わたしんちの医学革命と雑多な情報

「医学革命」とは薬からの解放への「個人の気づき」の事である。雑多な情報も「取捨選択」&「鵜呑み厳禁」はセルフサービスにて

現代医学の基本的な誤りとは

2009年02月17日 | 岡田茂吉医学論研究会用
どうしても岡田茂吉というと、宗教家という観念が一般には行き渡ってしまって、

論文にしても、その中に「神様」とか「本教」とか「お陰話」とかいう言葉が出て来るために、

一般人にそれが一種の「垣根」「ハードル」となってしまうのでしょう。


 岡田茂吉というと、世界救世(メシヤと読ませた)教の教祖であったために、信者さんの中では信じられてきた医学論も世間一般にはとても認められないでいたというのが事実だったと思います

 岡田師は(岡田先生と書いた方が良いのか?、師はどうしても宗教信者臭くなるので)昭和の初期あたりから既に現代医学の誤りを説いていたそうですが、論文としては昭和10年頃から本格的に残されたものがあります。


 しかし、やはり戦後の一応自由な社会に歩み出した昭和20年半ばからの医学論文が本筋なものかも知れません。

 医学関係の論文は今でさえもかなり、一種の「危険思想」的な見方をされていたようで、「クスリは毒だ」とか「薬が病気を造る」などという言葉自体がそもそも一般社会には受けいれられない時代にあったわけです。


そのうえに、「浄霊法」などと呼ばれる「手かざし法」で誰でも病気治療ができるなどという話しには「インチキ」的なうさん臭い迷信宗教に見られてしまったのでしょう。


それは時代が過ぎて教祖亡き後、お弟子さん達がいろいろな後継団体をつくり同じ様なことを言ったり行ったりしても、やはりそれはある種の信仰の団体の中だけに通用する「教え」「教義」で終わっていたと思います。


その証拠に21世紀になって数年、未だに現代医学は立派な科学であると世界中で認められているのが現実です。


岡田先生が現代医学の根本的な間違いを説かれてからおそらく80年は過ぎてしまったでしょう。

その岡田論文中の医学論の要となる「現代医学論」をご紹介して、もちろん「取捨選択」の自由をもとにしての「研究」材料にすることが基本的姿勢ですから、「宗教的な面」」等は出来るだけ省いて肝心要のところを抽出してご紹介したいと思います。


まずは

現代医学論から医学の根本的な間違いとは何かを


ーーーーーーーーーー以下引用ーーーーーーー
ご注意、スキャンによるので誤字もあります。
全文は本(市販されたもの)にてお読みください。

<title>現代医学論</title><style type="text/css" media="screen"></style>

現代医学論


   (中略)

此の論文を見る第三者としては、余りに想像もつかない程の、驚異的理論なので、其の儘受入れる事は到底出来ないであろう。

 そうして全文を通じて、現代医学が如何に誤っているかを徹底的に剔出したのであるから、一般人は固より専門家に至っても余り驚異的で信ずる処ではあるまい。



故に医学の進歩を謳歌している現在、此の様な論をなすものは、狂人でない限り世界中何処を探しても先ずあるまい。


然し乍ら事実は飽迄事実である以上発表しない訳にはゆかないのである。

何となれば、何れは世界人類悉くが、知る時が来るのは間違いないからである。


又私が此の素晴らしい福音を発見したという事は、重大な意味がなくてはならない。

全く神の恩恵でなくして何であろう。そうして一日でも早ければ早い程、それだけ人類の不幸は軽減されるのである。


 以上の意味によって、専門家諸君が心から理解のゆく迄は一個の新しい学説として、参考とされたいのである。


又此の事に就て、私は目下文明の創造なる題名の下に一大論文を執筆中で、完成の上は全世界の学界は固より、ノーベル賞審査委員会にも提出するつもりである。

恐らく世界の医学界に対する原子爆弾であろう。之によって、真の医学の確立となる事は、断言して憚らないのである。此の著は一言にしていえば終末期に際し、医学の真理を神が開示されたと思えばいいのである。




 偖て、愈々本文に取掛るが、先ず之から説く処の私の説であるが、之を読む前に、今迄の既成観念を悉く払拭し、白紙となって読まれたいのである。些かでも既成観念があると、それが邪魔となり、反感が起ったりして肯き難い事になるからである。



現代医学の病気を治そうとする其の手段方法が実は病気を作る方法になるである。



昔から医は仁術と言い、洵に聖なる業としていたものが、実は其の反対の結果を招来するとしたら、人類にとって之程重大問題はあるまい。




 処が抑々病気とは何ぞやというと、神示によれば人間が先天的及び後天的に保有せる毒素の、自然排除作用による苦痛を名付けたのである。


処が之に気が付かなかった人類は、之と反対の解釈をしたのが、既成医学の観念である。


従って医療を施せば施す程反対の結果となり、病状は益々悪化するのである。



此の理によって、病気に罹っても放置しておけば、毒素は順調に排除されるから病は速やかに治り、健康は増進するので、之が真理であるから此の理に反した療法によって苦るしんで来た文化民族の盲点は何と評していいか言葉はないのである。


  (中略)


そうして人間一度病気に罹るや、誰しも先ず医師にかかるが、簡単に治るものと、容易に治らないものとが出来る。

勿論何れにせよ、全治とか根治とかは殆んどないといっていい。

例えば、寒冒に罹るとすると一旦治っても時を経て必ず再発する。恐らく寒冒のような軽いものでさえ、治り切りにはならないばかりか、寧ろ再発するごとに漸次悪化の度を加え、不幸な人は初期結核にまで発展するのである。

近来の如き結核の激増がそれをよく物語っている。

そうして一番厄介なのは、寒冒が拗れる場合である。これしきの病気でグズグズしているなんて馬鹿々々しいと焦りが出るが、之が非常に悪い。

何となれば焦る程薬を余計に用いたり、間違った手当てをするからである。

そこで之は医者が下手だと思い、医者や病院を取換えるが、事実は換えれば変える程、悪化の度を増すばかりである。


  (中略)




然らば医療が何故予想と反対の結果になるかというと、言う迄もなく、薬剤が其の主なるものである


元来薬なるものは一つもない。


全部毒であって、之は医学でも大体認められている。


つまり毒の力をかりて一時的苦痛を押えるのである



処が実際には、苦痛を緩和する事と、病を治す事とは根本的に異うのである。

 


それを知らない医学は、苦痛が減るのを病が治るものと錯覚し、苦痛を減らす事のみ専念し、研究を続けて来たのである。



 だから苦痛を減らす方法は益々進歩するが、肝腎な病の方は、治らないままである

此の原理を私は発見したのである。


処が厄介な事には其の薬毒が残存して、それが病源となる。

というのは其の薬毒の排除作用が病気だからである

何よりも少し病気が長引くと、余病が発るのみか、それが段々増えてゆき、遂には五つにも六つにもなって、どうにもならなくなるという実例をよく見受けるのである。


 斯うなると患者の苦るしみは大変なもので、結局生命を失うという結果になる。之等の点を既成観念に囚らはれる事なく冷静に検討してみる時、最初の病気が治らない内に余病が発るとは理窟に合わない話しではないか、本当に治るものなら、最初の病気が段々軽くなるから余病など発る訳けはあるまい。



 斯んな判り切った事に気が付かないのは、全く既成観念の虜となり、盲目となっているからである。何よりも事実がよく示している。見よ。現代人の多病なる事、どんな人でも一つや二つの病を有っていない人はあるまい。

又結核や伝染病に罹り易いのと、神経衰弱等の人間が益々増えるにみても明かである。


今は故人となった当時の名医入沢達吉博士の著書の中に斯ういぅ事が出ていた。


それは「医学がなくなればそれに伴って病人もなくなるであろう」との一節で大いに玩味すべき言葉であろう。



  (中略)



 (昭和二十六年五月二十三日 栄光 一〇五号掲載発表)


DATE:2009/02/16 23:27
URL:http://akyoon.hp.infoseek.co.jp/ij005.htm

ーーーーーーーーーーーー引用終わりーーーーーーーーーー

 




 


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