こんなにも言葉にならない感情に揺さぶられたのは、北京オリンピック以来だ。
羽生くんの単独アイスショー「プロローグ」の千秋楽。ライブビューイングで観戦してきた。プログラムや演技など、これ以上ないほどに美しく、心を打つものばかりで、いつかきちんと書き起こしたいとは思っているけれど、今回はこのなんとも形容し難い胸のざわめきを少しでも形にできたらと思って…全ては、北京落ちの私が知りうる範囲で感じた、プロローグ千秋楽の羽生結弦という人への勝手なイメージだ。
以前、私はこのブログ内の「北京オリンピックでの羽生くんに思うこと」で、羽生くんのことを、まるで殉教者のようだと語ったことがあった。そう、あの時はまだ知らなかったんだ。あの時はまだ、彼がフィギュアスケートを崇拝し、跪いているのだと思っていた。でも、そうではなかった。プロローグの千秋楽で彼が見せたのは、過去の栄光でも、過去のプログラムでもない。その手のひらからこぼれ出たものは、現実であり、苦悩であり、願いだった。そして、彼こそが、癒やしであり、救いであり、希望だった。
風雪に晒されようとも、いわれのない盲信で謗られようとも、決して損なわれることのなかった輝きは、フィギュアスケートという競技の枠を越えて、私達が胸に抱える葛藤や痛みを導く光だった。フィギュアスケートに跪く殉教者などではない。その人生をかけて、夢と癒やしの世界へと導く希望の光だった。鎧ひとつ纏うことない生身の姿で美しく輝く希望の光だった。
望んでたどり着いたわけではないだろう。もっと違う未来を夢見たこともあっただろう。夢は必ずしも叶うものではないと語った言葉こそが、等身大の彼なのかもしれない。けれど、幼い頃からただひたすらに夢を追い求めた彼がその手につかんだものは、勝利や金メダルだけではなかった。きっとそのことに、彼自身も早い段階で気付いていたのだろう。漠然としたものであったとしても。
等身大の自分でありたいという気持ちと、図らずも足をかけてしまった与え癒やすものとしての道のはざまで、もがき苦しんだ日々がどれだけあったことだろう。そして、そのどちらも手放すことなくあり続けるために、どれだけのものを諦め、どれだけの努力を重ねたのだろう。至高の芸術を体現する稀有な存在でありながら、1人の青年として恐れや弱さも隠さぬ潔さ。今日、あのリンクの上で訥々と想いを語る彼の瞳には、一寸の迷いもなかった。羽生結弦という青年は、生身の等身大の27歳の青年であり、そして、柔らかく降り注ぐ希望の光だった。
こんなにも心揺さぶられ、魂をつかまれ、愛しいと思える存在に出会えたことを、何に感謝すればいいのかと、呆然と嵐のような感情の渦が通り過ぎるのを待つしかなかった。その輝きを尽きるまで絞り出し、見るものを優しい光で包みながらも、決して神の衣を身に纏うことをしない、人間くさい危うさと潔さに、心奪われるばかりだった。
これは、彼のプロローグだ。さらなる高みへと進むためにどうしても必要だった1つのセレモニーだ。彼はきっとこれからも、己自身と進むべき道とのはざまで悩み、もがきながら進んでいくのだろう。そして、そんな姿を惜しげもなく見せては、はにかんだ笑顔で感謝の言葉を述べるのだろう。どんなに至高の演技を見せようとも、どれだけの人を癒やしの光で包み込もうとも、彼はただ、羽生結弦という1人の青年として、氷の上に立ち続けるのだろう。
…ここまでしか形にならなかった。
これから先は、未知数。彼が見せてくれる次のステージを心待ちにするだけ。願わくは、その輝かしい道の先に、彼を悩ませ苦しめるものがありませんように。心穏やかに、信じる道を進んでいけますように。
全ては、北京落ちの羽生ファンがプロローグ千秋楽で見た夢の話…。