝弾で、仙台育英は辛くも準々決勝に進出したのです。この激戦が3回戦最後の試合だった仙台育英は、息つく暇もなく翌日に”宿敵”上宮との対戦を迎えます。上宮は3回戦は15点を奪って楽勝、おまけに試合日程でも中1日空いており、日程的にも勢いでも、すべてで上宮が優位に立つとの予想で試合は始まりました。上宮は序盤からチャンスをつかむものの大越の力投の前に得点を奪えません。一方の仙台育英は序盤に2点を先取したものの得点は2-0.勝負の行方は分からないまま試合は終盤の7回を迎えました。選抜でも同じ2-0のリードから終盤にまくられた仙台育英としては、なんとなくいや~なムードを感じていたのではないかと思います。球場の雰囲気は、やはり地元上宮のホームというムード。7回に入ってどうしても3点目が欲しい竹田監督、1死からバントでランナーを2塁に送ったんじゃないかと記憶しています。「とにかく1点欲しいんだな!」ということがワタシの記憶の中に今も鮮やかです。しかしそこからの展開は、目まぐるしすぎてワタシの頭の中でもぐしゃぐしゃ。2死のはずだったのに、何しろ気が付いたらスコアボードにはこの回『7』が刻まれていたのですから。。。。なんというか、信じられないぐらいのあっという間の攻撃の中、仙台育英は連打連打で7点をもぎ取って、バリバリの優勝候補・上宮を完全に葬り去ったというわけです。こんな感じの『気が付いたら大量点』ということでワタシの頭の中に浮かぶのは、06年準々決勝の早実vs大阪桐蔭、08年3回戦、智辯和歌山が駒大岩見沢戦で見せた超絶な11点攻撃、11年智弁学園が横浜を9回にうっちゃった大逆転、っていうところでしょうかね。どれも頭は真っ白で、途中経過は全く覚えちゃいません。いずれも「有利」と言われた方の強豪が優位に試合を進めていて、  「劣勢」予想のチームが大爆発したから、衝撃も大きかったのかもしれません。  おっと、余談ですが09年の決勝、日本文理が9回2アウトから見せた超絶な大反撃も覚えていますが、あれは頭が真っ白になって・・・・・というわけではありませんで、しっかり経過を覚えています。(まあ、毎年の甲子園の中継見ていると、何度も何度も繰り返し映像が流されますからね) 
この仙台育英の集中打については、印象としては「グシャっ」という感じの、いわゆる「汚いヒット(表現はよくありませんが)」がたくさん出たという印象だけはあります。そして衝撃を受けたことは間違いありません。優勝候補筆頭の上宮は甲子園を去り、一球一球に叫び声をあげながら気迫で打者に立ち向かっていった大越が、東北の悲願を達成してくれるのでは・・・・・・・誰もがそう思ったことは間違いないでしょう。


平成元年 準決勝
 仙台育英(宮城) 3-2 尽誠学園(香川) (延長10回)

激闘王・仙台育英が大激戦を制し決勝へ。尽誠はほんの一歩が遠く。

平成元年の夏の甲子園が、候補筆頭である上宮を破った仙台育英を中心に進みだしたのは間違いありませんでした。その仙台育英、準決勝の相手は四国の尽誠学園。このチームは野球留学の先駆けともいうべきチーム構成で、メンバーのほぼ全員が関西出身の選手で締められている野球力の高い学校で、池田や四国四商などが引っ張った四国の高校野球界の中にあって、明徳などとともにニューウェーブの学校として新たな波を起こしていました。その洗練された野球は荒々しい「四国野球」とは一線を画す存在と、ワタシの中でも位置付けられていました。ちなみに一方の仙台育英は、まだ選手のほとんどは東北出身の選手で占められていて、そのあたりは時代を感じることができますね。尽誠学園はのちに西武で活躍する宮地が好投手としてマウンドを守り、守備、攻撃と穴のないチームに仕上がっていました。ちなみに2年生で1番を打っていたのが、のちにオリや巨人で活躍する谷佳知です。勝ち上がり方も安定していて、その展開にはまると仙台育英とて厳しいのではと論評されていました。特に3連投の大越のスタミナ面が心配されていましたが、その危惧が終盤に現実のものとなりかけました。仙台育英は初回に速攻で2点を先取。その後は宮地の好投に抑えられますが、大越がこのまま逃げ切るかと思われました。しかし9回。すでにスタミナがかなり怪しくなっていた大越、最後の最後でミスが出て尽誠学園に、同点に追いつかれてしまいます。すでに大越、マウンド上でかなりへばっている様子がありあり、気迫と根性で投げ続けているという風情でした。尽誠学園の攻撃は後攻だったので、サヨナラ負けを覚悟しましたが何とか耐えて同点のまま試合は延長へ。この10回、ドラマが起こります。1死2塁の仙台育英の突き放すチャンスに打者の放った打球はセンターへ。ゆるい打球だったのでホームに突っ込んだランナーに対して、センターからイチロー張りの『レーザービーム』がキャッチャーのミットへ。球審の手は高々と上がってホーム寸前タッチアウト!聞けばこのセンター、香川県、いや四国ではその強肩ぶりが知れ渡っていて、彼の前の微妙な打球ではまずランナーはホームに突っ込まないんだ・・・・・ということを、しきりにアナウンサーが言っていた記憶があります。「へ~そりゃあすげえ」と思っていながら、その痛恨のタッチアウトを画面の前で悔やんでいると、次の打者で登場してきたのがエースの大越。無類の勝負強さを誇るこの打者に、ワタシは「何とかしてくれ~」と思ったりしていましたが、果たして大越の叩いた打球はセンター前へのヒット。しかし先ほどのヒットよりさらにホームに突っ込んだらアウトになりそうな打球でしたが、2塁ランナーは今回も果敢にホームへ。そしてセンターからはバックホーム・・・・・。しかし、今度はそのバックホーム、微妙にそれて「2匹目のドジョウ」とはならず。ということで、劇的な展開となったこの準決勝、仙台育英はまたも劇的な勝ち方で決勝への進出を果たしたのでした。なんだか見ている方も、終わった後にどっと疲れが出てきてしまうような、そんな戦いでした。仙台育英は「東北の悲願」を乗せて数々の激闘の果てに決勝に進出し、この大会の話題を一手にさらっていきました。


 

平成元年 決勝
 帝京(東東京) 2-0 仙台育英(宮城) (延長10回) 

真夏のヒーロー・大越に甲子園の女神は微笑まず。激闘制した帝京が悲願の全国制覇。

その平成元年の夏の大会。大会が後半に向かうとともにものすごく盛り上がりました。主役は完全に仙台育英、そしてそのエース大越。もう何というかだれもが「東北勢悲願の甲子園初制覇」ということに思いをはせていました。しかしそこに最後の最後に立ちはだかった、まさに「ラスボス」のようなチームが存在しました。それが帝京です。前田監督に率いられて毎度大型チームを作って甲子園に臨んでくるこのチーム、かつて春の選抜では2度の準優勝に輝き、今回は「3度目の正直」を狙って決勝まで進出してきました。80年代終盤から90年代にかけて、まさに帝京は『チームとしてのピーク』を迎えるのですが、この夏の大会の戦いぶりは、最も盤石なものだったのではないかと思います。しかしこの大会に入るまでは苦しみの連続。ワタシも当時東京在住でしたからよくわかりますが、選抜で有力な優勝候補に挙げられながら初戦敗退し、その後も何かパッとしない感じで過ごして迎えた東東京予選。そこでも『秋の面影はない』ように感じ、過大な期待は寄せられないチームだと思っていました。しかし甲子園を迎えて試合をするごとに、いい意味でこの年の帝京は予想を裏切っていきました。大会前の故障で予選ではマウンドに上がるのも厳しそうだった吉岡が完全復調。自慢の打線も陥りがちな「大振りで打てども点が入らない」なんてこともなく得点を重ね、決勝まで全くと言っていいほど苦戦をしないで、盤石な姿で勝ち進んできたのです。吉岡は4試合で失点わずかに1、打線は1試合平均7得点を挙げて好調。対戦相手に恵まれていたとはいえ、この盤石さは何だろう、と思うぐらいの勝ち上がりでした。一方の仙台育英。上にも述べたとおり、初戦からずっと激闘を繰り返しての勝ち上がり。対戦相手にも恵まれず、初戦からずっと強豪ぞろいで、息の抜けるところは全くありませんでした。これまで蓄積された疲労も帝京と仙台育英では全く違っているように見えたため、そのあたりがどう出るか?ということが試合のプレビューで語られていました。ここ東京でも、スポーツ紙の扱いは圧倒的に「仙台育英中心」。地元ながら帝京は隅に追いやられる感じで、待望されていたのは「東北勢初制覇」であり、『平成始めの大会で、高校野球の歴史が変わった』という見出しが描かれているようでした。
試合は予想通り、両投手の好投で始まりました。吉岡は自慢の速球と制球力を武器に、淡々と仙台育英打線を打ち取って行った印象があります。チャンスは確かに仙台育英の方に多くありましたが、何か「得点のニオイがしない」というような状況で、吉岡のピッチングはさえていたように思います。しかし一方の「大会の主役」大越の気迫のピッチングはさらに冴えていました。とても激闘に次ぐ激闘での4連投とは思えないような球のキレ、伸び。追い詰められたときほど力を出すという大越の真骨頂が発揮されたようなピッチングに、数多の高校野球ファンは大歓声を送っていたと思います。0-0で迎えた9回裏仙台育英の攻撃。2死から3塁打が出てサヨナラの大チャンス。球場を映すカメラは、アルプスで、そして一般のスタンドでも、祈るようなたくさんの姿を映していました。仙台育英のファン、そして帝京のファン。いろいろなものが凝縮した、密度の濃い風景だったことを記憶しています。そして次打者が力ない内野フライを打ち上げた時、ため息交じりの大歓声が甲子園を包み、試合は延長へと突入していくのでした。延長に入ると、もう大越に気力は残っていないようでした。それまで全くと言っていいほどチャンスがつかめなかった帝京にこの試合唯一と言っていいようなチャンスが訪れ、そこにありえないような高打率の5番(?)鹿野が登場してきたとき、この結末は予想できました。鹿野は大越の速球をたたくと、低く強いゴロとなって打球は内野手の間を抜け、帝京は勝利を手繰り寄せて、全国のファンが待ち望んだ「東北の悲願」はまたも持ち越しとなりました。帝京は悲願の甲子園初制覇。これまでいろいろな苦労があったであろう前田監督の目には、光るものがありました。東北高校からライバルの仙台育英の監督に移って監督を続け、何とか東北の悲願を達成しようと奮闘した竹田監督にとって、最も悲願達成に近づいた瞬間であったことは間違いありません。平成に入ってもしばらく監督を続けてはいたものの、これほどの力と勢いを持ったチームを作ることはなく、「東北の名将」は静かにその舞台を降りて、大学野球にその軸足を移していくことになるのです。
思えば東北勢、第1回大会の秋田中が決勝に進出して全国制覇に片手をかけてから100余年、節目と言われる大会などで寸前まで悲願に近づくも、まだその大願は成就されていません。直近では金足農業旋風が記憶に新しいところですが、その前にも仙台育英やダルビッシュ率いる東北など、何度も「その瞬間」を脳裏に描くところまでは来るのですが、平成の30年間でもこの悲願は達成されることはありませんでした。いまや高校野球の世界でも全国有数の”強豪地区”に変身を遂げている東北地区。大願が成就するのは時間の問題だと思われますが、大越率いる仙台育英が、歯を食いしばりながら頂上を目指したあの夏は、忘れることができない夏です。


 


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暗黒時代への序章といったところでしょうか・・・ (hanahana)
2020-05-13 18:29:32
さすがまめちち様ですね。
高知商をよくわかっていらっしゃる笑

ちなみに岡は、私が3年のときの1年生でした。


「この試合をきっかけに高知商は相対的に力を落とし始め・・・」

全くそのとおりで、以降確実にレベルが落ちていきましたよ。
というか、高知県全体のレベルが落ちていきました。

岡林のあたりから怪しくなったかな。←同級生。
(あの近藤の享栄によく勝てたもんだと思います。上位にいけると思っていなかったので、勝ってしまって申し訳ない!と思ったほどでした)


平成に入ってからは、県予選でも今までではありえないような学校が上位、決勝に残ったりと
当時、関係者は相当危機感を抱いていたハズ。

出場しても力強さが感じられず、一回戦勝てばいいほうで、上位進出の期待は薄かったですねえ。


90年台後半になると、明徳1強の時代に突入し、甲子園出場の期待すらできないといった状況。
(藤川も「球児」という名前と、兄弟バッテリーということの方がクローズアップされて、評価はたいしたこと無かったと記憶しています。)
そんな低迷時期があったから、この前の出場には特に感慨深かったなあ。しみじみ・・・。


「やっぱり豪快さともろさを併せ持っているところが魅力的」

実に的を得てますね。
この前なんかまさにそのとおりになってしまいました。

もうコレは明徳をはじめ近年の課題です。
大阪桐蔭、智弁に勝って、おお!!と思ったら次あっさり負けたりと、
勝ち進んでいく事がどうしてもできない歯がゆさを常に感じています。



それにしても本当に今年の3年生はかわいそうでなりませんね。
野球、スポーツに限らず・・・。

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Unknown (まめちち)
2020-05-14 08:59:34
hanahana様、コメントありがとうございます。
なかなかブログも書くネタがない中、10年前に書き綴っていた高校野球ネタを引っ張り出して書いてみました。ワタシの高校野球【第1期】は平成元年、2年ぐらいまで、そこからしばらく間を置いて【第2期】ということになるでしょうか。子供のころからの地続きでもある【第1期】の後期、昭和60年代はかなり思い入れのある時代で、書いているとどんどん『ああ、こうだったなあ』というのが思い出されて、楽しくなっちゃって記事も長くなっちゃいます。とりとめがない……といった方がしっくりくるでしょうか。
【第2期】は自分の中では97,8年ぐらいからと規定しているのですが、この頃からすっかり高校野球も形を変えていき、試合の規定一つをとっても延長18回から15回へ、そして12回タイブレーク制へと変遷してきました。
またこういういい方はどうかとも思いますが、より『プロ化』に近いようなことが進んで、かつてのような「わが町の野球小僧たち」なんてチームはほとんど甲子園では見受けられなくなりました。まあ、野球人口も減ってきて大会参加チームも年々減ってきているというのが現在の姿ですね。
そんな中で30年前を振り返るという作業、その頃のことが頭の中によみがえりながら、楽しく書いています。(まあ、あまり詰めて書くのはしんどいので、不定期でゆる~く上げていきます)
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